紗倉まなインタビュー「どうして生産性のない、無意味で放漫な性を求めてしまうのか」《AV女優と純文学》

文春オンライン / 2020年3月15日 18時0分

写真

性や表現について真摯に語る紗倉まなさん ©文藝春秋

「職業は、“エロ屋”ですね。AV(アダルトビデオ)の仕事も物を書くことも、その言葉に内包される。下町感があるというか、泥臭いにおいがする言葉でもあって、自分に適していると思うんです」

 少し照れくさそうに話すのは、現役の人気AV女優、紗倉まなさん(26)。

 タレントや歌手、作家としての顔も持つ紗倉さんは2月末に3冊目となる小説の単行本『春、死なん』(講談社)を刊行した。収録されているのは高齢者の性を描く「春、死なん」と、母親である女性の性を見つめる「ははばなれ」の2作。どちらも芥川賞受賞作を多数送り出してきた文芸誌「群像」に掲載された堂々たる純文学作品だ。

 敬遠されがちな「性」という題材に真っ向から挑んだ小説集の反響は大きく、発売後1週間もたたずに増刷が決まった。

 AV女優と純文学――。性や表現について真摯に語る紗倉さんへのインタビューから、この2つの仕事を結ぶ線がうっすらと見えてきた。

70代の「性のにおい」には安堵を覚える

――「春、死なん」は妻に先立たれて、息子夫婦と2世帯住宅に暮らしている70歳の富雄が主人公で、目の不調に悩まされながら、DVDを見ては自慰行為にふける孤独な日々を送っています。ご自身よりもはるかに年長の男性の性を描いたことに驚きました。

紗倉 AVをリリースするときのイベントに、50~70代の方々が来てくださることが多いんです。エロ本を買ってくださるのも高齢者と呼ばれるその層の方々がメインだと聞きます。作品に東京オリンピックに向けたコンビニの「エロ本規制」のくだりも書いたんですが、「じゃあ、エロ本がなくなったら、その方々はどう性欲を処理するのかな?」って、ずっと興味があって。書きたい題材だったんです。

――70歳も性的にはまだまだ現役です。

紗倉 はい。父親や祖父くらいの年代の人に「性のにおい」があったら嫌だという女性は多いかもしれません。でも私は全く違って……。昔、父の部屋にAVが置いてあるのを見つけたときにも、そんな性の一面があることにむしろ安堵を覚えたんですよね。性欲も、食欲や睡眠欲と同じように、逆にないと不安になってしまうもの。人間として欲望が尽きないほうに魅力を感じるんです。

 実は富雄はいまの自分の延長上にある人物として描いたんです。欲望は変わらずある。そして、どこかに孤独やさみしさを抱えている。自分の中に消化しきれないモヤモヤを抱えていて、揺れている人物。私自身、全然友達もいないですし、このまま年老いたら、どう生活していくのかなって。誰からもずっと相手にされなくなってしまうとしたら、どうなってしまうんだろうと。男性だけれど、数年先の自分を思い浮かべるくらいの感覚で富雄を見ていました。

セックスは「心の止まり木」だと思う

――作中では、昔の女友達とセックスする富雄の内面が次のように語られます。〈生産性のない、無意味で放漫なセックスであるのかもしれない。しかし、それがなんだというのだろうか。(略)魂と肉体がゆすぶられ、一人では達することのできない快感の波が襲った時に、まだ確実に残っている男としての性を実感した〉。どのような思いを込めましたか。

紗倉 セックスって、私は「心の止まり木」みたいなものだと思っているんです。出産や妊娠を目的にするだけでなく、男性も女性も癒しを求めてすることだってある。それは、新しい世界や価値観に触れるための長い航海をする前に、一度思考を整理したり元気をもらったりするための足場であり、憩いの時間。「軽く見ている!」って言われてしまうかもしれませんが、私はセックスを重くも軽くもなく、前向きにとらえています。相手がいることだからこそ自分一人だけでは絶対に解消できない何かがある。そこに行きつけたら、奇跡に近いことだなって。

――もう一つの収録作「ははばなれ」では、紗倉さんと同世代の娘の目から、母親とその恋人だという男の姿がつづられています。母親という、いわば社会的に押し付けられた役割からの解放が描かれる点は「春、死なん」と共通するものを感じます。

紗倉 私のなかでも自分の母親には自由に生きてほしいと願いつつも、従来の母親像を崩してほしくないという気持ちがどこかにあるような気がして、そんな矛盾による葛藤がいまだにあります。

 誰しもが社会や家族のなかで、立ち位置だったり役割分担を自然と強いられてしまっていると思うんです。母はよき母親としての理想像を求められて、祖父は「清く正しいおじいちゃん像」を孫から求められる。それは当たり前のようだけど、時にすごく窮屈に感じる瞬間でもあると思うんです。そうした役割、理想像からの解放を意識して書きました。

――「自由」や「解放」というのは、紗倉さんの表現活動を貫くキーワードのような気がします。著書『高専生だった私が出会った世界でたった一つの天職』(宝島社)に、「憧れだったAV女優という仕事をすることで自分自身と向き合い、殻を破りたかった」と書かれていますよね。AV女優になって、「殻」は破れましたか?

