孤島アナタハン、たった一人の女は本当に「女王」だったのか?

文春オンライン / 2019年8月13日 17時0分

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レストラン「アナタハン」開店へ(沖縄タイムス)

終戦後、孤島に32人の男と1人の女が……「アナタハンの女王」事件に日本中が熱狂するまで から続く

 孤島に取り残された32人の男と1人の女の共同生活という敗戦秘話、「アナタハンの女王」事件。サイパン島の北50kmに位置するアナタハン島での出来事をめぐって、メディアはセンセーショナルに取り上げ、戦争の話題に飽きかけた人々の好奇心をかき立てた。

 一方、島からの帰還を果たした男たちも、スキャンダラスな手記を発表するなど熱狂の渦は広まる一方だった――。

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地元劇団の舞台では「アナタハンの女王蜂」

 沖縄に帰った和子は、夫が既に別の女性と結婚。子どももできていることを知り、自らの生計を立てるために複数の料亭で働いた。評判を呼び、料亭は連日、彼女目当ての客が押し寄せたという。地元劇団の舞台では「アナタハンの女王蜂」が上演された。

 1951年11月1日に山形新聞夕刊に載った、共同配信と思われる記事は「俗悪好奇の目に悩む ロビンソン女性版その後 歓楽街に泣く“アナタハンの女”」の見出しで、近況を報じている。その中で彼女は「アナタハンの女王様なんていわれると心外でしょう」と問われて「仕方がないことです」と寂しそうに答えている。記者は「こうしてみていると、ごく平凡な一女性にしかすぎない」と評した。

 翌52年8月13日の沖縄タイムス朝刊には、真和志村(現那覇市)でレストランの開店を急いでいる記事が写真付きで載った。店の名前は「アナタハン」。実兄ら親族と話し合い、「どうせ世間に売った名前だ。この名でレストランのマダムとして成功させよう」ということになったという。同年11月20日には実兄と支援者の詩人・伊波南哲とともに船で上京。「島で死んだ人たちのためを思って、私に対する非難を黙って聞き逃してきた。しかし、いつまでも静まらないので何もかもぶちまけ、あとくされのないようにしようと思って内地へ来た」と語った。

「私のことで殺されたのは2人しかありません」

 その言葉を裏書きしたのが、サンデー毎日1952年12月7日号の記事「アナタハンの真相はこうだ」だろうか。肝心な部分は自分に都合のいい内容になっているが、最も彼女の本音に近いように思える。

「私は悲しい運命を背負った女王蜂」という見出しは、編集部のアイデアだろうが、彼女は「自分は被害者」と強調。「世間に広がっている話には多くの誤解と誇張があります」「私のことで殺されたのは2人しかありません」と語った。

 あとは「酔ったりけんかをしたりで殺し合ったものや、事故や急病で死んだものばかりです」。島での「夫」は4人だったと告白。島で2人目の「夫」となる男が、飛行機の残骸から手に入れたピストルで最初の「夫」菊一郎を脅して和子を奪ったと明かした。その際、和子と菊一郎は琉歌(沖縄の伝統歌謡)の相聞歌を即興で交わしたといい、その両方の歌を歌い上げた。

本当は「第3の夫」となる男にピストルで射殺された

 その「第2の夫」も約半年後に死亡。生還した男たちの中には「殺された」と言う人もいたが、和子は同誌では「転落死だった」と反論した。しかし、島では「菊一郎が殺した」と語っていたともいわれる。その後、菊一郎も死ぬが、和子は当初「ヤシガニを食べて中毒死した」と主張していた。それを、本当は「第3の夫」となる男にピストルで射殺されたと認めた。その男もまた4人目の「夫」になる男に刺されて死んだという。

「夫」がいた時でも、ほかの男から「望まれれば誰とも密通」(中見出し)したが、そのサインは現地の大きな葉っぱだった。青い葉に硬い物で字を書くと、後で白く浮き上がってくる。「それがアナタハンでの唯一のラブレターでした」と言う。琉歌のことと併せて、本人はロマンチックなドラマのつもりだろうが、常識から考えると首をかしげざるを得ない。「道もないところを密林をくぐり山を越えて逢いに来たものを素っ気なく追い返すことはとても出来ません。私は誰とでも逢ってやりました」と胸を張っている。

 さらに、男との交渉は「それはもうずいぶんありました」が「二人だけしか知らない秘密です」。「中には生きて帰ってきた人も幾人かあります。誰と誰かなんて、せっかく平和に日本に帰ってそれぞれ奥さんと暮らしているのに、名を上げることは私からは遠慮しますが、島の気持ちはここで考えるものとは全く別です」。こうした和子の証言に、島から帰った男たちは沈黙し、世間はさげすみつつ強い関心を示した。

「アナタハンブーム」にも陰りが見えていた

 和子は東京でアナタハンでの体験を劇化した舞台に特別出演。「アナタハン人気」を当て込んだ映画関係者の誘いに乗り、事件を再現した映画「アナタハン島の真相はこれだ」(新大都映画、吉田とし子製作、盛野二郎監督)=1953年4月公開=に本人役で出演したが、彼女の演技、作品の内容とも酷評を浴びた。

