神戸山口組が本丸「篠原」を占拠しなかったのは何故か?《分裂直前の宴会では幹部の携帯が次々鳴って…》

文春オンライン / 2020年8月29日 17時0分

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(写真はイメージ) ©️iStock.com

 6代目山口組が分裂してから8月27日で5年となった。その間、6代目山口組と神戸山口組の間で対立抗争が続き、これまで拳銃発砲や繁華街での乱闘、事務所へのトラックでの突入など120件以上の事件が発生し、9人が死亡している。

 この5年間、6代目山口組と神戸山口組、そして警察では、どんな暗闘が繰り広げられてきたのか。本稿ではまず分裂前夜からの動きから抗争の原点を探る。(全3回の1回目/ #2 、 #3 へ)

山口組「創立100年」の裏で

 分裂騒動が起きた2015年は、山口組にとって創立100周年となる節目の年だった。

 年始早々の1月25日、神戸市内の山口組総本部で創立100周年を記念する行事が開かれお祝いムードに包まれていた。6代目組長の司忍をはじめとした山口組の最高幹部らが出席しただけでなく、稲川会(東京)や松葉会(同)、会津小鉄会(京都)、共政会(広島)などの12の友好組織の代表者らが全国から出席していた。

 山口組最高幹部からの挨拶の後、友好組織から祝辞が述べられると大きな拍手に包まれた。この日は司の73歳の誕生日でもあり、祝宴はさらに盛り上がりを見せていた。

 しかし、7カ月後に山口組が分裂するという事態を招くことになろうとは、この宴席の出席者の多くは知る由もなかっただろう。

不満が鬱積した「人事」と「カネ」

 山口組は1915(大正4)年に初代の山口春吉によって神戸市で結成された。当初は神戸の地方組織だったが、3代目組長に田岡一雄が就任すると全国各地に進出。国内最大の暴力団へと組織を巨大化させた。司が6代目を継承したのは、2005年8月だった。

 5代目から6代目へと移行した時期の状況について、山口組系幹部が振り返る。

「5代目の時は良くも悪くもいい加減だった。直参としては、それぞれが山口組の『山菱の代紋』を使ってシノギ(資金獲得活動)が成り立っていればそれでよかった。しかし、6代目になってからは、直参に対してカネがかかることを求め始めた。当時、一部の直参の間ではカネに関する負担が大きいと不満があったことは確かだ」

 6代目体制がスタートすると、山口組ナンバー2である若頭に高山清司が就き、組長の司と共に「弘道会」出身者がツートップを独占する異例の体制となった。さらに直参組長らへの統制を強めた中央集権的な運営を推し進め、経済面では上納金と呼ばれる毎月約100万円とされる会費の徴収のほか、司の誕生日、盆暮れなどにもカネの徴収がなされた。ミネラルウオーターなど生活用品が直参組織に送り付けられて半ば押し売りのような販売もされた。

「人事」と「カネ」の双方の締め付けが厳しくなった結果、次第に直参の間に不満が鬱積。内部では各方面から不穏な噂が飛び交っていたと、前出の山口組系幹部は打ち明ける。

「2015年8月に分裂となる前から『出ていく直参がいるのではないか』という話はあった。『クーデターが起きる』『いやそれは絶対にない』とか、そういった噂の類いだった。だから本当に起こるとは思わなかった。やはり『山菱の代紋』の存在は大きいからだ」

 さらに分裂前夜にあったエピソードについて明かす。

「分裂の騒ぎが起きる直前のある夜に、多くの直参団体の幹部たちが集まる飲み会があった。席には、山健、宅見の幹部もいた。各組の仲が良かった人たちで楽しくやっていた。しかし、宴席の途中で、急にあちらこちらで幹部たちの携帯電話が鳴りだした。何人かの幹部は、一様に携帯電話を手にして、『ちょっと失礼します』『少しだけ外します』と言って会場を出て、何やら話し込んでいた」

 数日後、携帯電話が一斉に鳴り出した理由が明らかになる。

「席を外したのは山健など離脱して神戸(山口組)に参加した直参の下にいた幹部たちだった。この時に離脱することが決まり、宴席に出席していた幹部たちに次々と連絡が入ったのだろう。今となって振り返ると合点が行く。自分は当日まで分からなかった。やはりクーデターのような話は決行する日の前に情報が洩れているようではダメ。出て行った方(神戸山口組)も、あの時点では上手くやったのではないか」

本丸「篠原」を占拠していれば…

 しかし、分裂から5年経った今、神戸山口組は苦境に立たされている。主要団体の離脱が相次ぐなど、設立当時の勢いを失っているのだ。

 なぜ神戸側は主導権を握れなかったのか。山口組の事情に詳しい別の指定暴力団幹部は、神戸山口組側の5年前の分裂直後の不手際を指摘する。

「山口組が分裂した時に、出て行った神戸山口組の連中が『篠原』の本家に大挙して押しかけて占拠して、6代目(山口組)側が使用できないようにしてしまえばよかったのではないか。神戸山口組はあのとき、占拠するどころか出て行ってしまった。なぜ本丸を押さえなかったのか不思議でしょうがない」

 ここで言う「篠原」とは、山口組本部のことを意味する。神戸市灘区篠原本町にあるため、暴力団業界では山口組本部は通称「篠原」と呼ばれている。この幹部がさらに続けた。

「篠原に陣取ってしまえば、(6代目組長の司忍を輩出している)弘道会は、拠点のある名古屋に引っ込まざるを得なかった。『正当性は神戸山口組にあり』と宣言できたはずだが、そうしなかった。逆に、神戸山口組は篠原を放置したことで、周りには『勝手に出て行った』という印象を与えてしまった。立ち上がった時の作戦から上手くいっていない」

 しかし、主要拠点である「篠原」をそう簡単に手に入れることなどできるのだろうか。

「分裂した時期、山口組も世間同様に夏休みだった。定例会などの行事もなく、本部に幹部が不在だった。だからこそ、離脱だの分裂だのというクーデターみたいなことが出来たし、篠原を一気に押さえられる可能性もあったはずだ」(同前)

止まらない抗争、そのとき警察は…

「篠原」を押さえなかったことが神戸山口組側の作戦ミスだったのかどうかは分からないが、その「篠原」は今や6代目山口組側も本部事務所として使用することは事実上、不可能となった。

 というのも、2019年10月に6代目山口組若頭の高山が出所して以降、抗争事件が相次いだことから、公安委員会が双方を特定抗争指定暴力団とし、神戸市を含む6府県10市を警戒区域に設定し、その区域内の事務所への立ち入りが制限されたためだ。

 それでも今年5月には岡山市内の市街地で神戸山口組系池田組幹部の銃撃事件が発生するなど、依然として銃撃事件などは続発している。5年の時間は経過したが、いまだ警察が対立抗争を抑え込むまでには残念ながら至っていない。(敬称略)

【山口組分裂抗争の銃撃史】「“大きな音”がしますよ」…そのとき拳銃は急騰し始めた へ続く

(尾島 正洋/Webオリジナル(特集班))

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