「韓国スパイ事件」フジテレビ支局長は逮捕され、私は“黒幕”に仕立て上げられた

文春オンライン / 2019年7月27日 5時30分

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金泳三大統領 ©文藝春秋

“輸出規制措置”への対抗策? 韓国が「日本人防衛駐在官スパイ事件」を政治利用か から続く

 1993年にフジテレビのAソウル支局長と、韓国国防部の情報将校B海軍少佐がスパイ容疑で韓国当局に逮捕された事件――。韓国メディアの報道によって、その直前まで韓国に防衛駐在官として赴任していた私はこのスパイ事件の“黒幕”とされてしまっていた。

 一体なぜ、このようなことが起こったのか。

軍部主導か、それとも青瓦台主導か?

 私は当初、この事件摘発の背景について、「軍部主導」であると推論し、次のようなシナリオを考えていた。

 事件摘発当時の韓国では、長い軍事政権が続いた後の初めての文民大統領である金泳三の登場で、韓国軍に対する積年の世論の恨み・反発などが顕在化しつつあった。特に韓国軍に対し、情報公開を求める圧力が高まりつつあった。

 私は、韓国軍が情報公開の圧力を回避するための手段としてこの事件を世に出したのが真相ではないかと考えていた。また、摘発のタイミングは、外交官特権を有する私の帰国直後にしたものと考えた。

 しかし、B元海軍少佐はその後、自身の著書の中で、私の見方とは異なった見解――「金泳三大統領と国家安全企画部(KCIA)主導説」を述べている。以下、B元海軍少佐の著書より引用する。

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 背景にあったのは、軍の情報機関と政府の安全企画部との間に深い溝があったという事実です。朴正煕、全斗煥、盧泰愚と続いた軍事政権時代、政府の情報機関である安全企画部は、軍の情報機関(国軍保安司令部)に牛耳られて来ました。

 長年のそうした歪んだ関係は、安全企画部の中に抜き差しならない劣等感を植え付けていたのです。そして、その劣等感に火をつけたのが、金泳三政権の誕生でした。

 文民政権である金泳三政権になると、安全企画部は露骨な「軍事バッシング」を始めました。しかも、金泳三大統領自身にも軍部に対する劣等感と嫌悪感があって、政治的に軍部を牽制する必要性も加わり、バッシングはエスカレートしていったわけです。

 一方で、軍事政権から文民政権へと移ったことは、軍部の中に不満を燻らせる結果にもなりました。軍部の不満を察知した金大統領は、将来起こりうる軍部の抵抗や反発(筆者注:クーデターなど)が、政権の政治基盤を脅かしかねないと危惧したのですね。

 それに、軍隊経験のない金大統領に「文民出身の大統領」という弱いイメージがあったことから、政治的に軍を掌握しているのだという印象を国民にアピールする必要がありました。

 加えて、軍事政権によって、30年以上にわたり政治的に蚊帳の外に置かれていた金大統領には、過去の軍事政権に対する強烈な報復願望があったのです。この大統領の願望と安全企画部の怨念が、「軍部の粛清」という形になって表れたわけです。

◆◆◆

 ここに綴られているB少佐の言葉を私なりに補足したい。

軍と大統領の熾烈な権力闘争

 5・16クーデターで政権を掌握した朴正煕の支配体制を支えたのは、軍の情報機関――陸・海・空軍保安隊(後に国軍保安司令部から機務司令部へと変遷〔KCIC〕)と中央情報部(後の国家安全企画部〔KCIA〕)であった。朴大統領政権下では、KCIAが優位を占めていた。

 ところが、1979年10月、朴大統領はこともあろうに、最側近であるはずの中央情報部(KCIA)トップの金載圭部長に射殺された。

 これを契機に、1979年10月の粛軍クーデターにより誕生した全斗煥大統領は、朴元大統領を殺害したKCIAに対する懲罰の意味と、クーデター当時自らが司令官(少将)として任じられていた国軍保安司令部(KCIC)に対する愛着からか、KCICをKCIAの上位に位置づけた。

 縦割りの行政組織が自己主張する以上に、情報機関同士の縄張り争いは熾烈である。KCICの「風下」に置かれたKCIAの怒りと屈辱が窺い知れる。KCIAは、ひそかに「打倒KCIC」の策を胸に秘め、文民大統領誕生の到来を待っていたのだ。

 本来、過去に厳しい弾圧を加えられた金泳三は、KCIAとは敵対関係にあった。しかし、大統領当選後、金泳三は政権維持のためにKCIAと手を組んだものと思われる。そして、金泳三とKCIAの共通の敵で、クーデターをやりかねない、韓国軍とその情報機関のKCICを徹底的に叩いて、「牙」を抜こうとしたものと思われる。

