三原山噴火口に次々飛び込む若者たち――加熱するメディア報道が導いた悲惨なブームとは

文春オンライン / 2019年11月24日 17時0分

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解説:メディアに重い責任がある三原山の自殺騒動

 昨年2018年の日本の自殺者は20840人で9年連続の減少。37年ぶりに21000人を割った(厚生労働省調べ)。それでも、若い世代の自殺願望は根強く、それにつけ込んだとされる「座間9遺体事件」のような犯罪も起きている。しかし、いまから86年前、伊豆大島・三原山を舞台に長期間続いた自殺騒ぎは、当時の時代状況を勘案しても、異常としかいえない現象だった。概要は 本編 にコンパクトにまとめられている。

 この事件は、「35大事件」の中でも抜きんでてメディアに重い責任があるといえる。「ジャーナリズムの招きで三原山に死んだとでもいうほかない」(橋川文三「日本の百年7アジア解放の夢」)との指摘もあるほどだ。その視点から振り返ってみよう。

「ああまで反響のある事件になろうとは思いもかけなかった」

 この事件の報道では読売と時事新報(福沢諭吉創刊、1936年、東京日日新聞が吸収)の印象が強い。しかし、第1報はどうだったか。

「どういう経路でこの事件が世間に知れたかというと、こうである。東京汽船大島元村の扱い所(旅客船事務所?)の所長が、同性心中の一人が生き残って帰るらしいとの話を聞いた。すると島の新聞社長Y氏と東京朝日通信員のI氏とが第六感から駆けつけてみると、既に本人は警察署に保護されており、これをまた別に見た自動車運転手の一人が『この前にも二人で登って一人で帰ってきた』という話であった。

 そこでY氏は嘱託の読売新聞へ、I氏は朝日新聞へそれぞれ打電し、さてこそこの事件が広がって大きな問題となったものである。当の通信員さえ、ああまで反響のある事件になろうとは思いもかけなかったのである」。

 大阪朝日の元記者で評論家の山名正太郎は戦後出版した「自殺について」でこう書いている。

「三原山に『死を誘ふ女』」「異常神経」どんどん過熱していく報道

 その後、朝日が記事を朝刊に突っ込むまでの詳しいいきさつは本編にある通り。1933年2月14日付朝刊は、自殺した松本貴代子の顔写真入りで社会面3段で報じている。ところが、富田昌子が1カ月前にも、自殺した学友の真許三枝子と同行していたことは書いていない。確認がとれなかったのか。同時にキャッチしたはずの読売は間に合わなかったのか。14日付朝刊に記事はない。

 15日付朝刊になって「学友の噴火口投身を 奇怪!二度道案内 実践女学校専門部生の怪行動 三原山に『死を誘ふ女』」のセンセーショナルな見出しで社会面半分近くを使い、大々的に報道。「火を噴く三原山頂 親友・死の立会ひ」などの見出しで、依然として三枝子のことには触れていない朝日を圧倒した。このあたりのいきさつがこの事件の過熱報道に火をつけた気がする。

 読売は15日付朝刊で、東京の下宿先から埼玉県忍町(現行田市)の実家に戻った昌子に「問題の昌子」の見出しを付け、16日付夕刊では「死んでいった二人はさぞかし喜んでいるだろう」と語ったとして『異常神経』」とまで表現した。

「死の案内者」というレッテルを張られた昌子

 朝日も15日付朝刊では「女学生の猟奇自殺」「気味の悪い頂上の打明話」という見出しを付けている。

 おかしいのは、読売が15日付朝刊の初報では、貴代子から「『(真許)三枝子さんには案内して、私には案内できないの』と詰められた昌子はやむなく同行登山したものと判明した」としていたのに、16日付夕刊では「なぜ昌子は友を噴火口まで連れて行ったか」と書いたこと。自分たちメディアが作り上げたストーリーに記事の流れを合わせたのか。

「死の案内者」というレッテルを張られた昌子は実家に引きこもったが、16日付朝刊の読売は、本人を中心に家族のプロフィールを細かく記述。実家を訪問して、本人と父から話を聞いた記事を父の顔写真入りで載せている。また、婦人之友4月号では、同社創業者で自由学園創設者の羽仁もと子が若い女性7人と対談しているが、その中でも昌子のことを「あの方の行為、私たちには考えられません。二度も友達を案内するなんて」「変態ですわね」と語り合っている。一方、三原山周辺は火が付いたような騒ぎになっていた。

