イケメン俳優・吉沢亮は“偉大なる助平”渋沢栄一を演じられるのか

文春オンライン / 2019年11月8日 11時0分

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『旅する巨人』(文藝春秋)

 大宅賞を受賞した『 旅する巨人 』は、『 忘れられた日本人 』などの著作で知られる民俗学者の宮本常一と、その宮本を物心両面から支えたパトロンの渋沢敬三のほれぼれするような「師弟関係」を描いたものである。そもそも「師弟」という言葉が、今ではほとんど死語と化している。

 渋沢敬三は言うまでもなく、「日本資本主義の父」と謳われた渋沢栄一の孫である。栄一が九十一年の生涯に起こした企業は五百社にものぼる。

 栄一は新しく発行される一万円札の顔になり、2021年のNHK大河ドラマ「青天を衝(つ)け」の主人公にも選ばれた。いまや完全に時の人である。

 栄一を演じるのは、NHK朝の連ドラの「なつぞら」で主人公のなつ(広瀬すず)が、ひそかに恋心を燃やした天陽くん役の吉沢亮だという。

 このキャストを聞いたとき、少し不安になった。非の打ちどころない二枚目の吉沢亮にあの「人間的」にすぎる、もっと平たく言えばとんでもない「助平」な栄一が演じられるだろうか。

吉沢亮が骨太の「家父長」を演じるのは至難のわざ

 栄一は平然と妾をかこい、生涯になした子どもは二十人にものぼる。栄一は「論語と算盤」という言葉でよく知られている。論語と算盤とは、経済と道徳を均衡させることが最も肝要だという栄一の主張である。

 栄一の後妻の兼子は「論語と算盤」という言葉を皮肉って言った。

「大人(たいじん)も『論語』とはうまいものを見つけなさったよ。あれが『聖書』だったら、てんで守れっこないものね」

『論語』には性道徳に関する訓言がほとんどない。だから栄一は「明眸(めいぼう)皓歯(こうし)(男心をそそる美人女性)に関することを除いては、俯仰(ふぎよう)天地に恥じない」などと堂々と言えたのであって、性道徳に厳しい『聖書』だったらとても身が保たなかっただろう、という妻でこそ言える皮肉だった。

『旅する巨人』のいわば姉妹編の『 渋沢家三代 』(文春新書)は、栄一を頂点とする渋沢家の三代にわたる「家父長」の悲喜劇を目指して書いた。

 その背景になったのは、明治維新から始まり近代化を果たした日本が戦争に巻き込まれるまでの激動の時代である。

 性急な予想は出したくないが、再来年のNHKの大河ドラマは、幕末の攘夷派志士としての栄一に力点を置いた物語になるような気がする。

 それだからこそ、吉沢亮という若手イケメン俳優を主役に起用したのだろう。さぞや爽やかな栄一になるに違いない。ちなみに吉沢は剣道二段の腕前だという。

 だが、彼のキャリアでは明治、大正、昭和という激動の時代を生き抜いた骨太の「家父長」を演じるのは至難のわざだと思う。

「誰も僕をわかってくれない」

 元東京女学館理事長で、現在渋沢栄一記念財団理事長をつとめる渋沢家四代目の渋沢雅英は、父・敬三がときどき淋しそうな顔で「誰も僕をわかってくれない」と言うのをよく覚えているという。

 敬三はトランプの一人遊びをすることがよくあった。雅英はそんな敬三の姿に、すさまじいまでの孤独と寂寥の影を感じ取り、そのつど、山本周五郎の『樅(もみ)ノ木は残った』の主人公・原田甲斐の姿が父に重なる形で脳裏に浮かんだ。

 原田甲斐は仙台藩の重臣で、従来いわゆる伊達騒動の中心人物となった悪役とされてきた。だが、山本周五郎は原田の孤独感を温かいまなざしで見つめている。

〈自分はいつも誰かにどこからか見つめられていた。幼い時からそうだった。五歳で父に死なれてから、四千石の館主として周囲から見守られてきた。寝ても起きてもいつも誰かに見守られ、誰かにうるさく世話をやかれたり、忠言され意見されてきた。自由だったのは山籠りをしているときだけだった。そのときだけ自分は自由な人間らしい気持になることができた……〉