紗倉 業界のムードにもまれたのが良かったと思います。私が所属するSOD(ソフト・オン・デマンド)はハチャメチャなことをするアダルトメーカーで(笑)。自分なりの模範解答を演じてみせても「枠にはまりすぎてつまんない」「もっと自分を出せばいいのに」と煽られる。逆に「こんなに感情的になっちゃった!」と自分で後悔したような絡みのシーンが一番ほめられたりする。

 私が思う理想の自分と、みんなが思う私のいい姿は乖離している。それをすごく感じました。そもそも自分は裸になって体はすべてむき出しにしている。それなのに心をむき出しにできないのって、なんか格好悪いなって思えるようになったんです。これは自分が望んだ変化でした。

AV女優の延長上に「内情も出す」書く行為があった

――どういうきっかけでAV女優に憧れるようになったのでしょうか?

 先ほどの話にもありましたが、14歳のときに父親の部屋にあったAVを偶然見てしまったんですよね。不思議と汚らわしさとか嫌悪感は全く沸きあがらず、ただ、そこに映った女性に憧れたんです。「彫刻みたいできれいだな」「大人になってこういう女性になれるかな」って。高専に進学してからもその映像は自分の中に引っかかっていて、ネット検索してAV女優という仕事に行きついたんですよね。

 そのころの自分は今以上に臆病で、いろんなことを勝手に自制してしまって何にも行動に移せなかった。石橋を叩きすぎて壊してしまうくらい慎重だったんです。相手を傷つけまいと思って、どんな言葉をかけられても「これがベストだろう」という模範解答を勝手にこしらえてしまう。だからブレはないけれど、面白みも全くないんですよね。どこを切っても同じ金太郎飴みたいなそんなつまらない自分が、すごくくすぐったかった。どこかに「心の殻」を破ることで自分の違った側面を見てみたい、という思いがあった気がします。

 ただの金太郎飴から、少しでも色合いの豊かな金太郎飴になりたい――。そう思ってAV業界で日々もまれ、いろんなことに気づけたからこそ、何かを書きたいという気持ちも強くなっていったんです。AV女優はやっぱり私の原点で、その延長上に「自分の内情も出す」という書く行為があったんですよね。

――AVデビューから8年がたちます。今後はどんな表現活動を?

紗倉 AV業界は音楽業界とも少し似ていて、自分の需要が途切れたら契約が切られてしまうシビアな世界です。だから今後についても、自分の希望とは別のところで決まることもある、という自覚がある。私は需要がなくなったときに潔く去りたい、という気持ちがあるんです。今でも本当に需要があるかよくわからないんですけど(笑)。長く続けたいなあとは思いつつ、現実的にはあと数年のことかもしれない……なんて最近よく考えますね。

 表現をすることはすごく好きなんです。ドラマや映画での表現もすごく魅力があるけれど、私は何回も推敲できる文章での表現にすごく安心感を覚えるんです。自分一人でできて、時間をかけて自分の感情を一番適切な言葉に落とし込める。そんな書くという行為が自分にとっては一番心地良いんです。同時に、才能のなさに自信を失ってしまうこともあるんですけど(笑)。

役割に縛られ苦しむなら、違うところで発散するのも……

――最後にもう一つお聞きします。「春、死なん」のなかで、婚約直後の主人公が浮気して女性と寝てしまう場面があります。現代社会では、性の問題でも、浮気や不倫についての報道が注目を集めています。どのように捉えていますか?

紗倉 当事者間でしかわからないようなことを、他者がまるで自分のことであるかのように憤る。そんな風潮に私はちょっとついていけないところがあって。モラルの基準ってその時代によって移ろうものだと思っていて、10、20年前だったら? 別の国だったら? と想像してみると、今の社会の常識も必ずしも普遍的ではないですよね。

 不倫は肯定も否定もしないですけど、私が小説に書いた「役割」という面で見ると、「結婚したらセックスに応じるのも妻や夫の役目なんだ」といわれたら、それを強制するのもまた違うと思います。

 私は、突飛な仕事をしているからなのか、「役割」的なものについて気にせずに生きてきたと思います。だからこそ、主人公の富雄のように、どうして若い頃、結婚が決まっていたのに別の女性とまぐわってしまったのか、また、その後長年連れ添って亡くなった自分の妻に対してなぜここまで依存してしまうのか……。そういう「自分がどうしてこうなってしまうのか」の答えを見つけられずに揺れたまま年齢を重ねてしまう人は、少なくないんじゃないかと思います。

 それだけに、役割に縛られすぎて苦しむのであれば、違うところで欲情を発散するのは、一つの方法としてありなのかなあ、と。さみしさを発散するすべとして。結局「役割」のしわ寄せで誰かがすごく窮屈になってしまうのが私はもどかしい、というか……。でも何とも言いきれないですね、なんせ、結婚したことないもので(笑)。

 

(沢辺 章/週刊文春デジタル)

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング