元祖・マルチタレント!? 無声映画の消滅ともに消えた日本の”活動弁士”とは

文春オンライン / 2019年8月18日 17時0分

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解説:映画が「声」を持ち、日本独特の「芸術」が姿を消した

 いまシネコンやテレビやDVDで映画を見る人は、映像に音声や音楽、音響効果がついているのが当たり前だと思っているだろう。しかし、映画はそもそも「サイレント」=音のない芸術 として始まった。映像に音を連動させて再生させる技術が難しく、映画の発明から30年近く時間がかかった。その間、「活動写真」と呼ばれた映画は、出演者のセリフは画面に字幕(スポークンタイトル)で入れ、オーケストラや小楽団による音楽の生演奏が行われるのが普通。ところが、日本ではそこに「活動弁士による説明」という独特の形が加わった。

 当時は基本的にあらすじとスポークンタイトルしかないため、弁士(説明者)は映画のイメージに合わせてオリジナルの台本を作り、舞台脇の演台に立って映画を見ながら語りを重ねる。ストーリーや舞台設定、出演者の役の説明、背景や場の雰囲気……。そこに生の音楽が絡む。それは、現在の映画とは別物の映像と音響の体験、あえて言えば日本独特の「芸術」。筆者の友人であり、いまも活動弁士として「無声映画鑑賞会」などで活躍している澤登翠さんは「映画というより演劇、特にミュージカルに近いかも」と話す。

 弁士の草分けは「すこぶる非常」が口癖だった駒田好洋。それが無声映画の全盛期になると、東京、京都、神戸をはじめ、全国の主だった映画館は専属の弁士を抱え、その芸を売り物にした。客は映画そのものより、お気に入りの弁士の語りが聞きたくて劇場に行ったぐらい。

「春や春、春南方のローマンス」の名文句で知られた生駒雷遊(本当は別の弁士の“発明”らしい)は東京の下町・浅草の帝国館、千代田館を本拠に活躍。赤坂葵館、新宿武蔵野館と山の手で鳴らした夢声と並び称された(「徳川」という芸名は「葵」からの連想で付けられた)。

 ほかにも山野一郎、大辻司郎、牧野周一……。「鞍馬天狗」で知られたチャンバラ俳優・嵐寛寿郎は竹中労「聞書アラカン一代 鞍馬天狗のおじさんは」の中でこう語っている。「サイレント映画・無声映画と言いますやろ、これ正確ではないんダ。活弁というものがある、説明付きます、楽団かてついてます、サイレントやない、無声やない、それで一つの型がでけとる。日本映画だけでっしゃろな、こういう特殊な形態は」「日本でトーキー遅れたんは、つまり活弁大写真、この型がきちっとでけておったからやとワテは思います」。しかし……。

「すぐに飽かれはしまいか」トーキー映画の誕生当初

 1931(昭和6)年8月1日、松竹映画「マダムと女房」(五所平之助監督)が公開された。日本でも、それまで部分的に音声が入った映画は作られていたが、全編トーキーとしては初めて。日本映画の大きな曲がり角だった。だが、問題は既にその前に起きていた。

 本編にある通り、アメリカのトーキー映画「進軍」などが日本で初公開されたのは2年前の1929年5月9日。夢声が弁士として所属していた新宿武蔵野館での封切りだった(当時は現在のような全国何百館一斉公開ではなく、東京や神戸などのいくつかの映画館での封切りが普通)。同館は封切りに当たって、トーキーのフィルム1コマを封入した挨拶状を各方面に送った。その文面には次の一節が。

現在トーキーは科学的にも感覚的にもすこぶる精巧を極め、スクリーンから会話、音楽、唱歌その他全ての音が些少の雑音も交えず発せられるので、いながらにして海外の風物、名優、名女優、名音楽を、その姿と共に耳をもって触れらるるからであります。

田中純一郎「日本映画発達史」より

 当時、トーキー映画の何が「売り物」だったかが分かる。

 実際に見た映画興行者の1人は「ただ興行として困るであろうことは、全部に伴奏と音響と台詞が入っているので、説明のつけようがないことである。どうしてもわが国で公開するトーキーは、台詞の入れてあるオールトーキーでは困る。最初はいいかもしれないが、すぐに飽かれはしまいかと思う」と懸念を示している。

 まず映画説明ありきの当時ではそうした受け止め方が大勢だったかもしれない。トーキーが入ってきたころは観客が2割も減ったこともあり、映画関係者の間では賛否両論が入り乱れた。主な反対論は(1)演劇に逆戻りする(2)映画館の費用がかさみ採算がとれない(3)製作費が膨大――など。「トーキーは一時的流行」とする見方も根強かった。笑うことはできない。サイレント末期、映画は芸術として完成された形に到達したと見る人も多かった。だが、トーキーを前提とした映画作りが進み、観客が説明と生音楽抜きに慣れたとき、弁士や楽士はどうなるのか……。その結果はすぐ表れた。

