「ゾクッと、しびれる!」アートの新基準『カッコいい』って何? 平野啓一郎さんに聞いてみた

文春オンライン / 2019年8月10日 11時0分

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『「カッコいい」とは何か』(講談社新書)Amazonより

 展覧会などに足を運んで作品に触れて、自由に何かを感じればいい……。それがアートの楽しみ方の基本。でもそのとき、何かこれまでにない「視点」を持てれば、より深く味わうことだってできそうだ。

 そのためにうってつけの「美の基準」がいま、一冊の新書によって提示されている。

アートの新基準:「カッコいい」ってなに?

 アートを観るうえで大いに参照できそうなその概念とは、「カッコいい」という言葉。

 そう、だれもがよく用いる、あのありふれた日本語だ。至極単純なようでいて、じつはひじょうに複雑な意味合いを含むこの「カッコいい」こそ、20世紀後半以降の私たちの考えや行動を規定してきたもの。これをより知ることは、当然アートに触れるときにも大いに助けになってくれる。

 それなのに、これまでだれも「カッコいい」を正面から論じていない――。そんな気づきを10年ほど前に得た小説家・平野啓一郎さんは、小説執筆と並行して、「カッコいいとはどういうことなのか」について考え、書き継いできた。成果を一冊にまとめたのが『「カッコいい」とは何か』(講談社現代新書)である。

なぜ作家・平野啓一郎は「カッコいい」にのめり込んだのか

 ただ、ここでひとつ不思議に思う。平野啓一郎さんといえばデビュー作『日蝕』や大長編『葬送』で重厚な歴史を扱い、近年の『マチネの終わりに』で愛の問題を、最新小説『ある男』ではアイデンティティについて強く問いかけてきた。つねに深遠なテーマを扱ってきた印象が強い。そんな当代きっての正統的な文学者が、ちょっと軽くて卑近な「カッコいい」という言葉にこだわるというのはどこか違和感が……。

「そのギャップは自覚しています。ひとり執筆を進めていて、論考がまとまってきたころから『いま、カッコいいについて書いているんだ』とほうぼうで話すたび、人の反応はたいてい、『は?』のひとことでしたから(笑)」

 と平野さんは言う。ならばもうすこし、「カッコいい」にのめり込んでいった経緯を教えていただこう。

「僕たちは『カッコいい』という言葉を、あまりにも自明のものとして使っているのはたしかですよね。でもいざ人と『カッコいいとはどういうこと?』と議論してみると、合意が生まれるどころか、たいてい収拾がつかなくなってしまう。本書の冒頭でも、僕の体験談をひとつ披露しています。

 学生時代に京都でバーテンダーのアルバイトをしていたんですが、あるとき男性客ふたりがボクシングの辰吉丈一郎さんについて議論を始めた。目を負傷して引退勧告を受けてなお、ルールを覆しながら現役続行する姿を、ひとりはカッコいいと見て、片方はカッコ悪いとみなした。双方譲らず、つかみ合いの喧嘩に発展してしまったんです。」

「カッコいいは文学者が挑むべきテーマである」

「どうやら人にはそれぞれ、譲れない『カッコいいの基準』がある。それも当然といえば当然ですね。僕らは小さいころから絶えずカッコいいものに憧れてきたし、多大な影響を受けて生きてきましたから。ヒーローもののテレビに始まってスポーツ選手や歌手、俳優など対象は人によってさまざまで、最近ならユーチューバーのような存在もカッコいい存在とされていることでしょう。僕の場合は早い時期から洋楽が好きになったし、そのあとは三島由紀夫らの文学もカッコいい対象になりました。

 カッコいいという価値観は、現代を生きる人たちにとってこれほど大きい存在であるにもかかわらず、これまできちんと定義されず、言語化もされてこなかった。だれもがぼんやりとその概念を認識しているのみで、議論の足場すらない状態だったわけです。

