怪写真も残る謎多き「朴烈事件」2人の若者が叫び続けた”差別”と”貧困”のすべて

文春オンライン / 2019年8月4日 17時0分

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映画「金子文子と朴烈」ポスター 日本公式サイトより

解説:差別と貧困、声をあげた若者は「力」に押しつぶされた

 今年2月、韓国映画「金子文子と朴烈」(イ・ジュンイク監督)が日本公開された。朴烈と金子文子の「大逆事件」を正面から取り上げ、韓国では2年前に公開され、観客235万人を動員する大ヒット。日本でもミニシアター上映の韓国映画としては異例のヒットで、作品の評価も高かった。筆者も興味深く見たが、日本ではまず製作は無理な題材を映画化したことに感心した反面、2人は無政府主義者(アナーキスト)とされたのに、映画では「日本の植民地支配に抵抗し、独立を求める民族主義者」の面がより強調されて描かれていたのが気になった。

 確かに、朴烈は「俺は最初、民族的独立思想を抱いていた。次いで広義の社会主義に入り、その後無政府主義に変じ、さらに現在の虚無的思想を抱くようになったのだが、いまでも民族的独立思想を俺の心底からぬぐい去ることはできぬ」というような思想遍歴をたどった(予審尋問調書)。一方で、文子の獄中手記『何が私をこうさせたか』によれば、文子は2度目に会った時、朴に「あなたは民族主義者でしょうか?」と聞いている。自分は朝鮮人ではないから、「あなたがもし独立運動者でしたら、残念ですが、私はあなたと一緒になることができないんです」と。これに対して朴は「僕もかつては民族運動に加わろうとしたことがあります。けれど、いまはそうではありません」と明言している。尋問の中では2人とも「無政府主義ではなく虚無主義」とも強調している。どれが本当なのか。いずれにしろ、反日の流れが強い現在の韓国では、民族主義者の面を強調した方が国民に受けるのは間違いないのだろう。

今でもいくつかの謎が残る「朴烈事件」とは

 その点に限らず、この事件はナゾが多い。2人の「犯罪」は、関東大震災後の混乱の中で、さまざまな思惑から「大逆罪」をでっち上げられたというのが定説。2人に死刑判決を出した大審院の牧野菊之助裁判長は「十数年前幸徳秋水を出し、さらに難波大助が現れ、今また朴烈のような人間が出たことは誠に遺憾に堪えぬ」と語った=1926(大正15)年3月26日東京日日夕刊。そのいずれも「大逆事件」だが、他の2件は多少なりとも実行行為があった。しかし、朴烈事件はほとんど思いつきで爆弾入手を考えただけ。震災時の保護検束から始まって大逆罪まで、犯罪が“製造”された感が強い。弁護人の布施辰治弁護士は「いかなる大逆不逞の思想といえども、これを実行に移さない中は、最大最悪の不敬罪であっても、大逆の犯人とはならない」と雑誌『改造』上で述べた。事件そのものよりも、それを政治的に利用しようとするさまざまな動きが入り乱れたのが事実だった。その結果、差別と貧困の中から声をあげようとした若者2人が、政治やメディアなどの「力」に翻弄され、押しつぶされた印象が強い。翻って、格差と貧困など、数多くの問題を抱える現在の若者はどうなのだろうかと、考えてしまう。

「不快」か「なごやか」か 事件を象徴する怪写真の真偽

「両人が和服姿に晴れやかな微笑を浮かべ、朴がイスに座したる上に文子が腰を下ろし、一見春画を見る如き不快を感ぜしむるものである」1926年7月30日の報知新聞は、前日29日に政治家や報道関係に投げ込まれた怪文書に載った朴烈と文子の写真について、「朴烈と金子文子の奇怪な写真配布さる」の見出しで報じた。「これは偽写真だ」「偽ものと断言する」という刑務所長や法相の談話も。同じ写真を『明治百年100大事件』は「親しい関係の男女の愛情がこぼれるような、なごやかな写真である」と書いた。「不快」か「なごやか」かは大きな違いだが、見る側の先入観と意図で変わるのだろう。

 怪文書は「『大逆事件の共犯者である朴烈と文子の両人は男囚監と女囚監に別れて収容されているはずであるにもかかわらず、この二人の面会を許し、或は入浴等も自由にさせるなど、不当に好遇を与えている、これは刑務所の紀律が甚しく紊乱している証拠である』として政府の責任を追及したものであった」(『警視庁史 大正編』)。最初に報道した報知も「あまりに奇怪な写真であるがため、あるいはためにせんとする者の巧妙な偽造かとも思われる」が、本物であれば「司法当局空前の大失態で、当局の責任は到底軽微ではすまざるべく、必ずや重大な結果をもたらすであろう」と予測した。同紙は「あまりに醜怪な右の写真を国民の前に公にするに忍びず、あえて掲載しない」と写真を載せなかった。