新聞縮刷版の項目に「自殺・心中」があった時代

「三原山をさ迷ふ 危ふかつた心中者」(女性の別の男性との縁談を悲観して心中しようとした群馬県の男女が山中で保護された)=2月17日付朝刊、「大島へ自殺行 轢逃げ運転助手」(東京で車の運転練習中、自転車の男性をひき倒して逃走した男が大島署に連行された)=20付朝刊、「文学青年三名 三原山心中未遂」(同性心中を図ったが、噴火口近くで思いとどまった旧制中学の生徒3人が取り調べを受けた)=2月23日付朝刊、「三原山で浦高生自殺」(19歳の旧制浦和高校1年生が黒マントを残して噴火口に飛び込み自殺した)=2月28日付朝刊……。

 ちなみに、このころの新聞社会面は連日、自殺と心中のオンパレード。新聞縮刷版の項目に「自殺・心中」があったほどだった。三原山での自殺は「大正十二、三年ごろ、母娘の抱き合い投身があった」(「自殺について」)ほか、かなり起きていたようだ。「御神火茶屋の監視人の述懐によると、監視は昭和6年からできたものである。それまでは監視者とてなかったのであるが、それでも数百人の人々を救助しているとのことである」(同書)。「それにしても、昭和7、8年の日本は異常な時代だった」と「決定版昭和史6満州事変」中の鯖田豊之の論文「情死・自殺ブームとその時代」は言う。

「三原(山)病」「三原(山)患者」という言葉が生まれた

 2月26日には、松葉づえの若い女と二人の青年が同情自殺を企てたとして保護された(28日付朝刊)。その後も騒動は続く。4月14日には横浜高等女学校の同級生2人が「三原山に行く」と言って家出した(16日付朝刊)。4月18日朝、火口見物に来ていた東京・銀座の食品店勤務の18歳少年が、「誰か飛び込む者はないか」というヤジに「俺が飛び込むから見ておれ」と言い残し、あっという間に躍り込んでしまった(19日付夕刊)。5月7日の日曜日、「三原山の朝は風なく白煙天をつき、約1500名の見物人が殺到したが、そのうち例によって火口へ飛び込んだ者、男6名、未遂1名、大島署で保護した男10名、女15名、服毒自殺男1名あり、見物客の心を寒くした。1日に6名は最近のレコードである」(5月8日付朝日朝刊)。

 そのうち、「大勢の観衆の眼前で大手を広げて火口に飛び込み自殺を遂げた」のが京都市の男性と判明。「この飛び込み悲劇の舞台裏に、やはり『死の立ち合い男』が一名登場していたことが判明した」と伝えたのは5月10日付朝日夕刊。大阪の28歳の男で、「名古屋駅から同じ列車に乗り合わせ」「三原病患者と知るや、『死の東海道列車』内でお互いに三原山絶賛の言葉を投げ合い、三原山行きとなった」という。

 このころ、既に「三原(山)病」「三原(山)患者」が新聞紙上などに頻出するようになっていた。5月10日には、「巧みに警戒突破 男女そろって飛び込む」(見出し)と、その年初めての男女の「三原山心中」が起きた(5月14日付朝日朝刊)。7月には4人の男性が見物客の目の前で次々火口に身を投げたが、最後の1人は飛び損ねて戻ってきた。4人それぞれ事情があったが、偶然ぶつかり合って集団自殺の形になったという。

「取押えると、一緒に飛び込んでしまう危険がある」

 もちろん、地元や警察も手をこまねいていたわけではない。御神火茶屋の監視人たちも目を光らせ、地元大島署も警戒を強めていた。日本警察新聞1933年6月1日と10日号には「大島 有髯将軍」のペンネームで「三原山噴火口で何故自殺をされるか」が2回続きで載っている。その中では、自殺を防止する難しさが吐露されている。

「1人や女連れの2人は絶対に案内なしには見物させぬ。火口茶屋付近に待たせて、5、6名集まってから見物にやる。その時は火口際の下り口に門を作ってそこに監視人がおって注意する。大丈夫と見た者のみを見物させることにしている。

 火口には警察から1人と監視人が2人ぐらいで、火口端から3メートルくらい手前に1列にして、両端に警察官と監視人が付いていて、5分ぐらいより長い時間はおかないようにして警戒しているに、なぜ飛び込むかというに、いつも見物が終わって5、6メートル、皆と一緒に帰って行くから安心していると、突然引き返して駆け足で飛び込んでしまう。その時にどうして取押えぬかと言うが、取押えると、一緒に飛び込んでしまう危険がある」