 でも実際には、だれもがこれだけよく使う言葉であることからわかるように、カッコいいの影響力は意外なほど大きい。民主主義と資本主義が組み合わされた20世紀後半以降の世界で、動員と消費を引っ張ってきた存在であり、現在の文化現象を読み解くには必須のもの。ならば歴史的経緯も含めて、これがそもそもどういうものかを考え直し、概念を提示してみたい……。そんな思いが、カッコいい論に足を踏み入れたきっかけです。ひもといていくと、そこには文学者が論じるべきテーマがたっぷり含まれているのもわかりましたしね」

「カッコいいは文学者が挑むべきテーマ」だと平野さんがいうのは、その起源をかつての大芸術家の言動に見出しているがゆえだ。

現代に受け継がれる『カッコいい』を作り出した2人の芸術家

「カッコいいという概念の起源として、19世紀の芸術家や文学者に注目しました。特に画家のドラクロワと、詩人・批評家のボードレールです。

 19世紀、欧州では市民社会が成立して、個人主義と、それに基づく趣味判断の多様性が認められるようになりました。いいもの、好きなものはだれかから押し付けられるものではなく、自分で決めればいいという考えの誕生です。

 これによって創作者、たとえば画家は古代ギリシアを理想としたり、ラファエロを手本に絵を描く必要から解放されました。この主張を強く推し進めたのは、ロマン主義を代表する画家ドラクロワでした。

 彼はみずから筆をとった論文の中で、自分が戦慄を覚えるものがあるかどうかで美を判断すればいいと説きました。『しびれる』、鳥肌が立つ、といった生理的興奮を美の判断に用いようというのです。

 この”体感主義”というべきものに協調したのがボードレールです。『痙攣』や『戦慄』を伴う衝撃の体験を詩の中に織り込みました。彼らが打ち立てた”体感主義”は、ベンヤミンやアドルノらの思想家に言及されたりしながら、現在に受け継がれていきます」

 なるほど、19世紀に生み出された「体感を信じよ」「美は多様でいい」という考えが、その後の表現をかたちづくっていくわけである。

「しびれる!」ゾクッとする体感が集約された『カッコいい』

「そうです、以降はモダニズムの時代になって、いろんな流派・タイプの新しい表現がどんどん出てくるようになります。なぜこれがすばらしいかという説明が追いつけないまま、鑑賞者は作品を受容するようになった。もちろん、あとからそれをなんとか言葉にしようとするわけですが。たとえばピカソなんて、ひとりでどんどん画風を変えていってしまうわけで、理屈は追いつきません。

 そうした芸術を享受するには、観る側も判断を体感的なものに切り替えていくしかありません。何かわからないけど圧倒されるものがすばらしいのだと。

 これはすなわち、芸術表現が民主化されていく過程です。しびれるという体感はだれでも持っていますしね。人は『これよくわからないけど、とにかくしびれる!』と、美をジャッジし始めました。

 いい・悪いの根拠が体感になったおかげでモダニズム芸術は世界的に広まりました。この感覚が、戦後にも続いている。世界を席巻したロックなどはその典型ですよね。理屈じゃない、聴いたときに背筋がゾクッとしたら、これだ! と好きになる。そうやって楽しめばいいということになった」

 体感という生理機能をもとに社会のシステムがかたちづくられていって、20世紀後半にはほとんどのものがそうしてジャッジされていくこととなる。しびれるものは圧倒的に人を惹きつけるので、大きなビジネスがその基準によって動いていったのだ。

 しびれるような体感、これが日本語では「カッコいい」という言葉に集約されて広まっていったというのが、平野さんが『「カッコいい」とは何か』で展開している論である。

「そう考えを整理すると、自分でも自分の好みをうまく説明できて楽になりました。僕は10代のころからロックが好きでボードレールも好きでした。この嗜好はどうつながっているかわからず、別個に存在しているものと理解していたけれど、どちらも自分にとって強く体感できるものだったのだと考えると、両者をうまく接続できる気がしました」

 同書はアートの観点から以外にも社会論、時代論、生き方論などなど、「カッコいい」という言葉と同じくとことん幅広く受け止めようがあるけれど、まずは新しいアートの読み方として大いに活用してみたい。

(山内 宏泰)

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