モデル時代はいきなり水着姿に……女優20周年・米倉涼子が語った“2人の恩人”

文春オンライン / 2019年8月1日 11時0分

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44歳の誕生日を迎えた米倉涼子 ©文藝春秋

 女優の米倉涼子が先月1日から14日まで、ブロードウェイミュージカル『CHICAGO』で主演を務めた。米倉は2012年に同舞台の主人公ロキシー・ハート役にアジア系女優で初めて抜擢され、2017年にも再演している。3度目となる今回のブロードウェイの公演では、終演時に観客総立ちでスタンディングオベーションも起こったという(※1)。米倉の44歳の誕生日であるきょう8月1日には、大阪を皮切りに日本公演もスタートする。

 テレビでも、この10月より人気ドラマ『ドクターX~外科医・大門未知子~』の第6シリーズの放送が決まり、米倉扮するフリーランスの凄腕の外科医・大門未知子が2年ぶりに帰って来る。昨年は、『リーガルV~元弁護士・小鳥遊(たかなし)翔子~』で、弁護士資格を剥奪されたわけありの女性が、周囲の人々を動かしながらさまざまな事件に立ち向かう姿を演じ、好評を博した。このほか、映画化もされた『交渉人~THE NEGOTIATOR~』での刑事・宇佐木玲子など、米倉にはハマり役が多い。

 米倉はまた、2004年に『黒革の手帖』で主演して以来、松本清張原作のドラマの常連でもある。清張作品では数々の悪女を演じ、女優としてブレイクするきっかけとなった。だが、今年2月に放送されたテレビ朝日開局60周年記念のスペシャルドラマ『疑惑』では、これまでとは反対に悪女と対峙する弁護士の役を演じている。今年で女優生活20周年を迎え、求められる役もこれまでとは少しずつ変わりつつあるようだ。

いきなり水着姿にさせられたモデル時代

 米倉涼子は1975年神奈川県生まれ。4歳のころからバレエを始め、のちには谷桃子バレエ団に通った。デビュー前は芸能界には興味がなく、映画を初めて観たのも高校に入ってからというほどだったが、高校在学中の1992年、国民的美少女コンテストで審査員特別賞を受賞。これをきっかけに、まずモデルとしてデビューした。女性誌で専属モデルを務めたほか、ビールと水着のキャンペーンガールとして1年間活動したこともある。キャンペーンガールとして地方を回るなかで、いきなり水着姿にさせられたり、モデルの仕事でもっと自分を表現できないかと悩むこともあったが、のちに振り返って、この時期に精神力を鍛えられたと語っている(※2)。

 当時はビールのキャンペーンガールでもポスターなどで水着姿を披露していた時代である。そもそも、たとえ水着のキャンペーンでも、いきなり水着姿にさせるなど本来は許されないし、いまではキャンペーンガールが水着になること自体をとりやめる企業も増えたが、このころはまだそういう風潮があったのだろう。

 米倉が「女優宣言」したのは1999年、23歳のときだ。もっとも、初めて事務所からドラマ出演を打診されたときには断ったという。だが、モデルの活動を続けるうち、しだいに「ちょっと先に進んでみたい」と思うようになり、今度は自分からドラマに出たいと申し出た。米倉いわく、《モデルって「可愛い!」「キレイ!」「カッコいい!」というのしかない。私のムッとした顔とかまで受け入れてくれる場所はお芝居する方向なのかなと思っ》たのが、その理由であった(※3)。

「年齢を重ねることに希望が持てた」大ベテラン女優との出会い

 女優として活動を始めると、さっそく1年間に4本のドラマに出演し、体力的にはかなりタイトだったが、米倉はどうにか結果を出そうと必死だった。このとき《3年後には主役を張れるようになる。そのために、男になろう!》と目標を掲げる(※4)。念願かなって初の主演ドラマ(2002年放送の『整形美人。』)を勝ち取ったのは、目標どおり3年後の26歳のときだった。

 先述の『黒革の手帖』で初めて悪女を演じたのは29歳のとき。その後も多くのヒット作を生むことになるテレビ朝日の木曜夜9時台に放送された『黒革の手帖』は、第1回からいきなり17.4%の高視聴率をマークし、裏番組の人気ドラマ『渡る世間は鬼ばかり』を抜くなど、注目を集めた(※5)。同作への出演が女優としての転機とされることが多いが、当の米倉は、そう言われることについて《ある意味そのとおりだけど……自分としては、あの作品にたどり着くまでにもいろいろあった》との思いがあるようだ(※4)。