政争を引き起こした大事件の末路

 当時は憲政会の第1次若槻礼次郎内閣。大正天皇の病状が日に日に悪化し、結果的に大正最後の年となったこの年は、大阪・松島遊郭移転に絡む疑獄事件と、陸軍機密費横領事件が表面化し、与党と野党政友会の間で足の引っ張り合いの泥仕合に。期待された「2大政党時代」は名ばかりになっていた。その中で「社会的反響が大きく、また政治的影響が最も大きかったのは朴烈怪写真事件だった」(筒井清忠『戦前日本のポピュリズム』)。「政友会が政府攻撃の具に供して政治問題化し、世に大きな波紋を投げたのであった」(『警視庁史 大正編』)。その後、怪写真は、本編に登場する立松懐清・予審判事が、2人が同席するのに便宜を図った上、自分で撮影。獄中の朴から人手を介して外部に出たことが分かった。連日、国会内外での追及と反撃、新聞の過熱報道が繰り広げられた揚げ句、立松判事は追い込まれて辞職。さらに8月末、首謀者として国家社会主義者の北一輝(二・二六事件で死刑)が検挙され、翌27年1月には内閣不信任案が提出されるなど、泥沼の政争の最大の原因となった。

 実は金子文子は怪写真が出る6日前の7月23日、収監されていた宇都宮刑務所栃木支所の監房で首つり自殺していた。23歳だった。新聞各社の報道は怪写真とほぼ同時。朝日の31日夕刊は1面トップで「鉄棒に麻糸をかけて朝の光の下で縊死 わづか十分間余の監視の眼を盗んで獄死を遂げた金子文子」と報じ、その右下2段で「怪文書犯人 大捜索を開始す」と警視庁の動きを伝えている。遺書などはなく、動機ははっきりしないが、想像はできる。本編にある「英雄主義」以上に、自分たちが否定していた天皇の名で恩赦を受けてまで生き延びたくなかったように思える。幼いころから父母に見捨てられて貧しく寂しい、砂をかむような人生を強いられた。特に、7年間にわたる朝鮮の叔母の家での「地獄」のような体験は、肉親による仕打ちだっただけに大きかったのではないか。それを本編のように「特異な性格」で片付けられるのか。「今度の事件を具体化したような(ことを)未然に防ごうと(いう)思し召しなら、この際です。私を殺してしまわなければ駄目ですよ。私に何年でも牢獄生活をさせても、再び私を社会に出したなら、必ず必ずやり直してお目にかけますよ」と文子は立松判事に“宣言”している(予審尋問調書)。

「朴烈事件」を取り巻く”誤認”の数々

 その点に限らず、今回の本編には問題が多い。著者の江口渙氏は、1933年に虐殺された作家・小林多喜二と親交が深く、葬儀委員長も務めた左翼作家で、無政府主義にも理解があったが、朴烈事件との関わりは不明。記憶を基に書いたようだが、記述には誤りが多い。朴烈の生年は1902(明治35)年なのに、1899(明治32)年としている。文子の故郷も静岡県ではなく横浜。自殺も「6月のはじめ」ではない。文中「愛人金子文子」とあるが、2人は獄中で結婚している。特別裁判初公判の日付も誤っている。よくこういう原稿がチェックされずに掲載されたと思う。2人が大逆罪に問われた理由が関東大震災時の朝鮮人虐殺の理由づけだったことや、その罪状を2人が自分から引き受けた経緯は、作家らしい筆致で説得力があるが、いずれも1つの見方だろう。

 問題が多いといえば、この事件の新聞報道もそうだろう。「事件」を最初に報じたのは、震災から約40日後の1923年10月10日の朝日夕刊か。検閲で文字が一部消えているが、1面2段で「大〇〇発覚 全国的に大捜査」の見出し。どうしてこの事件と分かるかというと、「急電を発して逮捕したるを初め市外代々木富ヶ谷某所から〇〇」とあるためだ。当時、朴烈、文子夫婦はそこに住んでいた。「内容は○○○〇の○○○〇よりなる○○○〇の大陰謀が発覚せるもので……」。特ダネを検閲でズタズタにしたのか。ただ、予審尋問での陳述状況と突き合わせると疑問もある。記事が全面解禁になったのはそれから2年以上たった1925年11月25日夕刊。「鮮人朴烈等にかかる恐るべき不敬事件 震災に際して計画された鮮人団の陰謀計画【本日記事差止め一部解除さる】」(朝日)、「震災渦中に暴露した朴烈一味の大逆事件 罪の裏に女!躍動する朴烈が内縁の妻金子ふみ」(東京日日)。朝日に「大逆罪」の記述がなく、東日は「金子ふみ」としているのが不思議。「鮮人」という差別語が大手を振って紙面に登場していた。大審院の特別裁判初公判は26年2月26日。「朴夫妻、朝鮮礼装で裁きの庭に晴れ姿 士扇を斜に得意げに入廷」(27日東日夕刊)。「鶴を織った紫の朝鮮服に黒の紗帽という礼装で、手に紗扇を持ち刺繍のある白靴を穿ち……」(同日時事新報)。本編で判決の日の服装のように書いたのは、この初公判の日のことだ。

