いかりや長介は「笑い」に人生を賭けていた……伝説の放送作家が振り返る『8時だョ!全員集合』の時代

文春オンライン / 2019年10月2日 11時0分

写真

『8時だョ!全員集合』の一コマ ©共同通信社

『夢であいましょう』(NHK)、『8時だョ!全員集合』(TBS)など、人気番組を多数手掛けた伝説の放送作家・大倉徹也氏。同氏が全力で駆け抜けた“テレビの時代”を、スターとの思い出を中心に振り返った自叙伝『 放送作家の時間 』が発売された。今年2月に亡くなった大倉氏にとって「最後の記録」となった同書から、「『8時だョ!全員集合』と私」の全文を特別公開する。

◆◆◆

 リリオ・リズム・エアーズが解散するので、彼らのラジオ番組が終わるとわかった時、ニッポン放送のプロデューサーから聞かれた。

「ドリフターズというグループを知ってるか?」

 そのころ『8時だョ!全員集合』(以下『全員集合』)はまだ始まっていなかったが、『進め!ドリフターズ』というようなタイトルのテレビ番組を見たことがあるような気がして、そう答えると、

「実はリリオのあとをドリフの番組にすることになってるんだ。ドリフも5人だからあんたなら書けるだろうと思うので、よろしく頼むよ」

 ありがたい話だ。しかし私は書く前に必ず本人たちに会うことにしている旨を伝えると、そのころドリフは、テレビ以外にも当時流行していたジャズ喫茶に出ているという。そこですぐに観に行った。それがドリフと私との出会いである。 

 早速彼らの番組を書き、OKが出て、週1回の番組を私が一人で書くことになった。ジャズ喫茶で見たヤリトリを基に書いた会話はすんなり受け入れられて、スタジオでの録音時に台本を読むテストでメンバーがトチルと、リーダーの長さんこといかりや長介が「見ろ、だからこんな台詞を書かれるんだよ」と怒っていた声を今でも思い出す。

 調べると『全員集合』は1969(昭和44)年10月に始まっている。

 しかしラジオ番組がいつ終わったかは台本を残していないのでわからないが、その後、私が『全員集合』の「作・構成グループ」に参加するようになったのは、台本によれば42回目からだ。週1回の番組だからスタートして1年後あたりだろう。だがグループに入る前に、私が一人で書いた回があるのだ。

 こまかい話だが、あの番組ファンだった年代の人はスタート時から毎週土曜日午後8時からの公開生放送だったと思っているだろうが、実はスタートした年の暮れと翌年正月1週目だけは、世間並にドリフを休ませるためにスタジオ録画していたのだ。その録画分を書いたのが私だ。

 非公開のスタジオ撮りだから観客はいない。なのでドラマ形式にしたいという。『全員集合』のスタッフと初めて会った時、私はドラマ作者として紹介されたのを憶えている。私は加藤茶が視聴者を泣いて笑わす芝居を作りたいと思い、そんな役柄とストーリーにした記憶もある。結果は失敗した。脚本の失敗を棚に上げて言うと、加藤にそんな演技は無理だった。だからすぐにはレギュラー作者としてオヨビはかからなかった。

 ドリフにドラマは無理ということがわかって、生放送の回も少しは作り方を変えていったのではないか。そのせいか次第に高視聴率を取る人気番組になっていく。そうなればなるほど「作・構成」には多彩な力が必要になる。コントにも少しはストーリー性を持たせようという話になったのではないか。だから私にも42回目から声がかかったのだろう。

 私がレギュラーになって一番驚いたのは、長さんの恐ろしいほどの、いや実際に恐ろしい「笑い」に賭ける執念だった。

 その執念に応えてプロデューサーは、TBSのリハーサル室を週2日丸ごと、つまり時間制限なく使えるように押さえ、そして生本番当日の朝早くから稽古できるように公開放送会場を押さえていた。

 そのスケジュールを具体的に言うと、次のようになる。

 まず私が加わったころの番組の全体構成を説明しよう。放送1時間のうち前半はドリフだけの長めのコント、CMがあって中ほどはゲストと一緒に体操をしたり歌を楽しんだりするコーナー、そしてまたCM後の後半はゲストがらみの複数の短いコントの3部に分かれていた。

