「息子を死なせたくなかったら陸軍大学校へ」 無謀な戦争で、山本五十六は何を目指したか

文春オンライン / 2020年7月15日 11時0分

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山本五十六

 山本五十六といえば、日独伊三国同盟、対米強硬路線に反対しながらも、真珠湾攻撃の指揮を行った海軍の連合艦隊司令長官として国民的英雄となったが、時代によって変遷をたどり、軍人的評価も「名将」「凡将」「愚将」とさまざまだ。

 作家の保阪正康さんは、後方で安穏と暮らしながら机上の地図で作戦を練り、人の命をほしいままにしていた戦争指導者も少なくなかった状況で、山本五十六は「人の心を持った軍人だった」と語る。 『昭和史七つの謎と七大事件 戦争、軍隊、官僚、そして日本人』 (角川新書)の一部を紹介する。

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戦争指導者と兵士の関係

 太平洋戦争を見つめる新しい視点、あるいはなぜこの点がもっと深く論じられてこなかったのだろうという謎に、戦争指導者と兵士の関係がある。大本営、ないしは後方にあっての司令部では、将軍や参謀たちが地図とにらめっこをしながら、こっちの部隊はあっちへ、あっちの部隊をこっちへと兵士を動かすわけだが、動かされている兵士の方はそれによって自らの「生」と「死」が決まることになる。

 戦争とはそういうものさ、といってしまえばその通りだが、ここには重要な問題が隠されている。戦争とは、将軍や参謀にとっては自らの栄達を極める仕事だが、兵士にとっては死への直進という意味である。そして、9割以上は兵士なのである。それゆえに、戦時指導者と兵士との関係は、指導者は兵士の運命を伴うという本質を含んでいるのだ。

 そのことを日本の軍人たちはどの程度理解しているかとなると、はなはだ心もとないといわなければならない。

「これからの戦争は、悲惨になるだろう」

 第一次世界大戦は、まったく戦争の様相を変えた。科学技術の発達による兵器の開発が著しく進んだ。戦車が作られ、飛行機に爆弾を積んで相手方の陣地に落とす。あるいは高射砲の改造が進み、何10キロ先の相手側の陣地まで弾丸は飛んでいく。さらに毒ガスまでつくられた。国家総力戦に移行するなかで、戦略や戦術もまた変わっていった。

 こうした状況を捉えて、当時イギリスの指導的政治家だったW・チャーチルは、このようなことを喝破している。

「これからの戦争は、悲惨になるだろう。後方の司令部にあって、暖衣飽食しながら作戦計画を練る参謀たちと、第一線で命を投げ出す兵士たちとの間に大きな亀裂が生まれる。兵士たちにとっては悲惨で残酷な運命が待ち受けていることになる」

 この予想が現実のものとなったのである。

 あえて私自身の体験についてふれておくが、1980年代のことだ。ある陸軍大学校出身の大本営参謀と話をしていた時、彼は陸大卒の参謀がいかに太平洋戦争に貢献したかを語ったあとに、尋ねた。

エリート軍人に「本来戦死はありえない」

「君に息子さんはいるのか」

「小学生の息子がいます」

 私が答えると、彼はすぐに語りだした。

「もし君が息子を戦争で死なせたくなかったら──これからは大きな戦争はないだろうけど、それにしてもぜひ陸軍大学校に入れるといい。今なら防衛大になるけどね」

「なぜ防衛大に入学させなければならないのですか」

「決まってるだろう。死なせたくなかったらだよ。自分の陸大時の同級生が50人余り(陸大の定員は普通50人。その受験資格が決められているせいもあるが、倍率はかなり高い)だが、あの戦争で死んだのはわずか4人だよ。それもたまたま激戦地の参謀でね、本来なら戦死ということはありえなかった……」

 そのような意味のことを、とくとくと語った。戦地によっては、兵士の死亡率は70~80パーセントに達するのだから、この陸大卒のエリート軍人が口にしたことは、まさしく本音であった。

 私は何も言えずに黙して、この軍人の顔を見つめた。日本軍の高級指揮官は玉砕を行った戦地以外では、ほとんど死ぬことはなかったことに改めて気づいた。このときにはからずも、戦争指導者の本音に出会ったような思いがしたのだ。まさにチャーチルが言っている「残酷な運命」の意味とは、このことだったと気づいたのであった。

 戦後日本で部下の兵士と運命をともにした将官たちは、全体に好意的に受け止められている。他方、特に大本営にあって暖衣飽食しつつ、自らは机上の地図をもとに部隊を恣意的に動かしていた戦時指導者などは、それ自体で失格、ないしは国民の怨嗟を買っている。第四航空軍司令官として特攻隊員に、「君らこそ神国日本の鑑だ。いつか自分も君らの後に続く」と言って送り出していながら、自分はさっさと台湾の基地に逃げ帰った司令官などは、まさに要領のいい恥しらずの軍人であり、今や戦史に興味をもつ誰もが容易に知ることのできるエピソードとして語り伝えられている。