 両者は、韓国軍とKCICのメンツを潰す“決め手”として、「日本の駐在武官によるスパイ事件」を国民に曝すことを考えたのだと思う。

 つまり、このスパイ事件の本質は、韓国軍対KCIA・金泳三の「権力闘争」であったのだ。A元フジテレビソウル支局長とB元海軍少佐はその犠牲者だったのだ。

叙勲授与式の取り止めは事件の“予兆”だった

 今から振り返ってみると、スパイ事件が表面化する予兆はあった。

 韓国を去る直前の小さな出来事だった。私は、韓国国防部から「保国勲章」(国家安全保障に明確な功を立てた者に授与する。1~5等級がある)の授与を予告されていた。勲章は、韓国国防部で国防部長官から授与される予定だった。

 その直前に、武官連絡室長から呼ばれた。室長は、微塵も違和感を抱かせることなくこう告げた。「国防部長官から『福山大領は、武官団長を歴任されるなど立派な功績を残されたので、私から授与するより、帰国後、防衛庁や外務省関係者も立ち会いのうえ、在日本韓国大使から授与するようにせよ』という指示があった。ついては、国防部における叙勲授与式を取り止めにしたい」。

 私も異論はなく、厚意に感謝した。だが実際は、韓国政府・国防部はスパイ事件の立件を水面下で着々と進めながら、私に叙勲を授与しない方策を考えていたのかもしれない。スパイ関係者に叙勲を与えてしまえば、大きな失敗だと世論に指弾されたことだろう。

「当面、叙勲を授与したことは公表しない」

 叙勲については、後日談がある。事件後しばらく経って、当時の陸上幕僚監部調査部長の将補が駐日韓国大使館側と粘り強く交渉して、私に保国勲章をもたらしてくれた。それには、大統領の紋章(2羽の鳳凰の間に槿の花)付きの「恩賜の時計」が添えられていた。

 韓国側は、「当面、福山大領に叙勲を授与したことは公表しない」という条件をつけたと聞いた。水面下であったにせよ、韓国国防部が私に勲章を授与したことから判断して、このスパイ事件は、B氏の主張する「大統領・国家安全企画部(KCIA)主導説」が正しいような気がする。

陸上幕僚監部による尋問

 事件が報道された後の、私のことについて話そう。韓国から送られてきた韓国主要紙の一面トップに、自分の名前が韓国語と漢字で書かれているのを見せられた時は、名状し難い複雑な思いだった。私は辞職までも覚悟したが、外務省と防衛庁内局が擁護してくれた。

 当時の外務省北東アジア課長の藤井新氏(故人)は、「福山さん、あなたがやったことは、国際的には常識の範囲内です。我々は韓国との外交関係を多少損なうことも辞せず、あなたを擁護しますから」と言ってくれた。

 また、当時防衛庁内局調査一課長だった安藤隆春氏(警察庁からの出向。後に警察庁長官)も同様に力強く私を励ましてくれた。ありがたかった。

 スパイ事件に対する外務省の対応のみならず、合計5年半にもおよぶ外務省での奉職(北米局安全保障課で2年半、韓国大使館で3年)を通じ、外務省からいただいた格別の厚遇については、今も感謝の念は変わらない。

 これとは対照的に、陸上幕僚監部は冷淡だった。まるで私を犯人扱いするようだった。私の韓国における情報活動や入手した情報の細部などについて、尋問し調書まで作成し、署名・捺印まで求めてきた。

 この事件に対する新聞やテレビの対応は、極めて冷静だった。むしろ、抑制してくれているようにも感じられた。韓国の報道ぶりを引用した、簡単な記事・報道内容だった。私の名前も「F」とイニシャルだけで通してくれた。

 あるいは、これが報道上のルールだったのかもしれないが。このようなメディアの姿勢を、私は、「ソウル戦線」でともに戦った支局長達の、無言の「戦友愛」と受け止めていた。

 国内では、「週刊新潮」のS記者を除いて、一切の取材はなかった。私にコンタクトして来たS記者は、陸上幕僚監部広報室勤務時代以来の友人だった。

「福山さん、まさか私の取材を受けるはずがないですよね」

 コーヒーを飲みながらのS記者の取材はこれだけで、後はよもやま話で終わった。

 いずれにせよ、このような経緯で、私は辞職に追い込まれることもなく、予定通り、市ヶ谷の第32普通科連隊長に就任することとなったのだった。


 福山隆氏も参加した 「文藝春秋」4月号 の座談会、「『日韓断交』完全シミュレーション」では、元韓国大使の寺田輝介氏、韓国富士ゼロックス元会長の高杉暢也氏、同志社大学教授の浅羽祐樹氏、産経新聞ソウル駐在客員論説委員の黒田勝弘氏が登場し、現実的な「日韓のあり方」を詳細に検討している。

文在寅政権下での「スパイ事件」日本の駐在防衛官はなぜ追放させられたのか? へ続く

(福山 隆/文藝春秋 2019年4月号)

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