 リハーサル1日目は、前半コントの事前に担当作者とディレクターが相談しておいた内容を、黒板に書いて説明する。それでOKかどうかは長さんが決める。OKの場合はドリフのメンバーとスタッフ全員が、それぞれアイディアを出し合う。美術担当もいてコントにふさわしいセットについてアイディアを出す。それらを長さんは一つ一つ聞きながら意見を述べ、それに従って2日目のリハーサルまでに作者が書き直してくることになる。それがもっともスムースに進んだ場合。

 コントの内容そのものが長さんのお気に召さなかった場合は大変だ。ゼロから作り直すために長さんは横になり目をつむって考え込む。いつ出るかわからない結果が出るまでメンバー、スタッフは口を挟めるような雰囲気ではないので、何かをして時間を潰している。

 高視聴率番組になってから、ある新聞記者がリハーサル風景を取材に来た。さぞかし熱心に稽古をしていると思いきや、リーダーは眠りメンバーは遊んだりしているように見えたらしい。そこで呆れて「稽古はいつするんですか」と聞いた光景を私も見ている。観客を笑わせる「笑い」を作るには、こういうアソビ時間も大切だということもあとでわかった。

 さてやっと長さんがヨシ、コレデイコウと起き上がり、説明するのを担当作者が黒板に書きながら、時には自分の意見を挟んだりする。そんな時の長さんの決まり文句。

「あんたの言う通りにして客にウケなかったらどうする。困るのはオレたちなんだぜ」

 こうして書き直された印刷台本が、2日目のリハーサル日に用意されている。それで長さんのOKが出ると、実際に動いてみる立ち稽古に入る。この時にはディレクターも口を挟むが、その案が採用されるかどうかはむろん長さん次第。午後に始まった立ち稽古がスムースに終わる場合もあれば、夜中になってもまだ続いている場合もある。だからプロデューサーはリハーサル室を終日押さえているのだ。

 その間にはむろん美術担当もいてセットのダメダシも行われる。パトカーがメンバーの住む長屋に突っ込む話が出た時には、パトカーが造り物では面白くない、本物を借りようという話になるのもこの日だ。

 土曜日の本番当日になって初めて本物のセットを見る。ゲストもこの日に来る。稽古通りにいく日もあれば、そうはいかない日もあるので、それを確かめながらの稽古が午前中からまた始まる。本番通りに行える回もあれば、パトカー登場の場面などはブッツケ本番だけ。いずれにしろ本番ギリギリまで稽古は続いて、時には稽古が終わらないまま本番の時間が来てメンバーは慌てて客席に降りる。

 時間が来た。ゲストを従えて長さんは叫ぶ「8時だョ!」、客席の親子連れと通路にいるメンバーが一斉に応える「全員集合!」、そして開始のテーマ音楽に乗ってメンバーはステージへ。つまり生本番当日を含めて毎週3日間は、こんなスケジュールが繰り返されるのだ。

 本物のパトカーを借りてくるのはプロデューサーの力だが、そんな無理が通っていくのもすべて長さんの「笑い」に賭ける執念の力だということを、私はこの眼で見、体験した。

 しかし前半のコントを依頼されることはなく、主にゲストコーナーを書いていた。そこでも長さんのケンエツがあるのはいうまでもない。満足した時、彼は必ずこう言った。

「ありがとうございます。この通りやらせていただきます」

 珍しいことなので、彼がそう言った時の加藤茶の台詞を今でも憶えている。

 それは本番が「母の日」だった時のことだ。ゲスト歌手たちはマジメに母に感謝する歌を歌う。すると加藤も手を挙げて母に感謝する作文を読ませろと言う。その作文。

「ボクのお母さんはリッパだった/ストリッパーだった」

 すると当時ストリップで有名だった曲『タブー』が始まり、加藤はストリッパーの動きで踊りだす。笑いが起こる。すると加藤は言う「ちょっとだけよ、あんたも好きねえ」。 

 そしてよろしき間があって、長さんに叱られるという趣向。

『全員集合』はよく子供番組扱いされたが、現実はそうではない。前述のように観客は親子連れで来ているわけで、親はむろん子供も今で言うシモネタも知っているものだ。だからストリップの音楽と踊りでちゃんと笑ってくれたのだ。

