山口組で“長期的ビジョン”を持つ3人のヤクザ 警察幹部もうなる「高山が見据える7代目と8代目以降」

文春オンライン / 2020年3月22日 18時10分

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6代目山口組若頭の高山清司 ©共同通信社

「武闘派ヤクザ」高山若頭の智謀……“暴力団業界のM&A”で東京進出の舞台裏 から続く

「100年の歴史のある山口組で、長期的な視点で戦略を考えた人物は3人いる。1人は3代目組長の田岡一雄。続いて5代目若頭の宅見勝。そして、6代目若頭の高山清司だ」

 そう指摘するのは、長年にわたり組織犯罪対策を担い、山口組を厳しく取り締まってきた立場の警察庁幹部だ。それだけ手強い相手だということだろう。

 6代目山口組の若頭就任後、圧倒的な「高山支配」を築き上げたてきた手法とは、どのようなものだったのか。

直参組長の経済的負担が増えた

「6代目山口組」組長に司忍が正式に就任し、高山清司が若頭となったのは2005年8月のことだ。

 しかし、新体制が動き出した矢先の同年12月、銃刀法違反の罪で懲役6年の実刑が確定した司が収監されてしまう。高山は山口組ナンバー2として、組織の運営にあたることになり、当初は「司・高山体制」と称されたが、司収監後は事実上の「高山支配」へと移行していくことになった。

 6代目体制が発足した当時、執行部には5代目体制時の最高幹部たちが引き続き名を連ねていた。

 5代目体制時の最高幹部で最も大きな存在は、若頭補佐を務めた山健組組長だった桑田兼吉だった。桑田は6代目体制発足前に銃刀法違反容疑で逮捕され裁判が続くなか、山健組組長の座を井上邦雄(現・神戸山口組組長)に譲っていた。

 桑田は若頭補佐という立場以上に、山口組内だけでなく他の組織からも存在感の大きい暴力団業界全体の重鎮として知られていた。その桑田は2007年4月に病死する。

 前後して高山は山口組内部で「上納金」と呼ばれる会費の徴収のほかに、2次団体となる直参の直系組織から新たな資金の徴収を始めた。ミネラルウォーターや米などの食料品や石鹸などの日用雑貨を、半ば押し売りのように販売を始めた。6代目体制になり上納金が増額されたうえ日用品の販売。直参組長たちの経済的な負担は増えた。

 山口組幹部は、「ある直参の事務所を訪ねたら、玄関先にミネラルウォーターの箱が山積みになっていた。『これはあれか?』と聞いたところ、『そうそう、あれだよ』との返事があった。本家から送られてくる水だった。どの組も水や米、その他の雑貨の処理に困っていた。飲食店などに回すことが出来るところはよいが、中には、『雑貨屋でもやるか』と冗談を言っていたところもあった」と話す。

 事態は冗談では済まず、一部の古参幹部の間では積もっていた不満が少しずつ表面化することとなり、武闘派であり経済ヤクザとしても名が知られた最高幹部の事実上の追放劇が展開されることとなる。

後藤組追放の契機となったゴルフコンペ

 直参組織の間で経済的な負担が増して行き、鬱積した不満が高まり不穏な雰囲気が漂うなか、衝撃的な記事が週刊新潮の2008年10月9日号に掲載された。

〈大物「暴力団組長」 誕生日コンペ&パーティーに「細川たかし」「小林旭」「角川博」「松原のぶえ」〉

 記事は3ページにわたり、暴力団組長の誕生日を祝うゴルフコンペと夕方からのパーティーの様子を詳述。記事内では暴力団組長について山口組系暴力団A組長と記述し、「裏社会ではその名が轟く“大物組長”」と紹介。ゴルフには約140人が参加し、パーティーには約200人が出席。会場に来ていた細川たかしがアルコールのため真っ赤になった顔で持ち歌の「北酒場」を熱唱したという。

 この記事の主人公となっていた「A組長」とあるのは、後藤組組長の後藤忠政であることは山口組だけでなく、暴力団業界を少しでも知る者たちにはすぐに知れ渡った。

 後藤組の名は、暴力団を批判的に描いた映画「ミンボーの女」を制作した映画監督、伊丹十三を襲撃した事件で世間に響き渡った。1992年5月、後藤組組員らが刃物で伊丹の顔を切りつける残忍手口だった。際立つ暴力性から世間から危険視される存在となっていた。

 後藤が直参に取り立てられたのは4代目山口組時代で、山口組側として山一抗争にも参加している。最高幹部として若頭補佐に昇格したのは5代目時代の2002年7月だ。武闘派としてだけでなく、不動産など表経済にも進出し巨額のシノギを手にし、5代目組長の渡辺には上納金以上の資金を提供していたとされる。6代目の時代となると古参の最高幹部だった。

 当時の状況を知る山口組幹部が語る。

「後藤さんからすると、高山の頭は『枝(2次団体)の子(分)』という感覚だったのでは。かつてだったら、『おい、高山!』と呼びつければ、『何でしょう、おじさん』となる立場だった。それが6代目体制になったら、高山さんがナンバー2の本家の頭になった。こういうことは企業でも組織の若返り、新陳代謝のようなものかもしれないが」

 微妙な雰囲気が漂っていたのは間違いなかった。後藤は山口組本家で開催される定例会も体調不良などを理由に次第に欠席するようになる。古参幹部の中には、こうした後藤の批判的を通り越した反抗的な態度に同調する動きも少しずつ現れてきた。

 見え隠れする不穏な動き、信憑性が疑わしい情報が流れ疑心暗鬼が募るなか、週刊新潮の記事が出たこともあり、6代目執行部の方針は決定した。

 2008年10月、山口組は臨時の最高幹部会を開催し後藤の除籍を決定。その後、高山ら山口組執行部を痛烈に批判するとともに後藤を擁護する「怪文書」がばらまかれ、内部の溝を深める動きも表面化した。

 高山はさらに十数人の古参幹部を絶縁や除籍とし、5代目時代から名を連ねた最高幹部が大量に粛清されることになった。

 前出の山口組幹部は「後藤さんは直参が長く座布団(地位)は自分の方が高いと思っているから、新執行部にとって後藤組の存在は目の上のタンコブ。ゴルフコンペは後藤組追放の絶好の口実だった」と内情を明かす。

立ちはだかった警察

「高山体制」が確立することになったが、ここで山口組の進路に大きく立ちはだかったのが警察だ。

 当時の警察庁長官、安藤隆春は「弘道会の弱体化なくして山口組の弱体化はなく、山口組の弱体化なくして暴力団の弱体化はない」と弘道会を名指しして集中取り締まりを全国警察に指示した。その後、高山は2010年11月に京都府警に恐喝容疑で逮捕され、13年3月には京都地裁で懲役6年の実刑判決が下る。14年6月には収監された。

 高山が獄中生活を送るなか、暴力団業界に後藤組追放以上の衝撃的な情報が駆け巡った。15年8月27日、山健組や宅見組、正木組など13組織が山口組を離脱し神戸山口組を結成。再び分裂状態となった。

 ある山口組幹部は8月27日という日付に注目している。

「神戸(山口組)が出て行った8月27日は、10年前(2005年)に6代目の継承式が行われたのと同じ日だ。この日に出て行ったのは嫌がらせという意味もあると思う」

警察庁幹部がみた「高山」

 山口組の歴史上、高山は傑出した存在であるには違いないと、警察関係者は口を揃える。記事冒頭で、3代目組長の田岡、5代目若頭の宅見と並ぶ存在と高山を評した警察庁幹部は、次のように解説する。

「田岡は神戸の地方組織に過ぎなかった山口組を国内最大規模に押し上げた。この当時、警察の取り締まり強化で様々な暴力団が解散していくなか、田岡だけは決して信念を曲げることなく一人でもやっていく考えで押し通した。

 5代目体制発足当初は、宅見は組長機関説のような考えの持ち主であったことが窺える。組長には田岡のような強いカリスマ性がなくとも機関としての役割を持たせることで、ナンバー2として組織を運営して行こうとしていた。次第に執行部に溝ができて、途中で殺されてしまったが」

 さらに高山について、こんな自説を披露する。

「数々の内部分裂などの歴史を踏まえ、6代目体制ではツートップを独占して、支配を強め中央集権的な組織にしようとしていたのではないか。5代目体制の時には統制がゆるいところがあったから。しかし、あまりに統制が厳しく、多くの直参が息苦しくなったのではないだろうか」(同前)

 別の警察庁幹部は、高山について次のように推測する。

「これまでの歴史からして今後も必ず内部で派閥争いが起きて分裂騒動が持ち上がることになると、高山は分かっている。高山ならすでに、それを見越して次の7代目だけでなく8代目以降をどうするか、考えているはずだ」

 警察幹部が高山を評価するのは妙な話だが、山口組弱体化のための警察のターゲットは今後も高山であることだけは間違いない。(敬称略)

(尾島 正洋/週刊文春デジタル)

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