「せっかく死のうと思うのに」人騒がせな自殺者たちが増加

 過熱するブームの余波も。「扉が閉らぬ 超満員の留置場」の見出しは4月11日付朝日朝刊の記事。「大島は依然として自殺者が続き、大島署はいよいよ自殺未遂者の保護で満員の大繁盛だ。7、8、9の3日間に保護された未遂者は男女14名、火口に消えてしまった者2名で、署員一同は保護者の取り調べと看視と三原山の巡視と旅宿の検査に走り回らされてもうへとへと」。

 5月10日付東京日日朝刊には、警視庁が巡査6名の増員を申し渡したという記事が載っている。5月12日付朝日夕刊には「大島署の留置場で前から保護中の未遂者男10名が『せっかく死のうと思うのに、なぜ引き留める』」と警官に食ってかかり」「ハンストを開始して手こずらせていると」いうニュースが。「人騒がせな三原山患者に 警察も手を焼く」の見出しが付いている。

 貴代子の四十九日に合わせて、和服の親友が身代わり人形を持って島に渡り、火口に投げたニュース(4月3日付朝刊)や、火口近くに「自殺防止地蔵」が安置された記事(4月27日付朝刊)も。4月29日付朝日朝刊には「大島の魅力 二日続きの休日・何(ど)の船も超満員」の見出しの記事が載った。

「午後8時に菊丸が400人(それに横浜から100人)、桐丸が350人を乗せて出帆。これだけで普段より1隻多いのだが、お客は後から後からわくように増えるので、さらに午後9時半には紅梅丸が250人を乗せ、10時には橘丸が350人、藤丸が150人を乗せて出帆した。以上船に乗れたのが1600人だが、乗れなかったのは何百人あったか見当がつかない」。これだけの人を集めたのは、単に三原山の噴火や椿など、観光地としての大島の魅力だけだったとは思えない。

社会的惨事をキャンペーンに転化させるメディアのしたたかさ

 こんな異常な雰囲気の中で、本編にもある通り、時事新報は5月1日付朝刊社会面のほぼ全面を使って、「三原山噴火口を下る 本社両記者・死を覚悟して ご神火の真ッ只中へ降下百二十尺!」の見出しで、4月30日に実施した三原山火口内部降下体験の記事と写真を掲載した。「こゝに世紀の記録を創成す」という自賛の見出しも付いていた。

 これに刺激されたのだろう。約1カ月後、今度は読売が社挙げての事業として「三原山噴火口底降下大探検」を行った。準備段階から大きく紙面で展開。5月30日付朝刊は「世界的大探検成功・三原山火口底を究む」の横見出し。「千二百五十尺降下」というから、単純に比較はできなくても、時事新報の10倍以上。火口底で男性の遺体を発見するおまけもついた。

 5月31日付夕刊には「科学と人の力の勝利」という当時の齋藤実首相(3年後の「二・二六事件」で殺害される)の祝賀談話まで載せている。多発する自殺を防止するため、科学的な解明を、という建前は分からないではないが、社会的な惨事を自社メディアの事業と紙面のキャンペーンに転化させるのは、したたかというか何というか……。

 見逃せないのは、時事新報が自社の探検成功の続報を掲載した、その5月2日付朝刊社会面の真ん中に置かれた「三原山の紹介者 自殺か謎の急死」という記事。

「一時も絶ゆることのない三原山の噴煙が永遠の青春を胸に抱く乙女たちの心臓にいまなお呼び掛けている折、奇しき因縁か! 去る1月12日、実践女学校の真許三枝子(25)、松本貴代子(21)の両女学生を死の火口に導き『死の案内者』として近来稀な猟奇的事件の主人公となり、同時に三原山の名をいよいよ有名にした富田昌子さん(21)が、事件の記憶、世上に生々しいさる29日、突如脳底脳膜炎に冒されてこの世を去った旨、1日、郷里埼玉県忍町の実家から同町役場に届け出があった」。

 そう報じたものの、診断した医師が所在不明であることなどから「自殺説も伝えられている」としている。

昌子の兄が反論「非人道的抹殺記事だ」

 こうしたメディアの姿勢に、昌子の兄・富田廸夫は婦人公論1933年6月号の「世に虐げられたる愛妹昌子を憶ふ」という文章で痛烈に反論した。

「ジャーナリズムは僕の骨肉の妹を殺した!」と叫び、「妹を疲弊さしたのはまず第一に××新聞の非人道的抹殺記事だったのだ。しかして僕の愛妹は『あの人たちにすまない』と言わねばならぬ立場だったのだろうか。彼女が二人の頑強な自殺者に取りつかれたために、あまりにも人の愛を知らぬ不幸な友を二人までも親友にしたためにこんな目に遭ったのだ」と訴えた。