 また、アメリカのニューヨークタイムスに記事が3行載ったことから、ジョセフ・フォン・スタンバーグ監督が映画化に強い関心を示してきた。「嘆きの天使」「モロッコ」など、主演のマレーネ・ディートリッヒとの名コンビでうたわれた往年の名監督。和子役に日劇ダンシング・チームの根岸明美を抜擢し、映画は1953年6月28日に公開されたが、「世界的巨匠老いたりの失敗作となった。興行も不振」(田中純一郎「日本映画発達史4」)と酷評される。すさまじかった「アナタハンブーム」にも陰りが見えていた。

50歳の波乱の生涯だった

 沖縄に帰った和子はその後、2人の子持ちの男性と結婚。名護市でタコ焼き屋を始めた。子どもとの折り合いもよく、平穏な生活だったようだ。しかし、脳しゅようを発症。1974年3月、名護市内の病院で死亡した。50歳の波乱の生涯だった。

 サンデー毎日1986年10月5日号によれば、実姉は「あまり苦しまずに往生しました。あのあと、横井さん、小野田さんが山から出てきたから、もう思い残すことはないと話していた直後でした」と語った。

 敗戦時、海外にいた軍人・軍属と民間人は計約660万人。1945年に引き揚げを開始し、1947年末には、シベリア抑留などソ連占領地区以外はほぼ完了した。しかし、その後も未帰還日本兵の情報は後を絶たず、反安保闘争真っ最中の1960年にグアム島で2人、沖縄が返還された72年に同じグアム島で横井庄一さんが救出された。そして、前年のオイルショックを引きずった74年、和子の死の直前にフィリピン・ルバング島で小野田寛郎さんが救出された。和子はこれらのニュースに無関心ではいられなかったのだろう。

和子も男たちも、米軍が時折投降勧告に来ることを知っていた

 こうして新聞や雑誌の報道を振り返ってみると、アナタハン島での比嘉和子が性的に奔放で、それが男たちを刺激して戦わせ“孤島の愛欲”のイメージを強めたことは間違いない。しかし、それは決して「事件」の最大の原因ではない。時代背景と置かれた状況、人間関係がより重大だった。

 例えば、この事件の報道では絶えず「終戦を知らずに」という“枕言葉”が使われた。20人のうちの1人が先に脱出したことを報じた1951年6月17日の読売は「アナタハン島の“勇士”投降」の見出しを付けた。だが、それらは真実を言い当てていたのだろうか? 和子も男たちも、米軍が時折投降勧告に来ることを知っていた。置いて行った物資や食料の残りを拾うのが楽しみだったとも証言している。中には日本の家族からの手紙もあった。「アナタハン」によれば、先に脱出した和子から「元夫」の1人に宛てた手紙も届いたという。

 週刊朝日1951年7月22日号で兵助丸の機関長・石渡一郎は「アナタハンの七年間、私らの生活を支えてきたものは、結局『必勝の信念』だった」と書きつつ、「戦争はもう終わったのではないかということを誰だったかが言い出したのは(昭和)二十一年の夏ごろだった」と回想している。多くが「戦争は終わっているのかもしれない」と考えた。それでは士気が上がるわけがない。それでも出て行かなかったのは、「戦陣訓」が生きていた当時の時代状況と心理から、出て行けば仲間に殺されると思っていたことと、「島での生活は表に出せない」という後ろめたさがあったからではないか。

「アナタハン」のあとがきで丸山通郎は「私たちを、まるで英雄みたいに大騒ぎをして迎えてくれましたが、いまだにその理由をしっかりと理解できずにいます」と述べている。

島での性的退廃は、男たちに10~20代の若者が多かったことが大きい

 さらに言えば、地理的条件も大きい。比嘉菊一郎と和子の夫は南洋興発の社員。同社は「海の満鉄」と呼ばれ、日本海軍と密接な関係を持つ実質的な国策会社だった。南洋一帯でサトウキビによる製糖、イモからのアルコール醸造、ヤシからのコプラ(種の胚乳を乾燥させた油脂)製造、リンなどの鉱産物開発などを幅広く手掛けていた。

 初代社長の松江春次は福島県・会津出身で、第1次世界大戦後、徳島に造られた捕虜収容所の所長を務めた松江豊寿の弟。ニューギニア開発にも意欲を見せ、買収して日本人を大量移民させる壮大な計画を持っていた。南洋諸島への沖縄からの移民にも力を入れていた。菊一郎と比嘉和子の夫の採用もそうした計画の延長線上だったと考えられる。

 その南洋興発の事業関係文書を見ても、アナタハン島は全く出てこない。現地の住民を使ってコプラを作る事業をしていたというが、どれだけ重要性があったのか。あるいは、菊一郎も和子の夫も、事業よりも住民の宣撫や情報収集などのための、小野田寛郎氏のような「残置諜者」だったのではないか、と想像するのだが……。

 島での性的退廃は、男たちに10~20代の若者が多かったことが大きい。和子も20代だった。だが、ほかにも要因がある。男たちが兵隊と徴用された民間人の混成だったこと。