後の「大本営発表」に通じるメディアの態度

 第一審で最終審である公判は4日連続で開かれたが、冒頭の6分以外は非公開。27日朝日朝刊は「聞くところによると、朴も文子も憎々しいまでに落ち着きはらって恐ろしい企てを述べたらしく」と先入観丸出し。28日の東日夕刊も、2人が2日目は和服だったことからか、「飽くまでも…お芝居気分……出廷した朴夫妻」の見出しを付けた。同年3月25日、判決。「満廷を見渡していた金子文は淋しくひとみを落とし、何やら小さい声で口ずさみながら双手を動かし、続いて朴も『裁判長ッ……』と言いかけるや遅し、廷外に引き出され、さびしい後姿に一生の名残りをとどめて刑務所へ送られた」と26日朝日夕刊1面トップ記事は書く。これに限らず、紙面での2人の表情を「寂しい」と表現した記事が目立つ。「天皇、皇太子を襲おうという、天人ともに許さざる不敬の重大犯罪だが、境遇には同情を禁じ得ない」という認識が記者にあったようにもとれるが、「本当は冤罪では?」という疑問が根底にひそんでいたのではないか。

 あざとさが表れたのは恩赦決定の場面。「聖恩逆徒に及び朴烈夫妻は減刑」「仁慈に富ませられる雲上の思召(おぼしめし)はこの逆徒の上にも加えさせられて、特に減刑の恩命が降ることとなった」(3月26日東日朝刊)。そして、恩赦を言い渡した際の記事。「『死から生へ』の輝く歓喜」「かねて死を覚悟していた彼らではあったが、出し抜けの恩命を拝した時は、死より生への歓喜がサッと走って、しばらくは感謝の眼をしばたたいていた」「再び監房に下げられる時の両名の足どりはさすがに軽かった」と4月7日東日夕刊は書く。刑務所長の談として「さすがにあるショックを感じたらしく、ヒョイと顔をあげ感謝の色を現わし、快くお受けして引き下がったが、文子は『ありがとう』と口ごもったようにも思った」と付け加えた。「文子は天皇からの特赦状を受け取るや、刑務所長の目の前で破り捨てた」という弁護士の証言とどちらが真実に近いのか。自殺という結果から見ても明らかだろう。文子は以前から短歌を作っており、判決を受けた時のことを「我が心嬉しかりけり公判で死の宣告を受けし其の時」と詠んでいる。「天皇の恩沢」を強調するとしても、ここまで書くか。メディアの態度はのちの大本営発表の受け売りにまでつながる。罪は重い。

出所後の朴が歩んだ社会運動家としての人生

 文子の死後、朴は4カ所の刑務所をたらい回しにされた。獄中で詠った短歌には、ある種の諦観と落ち着きが感じられる。「此の我が身秋の木の葉と散るならば春咲く花の肥やしともなれ」。日本の敗戦後の1945年10月27日、秋田刑務所大館支所から出獄。獄中にあったのは22年2カ月間で、政治犯として最長記録という。結成されたばかりの「在日本朝鮮人連盟」秋田県本部は大館駅前に1万7000人を動員。「朴烈出獄歓迎会」を開き、市内をパレードした。「祖国解放」のシンボルで「在日朝鮮人のスター」に祭り上げられたということだろう。その後、思想信条の違いなどから在日朝鮮人の間で対立が深まり、朴烈は一派に推されて「新朝鮮建設同盟」の委員長に就任。46年10月、改組された「在日本朝鮮居留民団」の初代団長となった。当時、大韓民国臨時政府の国務総理だった李承晩を支持し、同政府の国務委員にも就任した。

 しばらくして、年の離れた女性と再婚。一男一女が生まれた。しかし、長い獄中生活の影響は大きく、「彼は独断であり、憎愛が極端であり、偏狭性のために、多人数を統率する人格を欠いている」(金一勉『朴烈』)と長年の親友が語るように、偶像的人気はあったが、指導的人格は欠けていた。1949年の団長選挙に破れて組織を追われ、帰国。1950年の朝鮮戦争の際、逃げ遅れて北朝鮮に連行された。平壌で「南北平和統一委員会」の副委員長を務めたといわれる。1974年1月17日、死去。文子の死から48年がたっていた。満71歳のはずだが、1月18日の朝日夕刊に写真入りで載った「新亜=東京」の訃報は、「平壌放送が発表」とし、「77歳」としている。「『在北平和統一推進協会』の会長となっていた」とも。「大逆事件の首謀者」「民族独立運動の英雄」という「看板」を徹底的に利用され、自分も利用した後半生だったようだ。それだけ「朴烈大逆事件」のインパクトは強大だった。だが、それで本人は満足だったのだろうか。