 Tというこの軍人には、ただの1冊も評伝が書かれていない。太平洋戦争の愚昧な戦争指導者として、その名を歴史に刻まれているのだ。

 そういうなかで、今なお人気を持ち続けている軍人は、海軍の連合艦隊司令長官として真珠湾攻撃の指揮を行った山本五十六であろう。私は彼は海軍大学校を卒業したエリート軍人だと思うが、単なる軍官僚ではなく、「人間の心」をもった軍人だったと言っていいだろう。

アメリカ留学経験があった山本五十六

 真珠湾奇襲攻撃には、アメリカは本当に驚いた。なぜならばアメリカは、日本が最初に攻撃をしてくるとすれば、それは太平洋の真ん中にあるハワイではなく、ハワイより近く、アジア最大のアメリカ軍基地があるフィリピンだと予想していたからだ。その予想を裏切って真珠湾に奇襲攻撃をかけたのだから、軍師としての山本五十六がいかに能力のある軍人だったか、よくわかるだろう。

 実は山本は、アメリカに留学経験があり、駐在武官も体験したことがある。日本の軍人には珍しい国際通であった。彼は連合艦隊司令長官の前に海軍次官だったが、この時に陸軍が推す日独伊三国同盟に大反対であった。それに対し、陸軍が彼に圧力をかけ、右翼が山本の命を狙うという騒ぎになった。

 昭和6年以降の異常な状態の日本において、そういう柔軟で冷静なものの見方ができる軍人だからこそ、山本五十六は真珠湾を叩くという、どの国の海軍史上でもありえない作戦を立てることができたともいえる。軍官僚では、とても思いつかない発想だ。

「1年間は暴れてみせましょう。だが、それ以上は」

 実は山本は、この戦争の無謀さをよく理解していた。内心、軍事冒険主義だと思っていた節さえある。

 彼は、首相の近衛文麿に、日米戦争が勃発した時の見通しを尋ねられたとき、こう答えている。

「自分は軍人だから、戦争をやれといったらやります。そして最初の1年間は暴れてみせましょう。だが、それ以上はわかりません」

 日中戦争が始まり、日本は昭和15年には北部仏印進駐、翌年には南部仏印への進駐という、軍事冒険主義をすすめる。それに対し、アメリカは在米日本資産の凍結や石油の日本への輸出全面禁止、そして最後通牒のように日本の権益、領土、同盟の放棄をうたったハル・ノートを突きつけるのだが、確かに山本も日米開戦はもう避けられないと考えた。しかし、日本軍が軍事的に優位に立てるのはせいぜい1年くらい。それも、誰もが予想だにしない奇襲作戦で、アメリカを混乱におとしめるしかチャンスはない。そう山本が思い、真珠湾作戦を発案したのが、昭和15年5月頃だったといわれている。

とにかく早く戦争を終わらせるにはどうするか

 軍人としての山本は、むろん国家がアメリカと戦争を行うことの無謀さを承知していたが、それはこのような冒険によって国民の生命と財産が危機に瀕すること、そして天皇の気持ちに沿わないことなどをよく知っていたからだ。戦争が始まってまもなく、日本は通告なしに真珠湾を叩いたと知り、山本は困惑もしている。しかし山本は、とにかくこの戦争を早く終わらせるべきで、そのためにどのようにすべきかを考えてもいた。

 防衛庁(現・防衛省)防衛研究所の戦史部主任研究員・中尾裕次氏はこのように分析している。

 太平洋正面において、海軍作戦を主とする開戦前計画の作戦目的がおおむね達成されたのは、1942(昭和17)年1月下旬のラバウル占領の時であり、この時こそが太平洋正面の戦争第一期の終末といえる。(『第二次世界大戦(三)終戦』軍事史学会編)

 この見方はあたっているだろう。

 確かに、昭和17年1月にマニラ占領、続いてラバウル占領、2月にシンガポールを占領し、フィリピンのアメリカ軍司令官だったマッカーサーは、3月12日、「アイ・シャル・リターン」という有名な言葉を残してコレヒドール島を脱出。この時までが、日本軍が圧倒的優位に戦争を進めていた時だった。本来は、この時に日本は第二段階としてどのような戦略をもつべきか、あるいは政治的に和平や講和の方法を考えなければならなかったのだ。だが事態はそうはならなかった。前述の中尾が書いてある。

 しかしながら、開戦前に戦争終結をにらんだ長期戦争指導計画がなかったことが、攻勢の終末点を越えて作戦し、作戦の失敗に応ずる柔軟な作戦指導の変更を誤らせることになってしまった。また、初期作戦の成功に酔い、後は占領地域の軍政に重点を指向し、相変わらず北方を重視した陸軍、真珠湾の勝利によって、聯合艦隊主導の作戦指導に終始した海軍、両者のこのような態度が、統合された長期戦略の確立を阻止することになったのである。(同書)

山本五十六の死は「自殺」? 部下を「人間」として扱った指揮官、最後の行動 へ続く

(保阪 正康)

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