「もともと偶然の寄せ集めだっただけに、チグハグな一同の感情がそうさせたのである。皆が分散生活を始めると同時に、この皇軍部隊は軍規や秩序が急激に低下して、一種の無政府状態に陥りはじめていた」とサンデー毎日1952年12月10日号は指摘している。これが軍隊であっても民間であっても、単一の組織で指揮系統がはっきり定まっていたら、集団の秩序の乱れは何とか抑えられたはずだ。

それは彼女の生きるすべだったのだろう

「アナタハンの女王(蜂)」という言葉について考えてみる。本当にそれが事実を正確に表していたのか。「食と性によって男たちに君臨していた」という指摘があった。和子は「ピストルに従うしかなかった」という趣旨の発言をしている半面、「女王(蜂)」という呼び名に自尊心をくすぐられた印象も受ける。しかし、実際は男たちの力に従うしかなかったのが実情だったのではないか。後になって、そうした事態を自分に有利なように利用したとしても、それは彼女の生きるすべだったのだろう。

 下川耿史「昭和性相史 戦前・戦中篇」には、アナタハンと同じマリアナ諸島にあり、太平洋戦争激戦地の1つだったテニアン島のエピソードが出てくる。アメリカ軍の攻撃で日本軍は壊滅状態になり、兵士、民間人が入り乱れてジャングルで生存のための生活を始めた。

「女は男に養われるしか生きる道がなく、男が自分のために食糧を確保してくれる間だけ、その所有に帰した」「時には食糧が原因ではなく、武力で女の所有が移ることもあった」。それが戦場の現実だった。アナタハンは戦場でこそなかったが、事態はそれほど違わなかったはずだ。

 さらに、これまでも指摘されているように、比嘉和子が「沖縄人」だという問題がある。1903年、大阪で開かれた内国勧業博覧会での「学術人類館」で「琉球人」が「展示」された例からも分かるように、沖縄の人々への蔑視は長く根強い。菊一郎や和子に対する視線にそうした意味はなかったのだろうか。

 和子について、後から島に来た男たちは自分と同じ日本人だと思っていたのだろうか? 当時、アジア各地で見られた現地妻に近い意識があったのでは、という疑問が湧く。さらに、経緯から見ると、そもそも南洋興発社員の夫とも正式に結婚していたのかどうか……。

「英雄あつかいがなかった以上に、むしろ見せものあつかい」

 作家・中野重治は「小説新潮」1977年2月号のエッセー「アナタハンの女」で、東京・新宿で比嘉和子を見たときのことを書いている。「アナタハン」を取り上げた舞台の特別出演で、和子が島の生活について話した。「『……そんなわけで、きまった人はいましたが、ほかの人たちとも床をともにしました……』。そのとき、うしろの方で『きたないぞォ』と叫ぶ男の声がした。青年の声ではなかった。舞台の女は一瞬つまったようだった。惑乱の影が走ったのかもしれない」。

 中野は、横井庄一氏や小野田寛郎氏と比較して「英雄あつかいがなかった以上に、むしろ見せものあつかいがあったかと思う。そしてそこに、男十人ばかりのなかに女一人ということでいくらか下種(げす)張った思わせぶりがあったかと思う。何となしそこに不当なものがある。そんな気がする」と述べている。控えめだが、まともな反応なのではないか。

一瞬、自分の心の闇をさらけ出されるような恐怖感

 アナタハン事件が、膨大にあった戦争の悲劇の一幕だったことは間違いない。比嘉和子については、本人の無知や性的放埓、自己の美化があったとしても、そこに広い意味での女性差別が存在したことも疑いがない。この話に興味を引かれる半面、どこか「恐ろしさ」を感じるのは、きっと「自分がそのとき、島にいたらどうしていただろう」という疑問が頭をかすめるからだ。一瞬、自分の心の闇をさらけ出されるような恐怖感がある。それが「猟奇的な関心」と背中合わせでこの物語が人を引き付ける理由だろう。

 そう考えていくと、「女王(蜂)」とは、実際とは相当懸け離れたイメージのように思える。それを「女王(蜂)」と呼んだのも、世の男性の多くが受け入れてはやし立てたのも、そもそも戦争を引き起こして女性や子どもに多大の悲しみと苦しみを与えたことへの、男たちの後ろめたさの表れだったのでは? そんな気がする。

【参考文献】
▽大野守衛「独領南洋諸島事情」 外務省通商局 1915年
▽菅野聡美「アナタハンの女王と伊波南哲」 琉球大学文学部「政策科学・国際関係論集」2013年
▽鷹橋信夫「昭和世相流行語辞典」 旺文社 1986年
▽丸山通郎「アナタハン」 東和斜 1951年
▽丸山通郎・田中秀吉「アナタハンの告白」 東和社 1952年
▽田中純一郎「日本映画発達史4」 中公文庫 1976年
▽下川耿史「昭和性相史 戦前・戦中篇」 伝統と現代社 1981年
▽中野重治「アナタハンの女」 小説新潮1977年2月号

(小池 新)

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