急激なトーキー映画の進出 突然に通告された「楽士・弁士の解雇」

 翌月の1929年6月、東京・丸の内の邦楽座は、日響管弦楽団の楽団員に同月いっぱいでの解雇を通告した。同劇場は山田耕筰が指揮する同楽団の演奏を売り物にしていたが、トーキーシステムの導入で、アメリカ映画の上映に合わせて、送られてきたレコードによる音楽演奏が可能になったためだった。

 楽団員は自分たちだけの問題ではないと他の映画館の楽士にも呼び掛けた結果、7月7日、楽団員200人余りが参加した集会を開催。レコード伴奏反対と解雇延期を訴えた。交渉の結果、解雇は1カ月延期されただけで終わった。

 同じころ、夢声の新宿武蔵野館でも、事前通告なしで楽士17人中6人に「7月末で解雇。手当1カ月分」が提示され、争議状態に。警視庁が仲に入った形で金一封を追加支給することで8月10日、決着した。「トーキーの急激な進出は楽士のみにとどまらず、説明者(弁士)の身の上にも死活問題として迫ってきた」と、映画ポスターなどのコレクターでもある御園京平氏の「活辯時代」は書く。

争議がさらに過熱 映画館占拠、電話線遮断、乱闘騒ぎも 

「マダムと女房」公開翌年の1932年4月9日、SP(松竹とパラマウントの提携)系の浅草・大勝館と電気館で専属の弁士計10人に解雇が通告された。その中にはのちの映画監督・黒澤明の実兄で、翌年自殺する須田貞明(芸名)もいた。弁士らは抵抗して大勝館に立てこもった。

 16日には東京・亀戸などの3館で弁士・楽士が退職手当制定などを求めて映画館を占拠。そして18日、松竹系とSP系など「オール松竹」計23館(のち30館に)がゼネストに入った。4月19日の朝日朝刊は社会面トップで「説明者と楽士等つひに総罷業 浅草から市内外へ波及」の見出しで報じた。写真は「その日の浅草映画街」の説明で、「本日突如映画従業員ゼネストの為め無説明無伴奏に付御諒承願ひ舛」と手書きで書かれた立て看板が写っている。「丸で試寫会 観客納らず」の小見出しに「見物席からは『料金を返せ』とワイワイ騒ぎだす始末」とも。日活系の映画館もストに加わったが19日、浅草の「顔役」らの仲介で、大勝館、電気館の解雇は一応撤回。後で6~8カ月の退職手当で決着した。

 次いで29日からは日活系と傍系の19館が一斉にストに突入した。中でも神田日活では、参加者が電話線を切断。警官隊と乱闘になって検束されたことは本編に書かれている。その翌月の5月には、犬養毅首相が海軍青年将校らに殺害される「五・一五事件」が起きている。

時代と共に消えた「弁士」たちはその後……

 同年6月の新宿武蔵野館と松竹館の争議は本編の通り。そのニュースを載せた6月6日の朝日には「夢声も」の小見出しでインタビューに応じた内容が載っているが、それも本編の説明と変わらない。弁士、楽士解雇をめぐる争議は各地に広がって行った。6月28日の神戸新聞は、松竹側の対応に責任ある姿勢が見られないとして、「京阪神三都十映画館は一斉に総罷業の火蓋を切った」と報じている。しかし「大きな時代の流れには抗し得ず、彼ら(弁士)はどうすることも出来なかった」(「活辯時代」)。やがて「トーキー」という言葉が使われなくなるほど、映画が声を持つことが普通になっていく。そして、日本独特の映画の形もほとんど消え去って行った。1932年4月19日の朝日の記事の主見出しはこうだった。「機械文明に追はるゝ群れ」。

 弁士らはその後、俳優や実業家、興行師、漫談家など、それぞれの生き方を見つけた。夢声は主に俳優として古川緑波らの劇団「笑の王国」や文学座に参加。戦前の映画「吾輩は猫である」「綴方教室」などに出演した。ラジオでは、吉川英治原作「宮本武蔵」の独特の間の語りが名高い。戦後は「話の泉」などのラジオ番組に登場。随筆も達者で、「夢声戦争日記」は記録文学として評価が高い。いまでいう「マルチタレント」のはしりというと、印象が軽すぎるか。

本編 「反トーキー・ストライキ」 を読む

【参考文献】

 ▽竹中労「聞書アラカン一代 鞍馬天狗のおじさんは」 白川書院 1976年 
 ▽田中純一郎「日本映画発達史2」 中公文庫 1975年
 ▽御園京平「活辯時代」 岩波同時代ライブラリー 1990年
 ▽升本喜年「人物・松竹映画史 蒲田の時代」 平凡社 1987年

(小池 新)

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