「新聞のセンセーショナリズムが三原山事件を必要以上にクローズアップし、自殺・心中ブームの幕開きを用意した」と「日本の百年7アジア解放の夢」も厳しく指摘している。

 過熱報道は新聞だけではなかった。この時期、こうした事件に反応するのは女性雑誌(当時は婦人雑誌と呼んだ)を中心にした雑誌だった。

 週刊朝日は2月26日号で「嘆きの青春 近代女学生気質」「春浅し・花咲かで散った制服の処女ふたり」という見出しで、同時期に、愛人の芸妓に走った前衆院議員の長女が自殺した事件と合わせて、三原山の事件を論じた。婦人倶楽部は4月号で「特派記者」による「三原山の煙と消えた女学生自殺の真相を探ねて」で3人の女性の足取りをたどった。

 婦女界7月号は読売の火口探検の「立会記」。文藝春秋の「話」9月号は「本社特派員」2人による「三原山自殺者を救ひに行く」と“大きく出た”長大な現地取材ルポを掲載した。その中では、火口に飛び込む自殺者を複数目撃しているほか、こんなことも記録している。「『一つくらい、飛び込むのを見物していきたいもんだな』と、登りの時一緒だった紺の背広の青年紳士が遅れて上がってきていたが、こんな冗談を言ったりした」

年間を通じては男804人、女140人が死んだ

 結局、「前年の三原山自殺者が自殺9名、未遂30名だったものが、この年1933(昭和8)年は1月から3月までの間に自殺者32名、未遂67名に達し、年間を通じては男804人、女140人が死んだ」(「日本の百年7アジア解放の夢」)。

 若者たちが三原山での自殺に引かれることについて、当時もさまざまな論評や分析がメディアに登場した。「別にどうということもなく、性格の問題で、いつの時代にもあることだ」(作家・菊池寛)、「自殺した貴代子さんの心理は、昔ながらの、動揺期における突き詰めた死へのあこがれというものだろうか。

 現実的になりつつあるという現代の若い女性通有の傾向から遠く離れた生活態度の結論だと言ってはいけないだろうか」(作家・吉屋信子)、「原因は分からないが、感情障害に起因するものが大部分を占めているものではないかと思う」(歌人、精神科医・斎藤茂吉)……。

 ただ、全体として事件の特殊性に戸惑った感じが強く、的確な発言は少ないように思える。「自殺について」は「問題の焦点となった点はどこにあろうか」と自問。自殺における(1)集団性(2)開放性(3)伝染性(4)遊戯性―の4点を挙げている。「白日の下に、見物人の中から飛び込んだりする」開放性という指摘などはジャーナリスティックで興味深い。

 5月14日付読売朝刊文芸欄では、元読売・朝日記者で評論家の新居格が「三原山階級批判」のタイトルで社会時評を書いている。その中では「『三原山階級』には『三原山患者としての自殺者』と『モブ』の2種類がある」とした。モブとは群集心理に惑わされた人々のことか。そして「三原山患者は時代の生んだ泡沫的畸形態で、流行ではあるが、時代遅れな時代中毒性というほかないのである」と結論づけている。

1000人につき10人、100人につき1人近くが必ず若者が死んでいた

 興味深いのは「情死・自殺ブームとその時代」の指摘だ。「昭和ひとけた時代の若者を取り巻く条件に注目してみたい」として、昭和10年代の死亡率を取り上げ、「10~14歳の死亡率が最低なのは同じでも、以後急速に上昇し、20~24歳で一つのピークに達していた。1000人につき10人、100人につき1人近くが必ず死んでいたことになる」「20歳代前半の若者にとって、死は遠い将来のことではなく、極めて身近な存在であった。こうなった直接の大きな原因は結核死亡だった」と指摘している。

 結核は戦前から戦後しばらくまでの間はたびたび死因順位の1位になり、高い死亡率が続いていた。1927年以降、この1933年までは年間の死亡者数が12万人前後。人口10万人に対する死亡率は1932年の179.6を底にして高いレベルを保ったまま徐々に上昇していた(藤田真之助ら編「日本結核全書第1巻」)。