 これと前後して、NHKの大河ドラマ『武蔵 MUSASHI』(2003年)で宮本武蔵の恋人・お通を演じたほか、同じくNHKのスペシャルドラマ『ハルとナツ 届かなかった手紙』(2005年)では長期海外ロケも経験した。後者では、大ベテランの森光子と同じ役の若いころを演じ、《森さんに出会って、女性は年齢とキャリアを重ねて、ますます素敵になれることを教えてもらって希望が持てた》という(※4)。

スター女優のひと言でブロードウェイ挑戦

『黒革の手帖』は2006年に米倉の主演で舞台化もされ、これが彼女にとって初舞台となる。2008年には、いつか挑戦したいと思っていた『CHICAGO』の日本版に主演、自分の力不足を痛感しながらも、演じる喜びを覚える。このときには本場ブロードウェイの舞台に立つことなど、まだ思いもよらなかった。だが、2010年に『CHICAGO』のブロードウェイ版が日本で上演された際、出演者のひとり、アムラ=フェイ・ライトと出会ったことが、彼女の心に火をつける。このとき、なぜこの仕事を引き受けたのか米倉がアムラに訊ねたところ、「思わずやるって手をあげちゃったのよ。でも、あとになって、とんでもないこと引き受けちゃったと思ったわ」という答えが返ってきた。これに米倉は、《私だって「やります」って手をあげちゃっていいんだよ、と背中を押された気がしました》という(※6)。

 やがて事務所も米倉の希望を理解して、数ヵ月がかりで出演交渉が行なわれる。この間、彼女はドラマなどの仕事のかたわら、ブロードウェイチームの指示に合わせ、英語での歌や演技、ダンスを収録したテープを何本も送った。その厳しさは、好きな『CHICAGO』でなければ絶対に耐えられなかったと、のちに振り返るほどであった。ようやく出演が決まり、日本を出発するときには、いままで積み上げてきたものがぶちこわされることも覚悟する。《でも、まだ甘かった。あそこまで見事にぶちこわされるとは、予想がつかなかった》とは、2012年に初のブロードウェイ公演を終えてからの彼女の弁だ。《やり遂げれば自信がつくのかな、と思っていたけれど、とんでもない。自信なんか以前と同じで、全然ありません。心に残ったのは悔しさです。自分の技量がまだまだ足りないことへの悔しさ、もう少しやらせてほしかったなあという悔しさ。だから、次を目指したいと思います》(※6)。この思いが、5年後、さらに今年の再演へとつながっていく。今回の再演を前に、米倉は《『CHICAGO』はずっとやっていたい》と同舞台への一途な情熱を口にした(※7)。

「私、失敗しても後悔しないので」

『CHICAGO』に挑戦し続ける一方で、初めてブロードウェイの舞台に立った2012年には『ドクターX~外科医・大門未知子~』もスタートし、以後、シリーズ化されて根強い人気を持つ。今年、女優生活20周年を迎えるにあたり、《20年前は『倒れるまで働く』という感覚だったので、一つひとつのことをよくわかっていないときがあったんです。いまはやっと少し落ちついて、自分のペースで仕事ができるようになりました》と述べた(※8)。一方で、3年前のインタビューでは、《これから先も新しい挑戦を続けていきたいですね。安全パイを握るような生き方はしたくないですから。ドラマの中の未知子は決めゼリフで「私、失敗しないので」と言うのですが、今の私ならこう言います。「私、失敗しても後悔しないので」》と語っている(※9)。失敗しないことを売りにする大門未知子と、失敗すらも自分の糧に変えてしまう米倉涼子。その意味で、米倉は未知子以上に強い心の持ち主なのかもしれない。

※1 『女性自身』WEB版2019年7月10日
※2 『婦人公論』2001年2月7日号
※3 『週刊文春』2004年10月14日号
※4 『MORE』2017年11月号
※5 『週刊現代』2004年12月4日号
※6 『婦人公論』2012年10月7日号
※7 『週刊ポスト』2019年5月3・10日号
※8 『週刊朝日』2019年1月18日号
※9 『婦人公論』2016年10月25日号

(近藤 正高)

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