 敬三にとっての監視の目とは、栄一を頂点とする渋沢一族から絶えず注がれる期待と責任感が入り混じった目だった。

 それを慰藉してくれたのは、学問の道だった。学問に没入できれば、栄一から懇願されてついた銀行業務の煩雑さからも逃れられるし、栄一の偉大さに押しつぶされて妾遊びに狂い廃嫡となった渋沢家二代目の父・篤二からの重圧も一瞬忘れられる。

庶民のむき出しの性欲を露骨に描いた「土佐源氏」

 私が見るところ「青天を衝け」で六十作目となるNHK大河ドラマで最高の傑作は、昭和四十五(一九七〇)年に放映された平幹次朗主演の「樅ノ木は残った」である。共演は吉永小百合だった。

 あれは大人の鑑賞に堪える立派な作品となっていた。NHK大河ドラマはいつ頃からジャリ向けの番組になってしまったのか。

 話は戻る。これは『旅する巨人』の書籍版でも書いたことだが、私が宮本常一という男に最初に興味を持ったのは、中学時代に近所の図書館で借りてきて読んだ『忘れられた日本人』(未来社)があまりにも衝撃的だったからである。

 とりわけ庶民のむき出しの性欲を露骨に描いた同書所収の「土佐源氏」は、性に目覚めたばかりの中学生にとってはあまりにも刺激が強すぎた。

 その生々しすぎる描写の背後には、間違いなく性の暴風雨が吹き荒れていた。私が活字の裏から這い上がってくる言い知れぬ「暴力」を感じたのは、たぶんこれが初めての経験である。

「すきな女のお尻ならわたしでもなめますで」

「土佐源氏」の話のもとになったのは、宮本が土佐の山中で出会った盲目の元馬喰が語った昔話である。

 行く先々で何人もの女性と情を重ねた馬喰は、「おかたさま」と呼ばれる身分の高い女性に心底惚れるようになった。

 馬喰が「おかたさま」と初めて関係を結ぶのは、馬喰が「おかたさま」が大事に育てている牛の種つけをしたあとだった。

〈そしたらおかたさまは、駄屋をきれいになさって、敷わらも換えて、牛をぴかぴかするほどみがいていた。(中略)「おかたさまおかたさま、あんたのように牛を大事にする人は見たことがありません。どだい尻をなめてもええほどきれいにしておられる」というたら、それこそおかしそうに「あんなこといいなさる。どんなにきれいにしても尻がなめられようか」といいなさる。「なめますで、なめますで、牛どうしでもなめますで。すきな女のお尻ならわたしでもなめますで」いうたら、おかたさまはまっかになってあんた向こうをむきなさった〉

 種つけが終わると、牡牛は牝牛の尻をなめはじめた。馬喰は「それ見なされ」と言って「おかたさま」を口説き始めた。

〈「おかたさま、おかたさま、人間もかわりありませんで。わしなら、いくらでもおかたさまの……」。おかたさまは何もいわだった。わしの手をしっかりにぎりなさって、目へいっぱい涙をためてのう。

 わしは牛の駄屋の隣の納屋の藁(わら)の中でおかたさまと寝た〉

 それから間もなくおかたさまはポックリ死んだ。馬喰は三日三晩泣きに泣き、そのあげく目がつぶれた──。

人間が異常なほど好きな、宮本常一という男

 こんな猥雑なくせに哀切きわまりない物語を平気で書ける宮本常一という男は、相当好奇心が強いんだろうな、もっとストレートにいえば、異常なほど「助平」なんだろうと思ったことを覚えている。

 後年、宮本の顔写真を見たが、思った通り「好色」そうな顔だった。そのとき落胆したのと同時に、へんな信頼感を覚えた。人間が異常なほど好きでない限り、こういう「変態」的な「文学」は絶対に書けない。

 渋沢栄一が型破りな「助平」だったことは、すでに述べた。その栄一の孫の敬三と宮本が不思議な縁を結ぶ。それが人間世界の綾が織りなす、得もいわれぬ面白いところである。渋沢栄一は武蔵国・血洗島(現・埼玉県深谷市)の豪農の出身である。敬三はもしかすると、宮本に代々流れる祖父と同じ百姓の血を感じたのかもしれない。