結核の恐怖が若者たちに及ぼした影響

 青木正和「結核の歴史」は「注目されることは、1932~1944年の間、総死亡率が低下を続けているのに、結核死亡率だけが急速に上昇している点である」「特定年齢の結核死亡率の推移を見ると、20~24歳の男性の結核死亡率が爆発的に増加していることで、1938年の10万対503.9から1943年の10万対822.1へと1.6倍となり、25~29歳、30~34歳でもほぼ同じ傾向であった」と指摘する。

「20~24歳の死因の半分までが結核だった」と「情死・自殺ブームとその時代」も指摘する。「結核菌の毒性は強くないので、感染してもすぐには発病しない。栄養不足や過労などで抵抗力が衰えたときに限って発病する。特に思春期から成年に達するころが一番危ない」。

 もちろん、三原山をはじめ、自殺志願者が結核患者や結核を恐れる人たちだったわけではないが、そうした事実が若者らに及ぼした影響は大きいだろう。「自ら死を選びとることは日本人の場合、多分にあらゆる汚れを洗い落とすことを意味した」(同論文)。

 明治、大正を通じても「自殺を普通では手の届かない、何か美しいもの、崇高なものとみなす風潮がいつかできあがっていた。そうした風潮の下で昭和ひとけた時代の日本の若者が早めに死を選びとる死の美学にとりつかれたとして不思議はない。むしろ、何の精神的苦痛もなさそうな顔つきで、生き恥をさらしつつある世の大人どもは、彼らには軽蔑の対象だったかもしれない」と同論文は言う。

「19歳になったら死ぬ」「死体は人に見せたくない」

 三原山で身を投げた松本貴代子は結核だったわけではないが、「極端なほどの結婚否定論者で、徹底的に男性の横暴と女性の奴隷化を憎悪していたことを忘れることはできない。中年の人妻に向かって『どうしてあんな男と一緒になったの。恥ずかしいと思わない?』と聞いたり、実姉に対して『3人も子どもを産んだりして、お姉さんたら何がうれしいんだろ』と冷やかしたりしたこともあった」「常々『19歳になったら死ぬんだ』とか、『死体は人に見せたくない』と漏らしていただけに、前年の秋にクラスメートと来た三原山を死に場所に選んだと思われる」と「日本の百年7アジア解放の夢」は書く。確かに、結核のロマンチックなイメージに近いといえる。貴代子は昌子と三原山を登りながら、「大島の椿を見て歌を作りましょう」と言う。貴代子は万葉集や金槐和歌集が好きで、以前から短歌に親しんでいた。最後に詠んだのがこの歌だった。

「やけくさき溶岩の道つづきたり三原の山にけぶりたちたつ」

 そこには間違いなく、時代風潮に対する深刻な不安も重なっていたはずだ。

 前前年の1931年、軍部は満州事変を引き起こし、やがて日本は国際的に孤立する。1932年には「満州国」が成立。「昭和の35大事件」で近く取り上げる「天国に結ぶ恋」坂田山心中が起き、「五・一五事件」が発生する。そしてこの1933年、貴代子の自殺した直後には、作家小林多喜二が逮捕・虐殺される。同じ2月、ダミアの歌う「暗い日曜日」が厭世的で自殺を誘う恐れがあるとして発売禁止に。3月、国際連盟脱退。夏には「東京音頭」が大流行するが、人々に不安がなかったといえば全くのウソだろう。やけくそな気分が混じっていたのではないか。

 そして「翌昭和9年以降になると、若者の自殺が多いのは相変わらずでも、ブームは鎮静し始めた」と「情死・自殺ブームとその時代」は説明する。「国家がいくらでも若者に死ぬ機会と場所を提供してくれるようになり、わざわざ死を選びとる必要がなくなっていった」

本編 「三原山投身繁昌記」 を読む

【参考文献】
▽橋川文三「日本の百年7アジア解放の夢」 筑摩書房 1978年
▽山名正太郎「自殺について」 北隆館 1949年
▽鯖田豊之「情死・自殺ブームとその時代」=「決定版昭和史6満州事変」毎日新聞社 1984年所収
▽岩田得三「三原火口底探検記」 伊藤書房 1933年
▽藤田真之助ら編「日本結核全書第1巻」 金原出版ほか 1957年
▽青木正和「結核の歴史 日本社会との関わり その過去、現在、未来」 講談社 2003年

(小池 新/文藝春秋 増刊号 昭和の35大事件)

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