 けれども私は明らかに苦しんでいた。苦しい時のシモネタ頼みで、度が過ぎて加藤にもたしなめられたことがあるくらいだ。

 苦しんでいたのはメンバーの中にもいた。荒井注サン。

 長さんは1931(昭和6)年生まれ。私より1歳年長だが、号令をかけたり怒ったりするだけだから、そんなに体を動かさない。しかしメンバーは実によく動かされた。

 荒井注、仲本工事、高木ブー、加藤茶。この4人のメンバーの中で最年長が1928(昭和3)年生まれの荒井さん、次が私より1歳年少、33年生まれの高木ブータン。体の動きが一番機敏で体操上手、本名のコーキ(興喜)と呼ばれていた仲本は41年、そして加トちゃんは43年生まれ。

 回によってはゲストコーナーで仲本が主導権を取る体操コントの場合があり、そういう時ブータンの、その名の通りデブでニブイ動きは笑いになったが、マジに体操する荒井サンは私が入った時からつらそうだった。記録によると彼がドリフを離れたのは74年とあるが、それ以前から彼が「みんなの動きについていくのが苦しい」という話を私も聞かされていた。

 しかし彼が実際に辞めた時には私も長さんの「執念」に負けて、いつとはなしにリハーサル室から足が遠のいた。つまり作・構成グループから「自然消滅」していたので、わが家で録画した『荒井注最後の全員集合』のVTRを今でも残してある。

 その回にはメンバーの「見習い」として志村けんが登場しているが、私の知っている志村は「見習い」以前、例のリハーサル室へ、自分で探した相方と一緒に考えたコントを見せに来ていた。つまりメンバーになりたくて売り込みに来ていたのだ。しかし面白くなかったので黙殺され続けていた。

 ところがゲストコーナーで「オクニ自慢」の唄を、ゲストは真面目に、ドリフはギャグ入りで歌おうと稽古していた時に志村もいて、自分の出身地の唄だという『東村山音頭』を歌い踊った。誰もが言った、「それ、面白いじゃないか」。そして実際に彼がメンバーとして人気が出始めたのは『東村山音頭』からだった、というところまでは私も知っている。

 その志村が今や「お笑い芸人」から「コントの神様」扱いされているのだから、彼の笑いに賭ける執念もリッパというほかはない。

 一方リハーサルから「自然消滅」した私は、TBSのほかの番組は書いていたので『全員集合』の噂は自然と耳に入る。そして長さんもかつての元気がなくなったという話を聞いて間もなく最終回を迎えたようだった。

 それからの長さんは一転、ほかの民放局でマジメドラマの渋い脇役を演じたり、舞台では『全員集合』時代の「学校コント」の先生役からは想像もできない大マジメな先生役を演じたりしていた。

 ある時、偶然が私を彼と会わせ、二人だけで初めて飲んだ。彼の話は専ら『全員集合』時代に終始した。私にとっても忘れられない番組だから、あの番組のプロデューサーが作って、私のような「自然消滅」組も含めて全スタッフに配ったらしい、文字盤に「TBS」のマーク入りで「8時だョ!全員集合 15周年記念」と記載されている腕時計を今も毎日愛用している。ほかの腕時計はとうに動かなくなっているのにこれだけは、確か電池を一度替えただけで私の手首で動き続けているのだ。

 2、3年前に、これも偶然、仲本工事が近くに住んでいるとわかり、昔話をしたくて訪ねた。その時「これ、今も持ってるよ」と手首を見せると彼は驚いた。

「エッ! そんな時計あったの!」

 聞けば肝腎のドリフ一同は誰も知らなかったという。とすれば、かのプロデューサーは全スタッフをねぎらうだけのために作ったのか。居作昌果というその人物に、もしまた偶然があれば聞いてみたかった。

 ちなみに台本と腕時計以外にもう一つ、ドリフ5人のサイン色紙も残してあるが、その5人の中にいるのは荒井注で、志村けんはいない。

 

(大倉 徹也)

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング