大船渡佐々木、ロッテ入りを決めた“過保護”ドラフト会見の一部始終【密着レポート】

文春オンライン / 2019年10月21日 11時0分

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ロッテの1位指名を受け、記者会見で汗を拭う大船渡の佐々木朗希投手  ©共同通信社

 運命のドラフト会議の結果、 “令和の怪物”こと佐々木朗希投手(大船渡)の交渉権は、ロッテが獲得した。この春の岩手大会から佐々木投手に密着し、ドラフト会議当日も大船渡高校で取材を続けていた、『投げない怪物 佐々木朗希と高校野球の新時代』(小学館)の著者、ノンフィクションライターの柳川悠二氏の特別レポート。

◆◆◆

 岩手県立大船渡高校の硬式野球部員や保護者も会場となった大船渡市三陸公民館に詰めかけ、いよいよドラフト中継の準備が整おうかとしていたその時、控え室からトイレに向かう佐々木朗希とすれ違った。

 190センチという長身の佐々木の学ラン(学生服)は明らかにサイズが小さく、なんとも窮屈そうにしていた。

 ふつう、学生服は成長を見越して、大きめのサイズをオーダーするはずだ。ところが、佐々木自身や家族が想定していた以上に身体が大きく成長し、身長も伸びたのだろう。学生服の丈と袖がその大きな背中には不釣り合いで(まるで短ランを着ているようだった)、細長い足がより際立って見えた。

 大船渡に入学して2年半、野球選手としての成長度も、あるいはマスコミの注目度も、本人にはとっては想定していた以上のスピードで進み、膨らんでいったのかもしれない。ベンチ入りした1年夏から球速は150キロに迫り、2年夏には大台を突破。そして、今年4月のU-18高校日本代表の第一次選考合宿の紅白戦で、中日のスカウトのスピードガンが「163キロ」を表示。時の人となった。

口数が少なくなっていった

 春夏の甲子園には一度もたどり着くことができなかったが、ダイナミックなフォームとあのスピード、そして多彩な変化球をひとたび目にすれば、末恐ろしいダイヤの原石であることは誰の目にも明らかだ。

 とりわけ163キロを記録した4月以降、佐々木は常に喧騒の中に身を置いた。練習試合、公式戦を問わず、プロのスカウトが大挙して訪れ、佐々木が降板すればぞろぞろと引き上げていく。夏の岩手大会では徹夜組が出るなど大混乱で、トラブルを避けるために佐々木が投球練習をするブルペンがブルーシートで周囲を覆われたこともあった。次第にマスコミの前に立つ佐々木の口数は少なくなり、真意と異なる報道を警戒してか、当たり障りのない発言に終始するようになった。

 日本中が注目する球界の宝も、佐々木を指導してきた中学、高校の指導者からすれば、手に余る才能だったのかもしれない。軟式野球部に所属した大船渡第一中学時代は、成長痛や腰の疲労骨折で苦しむ佐々木に対して、当時の指導者たちはリハビリの手助けをし、最後の夏も身体の負担を考慮し、投げさせない判断を下した。

 さらに大船渡入学後は、米国・独立リーグを経験した國保陽平監督が佐々木の入学から半年後に就任し、佐々木の肩やヒジへの負担を最優先に考え、球数や登板間隔に配慮しながら起用してきた。163キロを記録したあたりからは、「球速に耐えうる骨、筋肉、靱帯、関節ではない」という医師の診断を根拠に、より慎重な起用が続いた。

 そして、あの騒動が起きる。國保監督は岩手大会の決勝で、準決勝からの連投となる佐々木をマウンドには送らず、野手として起用することも、代打としてバッターボックスに立たせることもしなかった。直後から賛否両論が渦巻いた。

 佐々木にとって初めての大舞台となったU-18野球W杯でも、大学日本代表との壮行試合で右手中指にできた血マメを悪化させた佐々木に対し、永田裕治監督らは傷口が完全にふさがるまで辛抱強く待った。だが、満を持して登板した決勝進出の懸かる韓国戦で、再び血マメを悪化させてしまった佐々木はわずか1イニング、19球で降板せざるを得なくなり、期待を裏切る形で高校野球を終えた。

守ることに専心していった大人たち

 これまで佐々木の野球人生に携わってきた指導者たちは、才能を伸ばすことよりも、球界の宝となるべき才能を守ることに専心してきた。それゆえ、時に令和の怪物は“投げない怪物”となった。

 しかし、プロ野球選手となる今後は、守ってもらうばかりでなく、自身の才能に見合った身体を、作り上げていかなければならない。そうした意味で、10月17日のプロ野球ドラフト会議は、佐々木にとって野球人として自立する門出の日といえた。

 前日までに指名を公言していた北海道日本ハム、千葉ロッテ、埼玉西武に加え東北楽天が入札に参加し、当たりくじを引き当てたのは千葉ロッテを率いて来季が3年目となる井口資仁監督だった。

「千葉を盛り上げていきましょう」

 運命のクジの行方を見守っていた佐々木は、ジッと唇を噛みしめ、テレビ越しとなる井口監督の言葉に耳を傾けていた。

 私は十年来、運命を待つその年のドラフト最注目選手の会見場に足を運んできた。だが、大船渡で行われた佐々木のドラフト会見は、これまで取材してきた中で最も見どころのない会見といえた。

 交渉権獲得が決定し、記者会見が始まると司会者を務めた学校関係者が地元のテレビ局と地元紙の記者にしか質問させなかった。地元メディアの質問は、「重複する質問で申し訳ございませんが」と幾度も断りを入れ、「ご家族に何を伝えたいのですか」「被災地の方々にメッセージを」と繰り返す。その度に佐々木は、「感謝の気持ちでいっぱいです」「少しでも元気になってくれれば」と話すのである。8年前の東日本大震災の津波で亡くなった父・功太さんへの言葉を期待したのかもしれないが、貴重な時間が浪費された感は否めなかった。

 会場の空気を読まずに直球の質問をする筆者のような質問者を避けるために、わざわざ学校が地元のメディアにしか発言の機会を与えなかったのではないかと勘ぐりたくなるほどだった。

 佐々木自身にも夢を叶えた喜びや、これからプロ野球を目指す少年達に、勇気と希望を与えるような発言を期待したが、紋切り型の発言に終始した。

「どこの球団になるのかなと、緊張していました。ホッとしています。これがスタートラインだと思う。(対戦したいパ・リーグの打者は)全員です」

千葉ロッテとの相性は?

 無論、佐々木はグラウンドを離れれば岩手の漁師町に育った木訥とした17歳の高校生だ。過熱する一方の報道に対し、学校側が取材の機会を制限するのもわからなくもない。だが、プロ野球選手となる以上、佐々木にはメディアの向こう側にいる野球ファンや少年達にメッセージを送る訓練も必要ではなかったか。

 それは過剰なまでに佐々木への取材を制限した学校側の功罪だろう。佐々木が自由に自己表現する機会を奪ったようにさえ私には映った。國保監督に対し、「もう少し取材を受けて、報道陣の前で話す訓練をさせた方がいい」とアドバイスした関係者もいたというが、それが活かされることはなかった。

 佐々木は交渉権を獲得した千葉ロッテに対する印象を、こう話した。

「(ZOZOマリンスタジアムは)浜風が強いと思う。風には気をつけたいと思います。(井口監督は)日本だけでなくメジャーで活躍したすごい方。高い評価をしていただいて光栄です」

 佐々木を指名した球団の多くは、こうした未完の怪物を育成すべく、特別なプログラムを企てていた。千葉ロッテも、地元の病院と協力・連携し、佐々木の育成プランを立てているという。

 港町を本拠地とする千葉ロッテと、陸前高田に生まれ、震災後、大船渡の公立校で大切に育てられた佐々木との相性は悪くないのではないだろうか。強いプレッシャーにさらされる巨人や阪神のような球団に身を置くより、岩手で過ごした日々と同様、のびのびと野球に専念できるはずだ。

 2年連続のBクラスで、投手陣の整備が急務の千葉ロッテとて、すぐに一軍で活躍できると思っていないだろう。“投げない怪物”から世界に羽ばたけるような真の怪物への進化を期待し、その日をジッと待つ。

(柳川 悠二/週刊文春デジタル)

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