 宮本の生涯を取材して驚いたことは、私の妻の父つまり義父の境遇に酷似していることだった。

宮本も義父も同じ大阪の逓信講習所で働いていた

 瀬戸内海の離島の出身だった宮本に対し、義父は秘境といわれた徳島県祖(い)谷(や)山(やま)の生まれである。若い頃、故郷から大阪に出た点も共通していた。

 それ以上に驚いたのは、宮本も義父も同じ大阪の逓信講習所で働いた経験をもっていたことだった。

 急増する電報の解読者を促成栽培する目的でつくられた逓信講習所は、卒業後各地の郵便局に配属されることを条件に、授業料、食費、寮費いずれも免除された。

 逓信講習所に集まってきた少年たちは、田舎育ちで学校の成績はよいが、家が貧しいため上級学校へ進めない者たちばかりだった。

 ここではモールス信号を聞いて文字に直し、その文字をまた符号にしてモールス信号を叩くという特訓が昼夜を問わず行われた。

 その時代のことを振り返って義父が「あれは脳の三重奏だった」と苦悶の表情を浮かべて言ったことを覚えている。十代の壮健な少年でなければとてもつとまらない仕事だったのだろう。

 逓信講習所の同級生たちのほとんどが結核にかかって吐血し、若死にした。宮本はそう回想している。

 郵便局を早期退職し、小学校の教師になったところも宮本と義父は同じだった。またこの頃、民俗学に引き付けられたことも共通している。

「没落するときはニコニコ笑いながら没落すればいい」

 宮本は大阪民俗談話会で渋沢敬三を知り、生涯の師と仰ぐことになる。東京の三田にあった渋沢敬三の豪邸に宮本は居候して、日本全国を巡り歩いた。

 その宮本を渋沢敬三は後に「わが食客は日本一」と回想している。渋沢敬三と宮本は理想的なパトロンとその恩恵を受ける貧乏学者の関係だった。

「日本資本主義の父」の渋沢栄一を祖父に持つ渋沢敬三は、日本の近代学問の発展に尽力した最大のパトロンだった。敬三が日本の学問発展に注いだ金は今なら百億円近くにのぼるといわれる。

 敬三は戦時中、東条英機になかば「強姦」される形で日銀副総裁に就任させられ、戦時費の捻出のため日銀券や赤字公債の無制限な発行を強要された。戦後は大蔵大臣になり、自ら創出した「財産税」捻出のため、三田の大豪邸を売り払い、便所もくみ取り式の三畳間の部屋に移り済んだ。それでも敬三は恬淡としたものだった。

 敬三がこの頃親しい仲間に呟いた有名な言葉がある。「没落するときはニコニコ笑いながら没落すればいい」。敬三は今ではとても考えられない「誇るべき日本人」だった。

「白地図に宮本が歩いた跡を赤インクで記すと、日本列島は真っ赤になる」

 一方、私の義父は「日本民俗学の父」と呼ばれた柳田国男と文通を始めた。義父は私から言うのも口幅ったいが大変な美男子だった。

 そこが弱点だったのか、宮本のように日本全国を歩く好奇心も体力もなかった。義父が残したのは祖谷の昔話集一冊だけだった。

 これに対して“旅する巨人”と呼ばれた宮本は日本の津々浦々を歩き、その土地に伝わる貴重な話を記録した。

「白地図に宮本が歩いた跡を赤インクで記すと、日本列島は真っ赤になる」といわれたのはこのためである。

 私があまり臆することなく見知らぬ土地を取材できるのも、宮本のおかげだと感謝している。

「忘れられた日本人」は、素晴らしい日本人だった

 そうそう、ここで思い出したことがある。妻の従兄はマグロ船に乗って遠洋航海する船乗りだった。

 その従兄が、水産学校の通信科に入ったとき、伯父にあたる義父からモールス信号の手ほどきを受けたことがあった。妻の話では、義父はうれしそうにモールス信号の打ち方を伝授していたそうである。

 やがて遠洋航海の時代は終わり、従兄も陸にあがった。そして六十歳そこそこの若さでガンにより鬼籍に入った。

 妻の話によると、いまわの際の従兄を見舞いに来た見知らぬ男がいたという。男は何もしゃべらず、従兄の手を取って指をしきりに動かしていたそうである。

 そのとき妻は気がついた。二人はかつての船乗り仲間で、その頃の昔話をきっと二人にしかわからないモールス信号でかわしているに違いない。

 このちょっとほろっとさせる話も、私にとっては極上の「忘れられた日本人」の物語である。

 渋沢栄一はすっかり時の人となってしまった。だが、これを読む読者の方々には、巨人・栄一の陰には、いまや「忘れられた日本人」になってしまった感のある敬三や宮本という素晴らしい日本人がいたことを忘れないでほしいのである。

(佐野 眞一)

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