「私は犬ころである」朴烈と金子文子の出会いから2人の関係

 東京の片隅で生きるために、朴がこなした仕事は本編にあるが、文子も仕事を転々とした。新聞の夕刊売り、夜店での粉石鹸売り、「女中」、印刷屋の植字工、女給、朝鮮ニンジン販売……。いまで言うなら、2人とも底辺の非正規労働者だった。文子は「犬ころ」という詩の作者として朴を知った。「私は犬ころである。空を見てほえる。月を見てほえる。しがない私は犬ころである……」。2人は文子が働いていた新宿のおでん屋で会い、意気投合。すぐ同棲生活に入った。「私の探しているもの、したがっている仕事、それはたしかに彼の中にある。彼こそ私の探しているものだ。彼こそ私の仕事を持っている」と文子は『何が私をこうさせたか』に書いている。この時、それぞれ朴は20歳、文子は19歳になったばかりだった。朴は「彼女の虚無思想的気持がおれのそれと一致しているのを知って、同志として共同生活をすることを決意した」。文子も「幾度か朴と主義思想を論じ合いましたが、朴はほとんど私と同様に権力に反逆して生物の絶滅を期する思想の持主でありました」と述べた(予審尋問調書)。

 朴は黒濤社の機関誌「黒濤」を2号出した後、1923年に「不逞社」を結成。機関誌「太い(ふてえ)鮮人」を出した。差別語を逆手にとったわけだ。創刊号で朴烈は「『太い鮮人』発刊に際して」と題し、「日本の社会でひどく誤解されている『不逞鮮人』が果して無暗に暗殺破壊、陰謀をたくらむものであるか、それともあくまで自由の念に燃えている生きた人間であるかを、我々と相類似せる境遇にある多くの日本の労働者諸君に告げるとともに」(以下、検閲で抹消)と述べている。これは建前ばかりだとは思えない。文子も第2号に「所謂不逞鮮人とは」の見出しでもっと戦闘的とみられる文章を書いているが、抹消部分が多く、完全には意味が読み取れない。ただ、2人の関係は終始、文子の方が“腰が据わっている”印象。本編で書いているように、実際も文子がリードする形で朴烈に覚悟を迫っていたのかもしれない。

現代にも通ずる”若者をとりまく絶望”にもがいた金子文子

 予審尋問調書や獄中手記を読んで驚くのは、金子文子の高い精神性と現代性だ。死後5年の1931年に出版された『何が私をこうさせたか』は、その3年前に発表された林芙美子の「放浪記」と好一対といっていい。事件報道解禁直後の1925年11月25日の東日朝刊では、朴と文子の短歌が紹介されている。「友と二人 職を求めてさすらいし 夏の銀座の石だたみかな」「これ見よと いわんばかりの有名な 女にならんと思いしことあり」。これらの文子の歌は、朴の詩が萩原朔太郎の影響を受けているらしいのに対し、「啄木ばりであるのも面白い」と同紙に評された。その通り、「我が好きな歌人を若し探しなば夭(わか)くて逝きし石川啄木」という歌もある。そればかりでなく、私には、石川啄木が「時代閉塞の現状」で描いたのと同じような、若者を取り巻く絶望的な状況を文子も感じて、もがいていたように思える。文子は『何が私をこうさせたか』にこんなことも書いている。いまの若い世代が抱える問題意識とどこかで共通しているのではないだろうか。

「私は人のために生きているのではない。私は私自身の真の満足と自由とを得なければならないのではないか。私は私自身でなければならぬ」

本編 「朴烈文子大逆事件」 を読む

【参考文献】
▽小松隆二編「続・現代史資料3 アナーキズム【オンデマンド版】」 みすず書房 2004年
▽金子文子「何が私をこうさせたか=獄中手記」 春秋社 1931年 
▽金一勉「朴烈」 合同出版 1973年
▽布施辰治「怪写真事件の主点と批判」 「改造」1926年10月号
▽筒井清忠「戦前日本のポピュリズム」 中公新書 2018年 
▽警視庁史編さん委員会「警視庁史 大正編」 警視庁 1960年
▽松本清張監修「明治百年100大事件」 三一新書 1968年
▽我妻栄ら「日本政治裁判史録 大正」 第一法規出版 1969年 
▽鈴木裕子編「女性=反逆と革命と抵抗と」 社会評論社 1990年   

(小池 新)

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