名画から三島由紀夫、昭和天皇まで ある美術家が「丸ごと真似る」にこだわってきた理由

文春オンライン / 2020年3月14日 11時0分

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「学ぶ=真似ぶ」だとは、よく言われるところ。何かを学んで理解しモノにするには、まず真似から入るのがいい。

 思い起こせば小学生のころ、漢字を覚えるにはお手本をなぞるところから始めたものだ。その後に反復練習で理解を定着させて、ようやく「身につけた」ことになる。算数の計算問題も歴史の年号も、理屈は同じだった。

 まずは「型」を手に入れること。そうでなければ「型破り」な表現やオリジナリティなんて、出てくるはずもない。

 アートの世界で随一、「学ぶ=真似ぶ」という基本にずっと忠実であり続けてきたのが、森村泰昌である。美術をすなる者はまず名画に学べ! と、みずからゴッホの自画像に扮したポートレート作品を発表したのは1985年のことだった。

 以来、レンブラントやウォーホルら美術史上の巨匠の自画像になりすまして作品に収まるのはもちろんのこと、マリリン・モンローからガンジー、原節子まで、歴史上の人物の姿かたちになりきる作品を無数に発表してきた。

 そんな森村泰昌の作品群を、全館にわたって展開した展覧会が開催中である。原美術館での「森村泰昌:エゴオブスクラ東京2020−さまよえるニッポンの私」。

マネから三島由紀夫まで、変幻自在の変身

 もともと邸宅だった建築を美術館に転用している同館は、1~2階にかけて展示空間が広がっている。1階には森村が、近代美術の一大転換点を成すエドゥアール・マネの絵画《オランピア》《フォリー・ベルジェールのバー》に「侵入」した作品が、大々的に展開される。森村はここで画面の隅々まで凝りに凝って名画を再構成しており、その完成度やきらびやかさたるやすごい。元絵との比較もしたくなるので、ついつい見入ってしまう。

 2階へ上ると、マリリン・モンローや三島由紀夫になった森村の姿が現れる。メークや衣装によって、人はここまで雰囲気を変えられるものかと感嘆しきりだ。同時に頭をよぎるのは、森村はかくも多大な時間と労力をかけて、いったい何を為そうというのかという疑問だ。

 森村のしていることが、単なるモノマネ芸じゃないのは明らか。想像するに森村は、マネやマリリンや三島の創作にもっと、もっと肉薄したいと強く願っている。そのためには「真似る」ことだ。丸ごと真似ることで作品を学び、深い理解に達しようとしているんじゃないか。

 さらには、森村作品ではどんな名画にも自分がなりきるのだから、すべてはセルフポートレートである。名画を真似ることは対象をよりよく知るためであるとともに、己を知るための有効な手段にもなり得ているだろう。

 歴史とは何か。創造とは何か。そして私とは何か。過去の作品や人物になりきることで、森村はそうした問いを深め続けてきたというわけだ。

映像作品で「ニッポンの私」をふりかえる

 2階のいちばん奥の室では、新作映像が流されている。《エゴオブスクラ》と名付けられた作品で、この中で森村は昭和天皇とマッカーサー、三島由紀夫などになりすましながら、日本の近現代史をたどっている。

 映像内で森村は、大意このようなことを問わず語りする。曰く、真理、価値、思想などといったものは、人の内面にあるのじゃない。それらはいつも人の外側にあって、衣服のように着脱が可能である、と。

 そうか森村はこれまで、さまざまな歴史上の人物を衣服のように着たり脱いだりして、作品をつくってきたということになる。そうしてタイトルの通り、「さまよえるニッポンの私」の姿を浮き彫りにせんと試み続けてきたのだ。

 館内には、かつて森村がつくり設置した常設インスタレーション《輪舞(ロンド)》もある。併せて観ながら、首尾一貫した活動を積み重ねる森村泰昌の全貌に触れてみたい。

(山内 宏泰)

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