オウムがオペラに!? 「津山三十人殺し」はなぜ人を惹きつけ“伝説化”したのか

文春オンライン / 2020年9月13日 17時0分

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犯人・都井睦雄はなぜ事実と異なる「ストーリー」に押し込められたのか(「津山事件の真実」所収「津山事件報告書」より)

血みどろの写真が展覧会に! なのにどうして? 「津山三十人殺し」が報じられなかった理由とは から続く

< 血みどろの写真が展覧会に! なのにどうして? 「津山三十人殺し」が報じられなかった理由とは >から続く

 当時、日本で唯一の国策通信社だった同盟通信(共同通信・時事通信の前身)は国内地方紙と海外通信社・新聞社にニュースを流していた。それは「公式」といっていい発表報道だ。配信ニュースのダイジェストである「同盟旬報」に事件が載っている。

《28名を射殺》

【5月21日】岡山県下の28名射殺事件に関し、内務省に左のごとく公電があった。(萱場岡山県知事より午前8時、内務省宛て公電)岡山県苫田郡西加茂村大字行重775、農(業)都井睦雄(22)は本日午前2時40分ごろ、発作的に精神異常を来し、自宅にありたる猟銃を持ち出し、隣家の女性(50)を射殺し、これを制止せんとする近隣の者を狙撃し、計28名即死。重軽傷3名を出し、本人は銃携帯のまま、付近山中に逃走。

《犯人山中で自殺》

【5月21日】殺人鬼睦雄は凶行後、一時同村山深く逃げ込んだが、大山狩りにあって、もはや逃れぬところと観念してか、山林中で所持の鉄砲をもって自殺を遂げているのを、正午ごろ、山狩り隊が発見した。なお、凶行原因は失恋による計画的犯行との説もある。

 当時、警察は行政の一部機関(警察部)で内務省の管轄(警察部長は内務官僚)だった。だから知事から内務省宛てというのは正式のルート。それが発生間もないとはいえ、「発作的に精神異常を来し」「制止せんとする近隣の者を狙撃」というのはかなり事実と違っている。のちに、睦雄が凶器を準備し、地域内の電線を切っていたことなどから計画的犯行との見方に変わるが、それはつまり、その時代の大勢が求めた「ストーリー」だったのだろう。

「三十三名殺傷事件の現場を訪れて」で中垣検事は事件の日を振り返ってこう書いている。「この日、あたかも征途にあった皇軍(日本軍のこと)は、尊き犠牲者を出して徐州の快捷を勝ち得、挙国その感激に酔った時だった」。「そんな時に」というため息とも舌打ちともとれる感情が表れている。

 同じ「津山事件報告書」の「津山事件に関する若干の考察」でも守谷芳検事は「私はこの事件の原因は都井睦雄の先天的犯罪性格にありと断じたい」と書いている。それは願望だったのだろう。国家にとって津山事件のような出来事は「非常時」の銃後の国民の在り方からみて、絶対にあってはならなかった。前線の兵士と銃後の国民双方の士気に影響するからだ。

 こうした時代の風潮の中では、例えば戦後、心理学者・中村一夫が「自殺 精神病理学的考察」で提起した「睦雄が自殺を決意し、そこから道連れ的大量殺人事件に移行した」という見方など、出る余地はなかった。

戦争に“排除された”大量殺人事件

「報告書」に収録されている1938年7月14日付の津山警察署長から岡山県警察部長への「三十余人殺傷事件をめぐる事後の状況に関する件」という報告にはこう書かれている。「社会に及ぼしたる聳動の大なりしに比し、同村以外の地方においては、各種会同、湯屋、理髪店などにおける会談ほか、地方よりの入来者よりの質問などにより、当時の状況を想起して語り合う程度にして、おおむね遺忘の度を深めつつあり。けだし、支那事変拡大ないし出征将兵への関心大なる方面への転換へと認めらる」。つまり、住民が都合よく事件を忘れてくれつつあり、関心を戦争と出征兵士の方にうまく転換できているということ。事件の大きさに比べて地元紙以外の新聞報道が極めて小さかったのは、こうした圧力と新聞側の自主規制のためだったのだろう。事件は戦争の時代に排除されたといえるかもしれない。

 ひるがえって、いまこの事件が起きたら、メディアの報道はどうなるか。異常な犯行と周到な計画性の狭間で対応は混乱し、容疑者と被害者は実名か匿名かなど、判断は相当分かれるはず。その間、ネットでの「フェイクニュース」やデマが蔓延する。動機や背景が十分解明されることはないだろう。

 この事件の2年前の1936年、世間を騒がせたのが「阿部定事件」だった。女が愛人が絞殺し、下腹部を切り取って持ち歩き、逮捕された「猟奇事件」。「昭和維新」を叫んで青年将校らが決起し、重臣らを殺傷した日本最大のクーデター「二・二六事件」から3カ月足らず。戦後、阿部定とも対談した作家坂口安吾は雑誌に当時の印象をこう書いている。

「あのころは、ちょうど軍部が戦争熱を駆り立て、クーデターは続出し、世相アンタンたる時であったから、反動的に新聞はデカデカ書き立てる」「それは世相に対するジャーナリストの皮肉でもあり、また読者たちも、アンタンたる世相に一抹の涼気、ハケ口を喜んだ傾向のもので、内心お定さんの罪を憎んだ者など、ほとんどなかっただろう」。軍国主義が広がる社会に一種の解放感、爽快感を与えたといいえるのだろう。

 対して津山三十人殺しにはそうした“救い”は全くない。日中戦争下の農村社会に大きな傷を与え、住民の感情も行き場がないまま、事件と都井睦雄の存在を忘れることしかできなかった。事件は、やがて来る戦争に覆われた暗い時代だけでなく、因習と地縁血縁に絡め取られた農村社会の崩壊まで暗示していたようにも思える。

「津山三十人殺し」をオウムがオペラ化!?

 事件が人々の関心を引き付け続け、「殺人伝説」となった理由を整理して考えてみよう。

1) 犠牲者が極めて多数
2) 被害者の死亡率が高い→凶器の威力が強力
3) 背後にドロドロした男女関係や地域の人間関係がひそんでいる
4) 容疑者が自殺して詳しい動機が不明
5) 山村の閉鎖社会が舞台
6) 報道が限定され、多くの国民には「幻の事件」だった

 まとめて考えてみると、世界的にもまれな犠牲者の多さと、睦雄と地元の女性たちの真偽入り混じった性的関係が猟奇的な関心を集めたのは確かだが、それも含めて、残虐なのにもかかわらず、事件からは、どこか現実離れした夢幻的な感じを受ける。本当に起きたことなのかどうか、曖昧模糊(あいまいもこ)として分からない。そんな印象が付きまとう。猟銃を改造し、猛獣用の銃弾を使ったことで殺傷能力が数段アップしたことも影響したかもしれない。被害者のほとんどは即死で、苦しむ姿を見せていない。睦雄自身「人間はこんなに簡単に死ぬものなのか」という驚きがあったのではないか。新聞報道が限定的だったことも「伝説化」に輪をかけたのは間違いない。

 鈴木淳史「歌劇『津山三十人殺し』上演史」(「クラシック・スナイパー4」所収)は、(1)ある作曲家が事件をオペラ化。戦後から最近まで何回か上演された(2)中には、オウム真理教(文中では「オウメ真理教」としている)が設立したオーケストラも含まれている(3)教団の教義である「ポア」(殺人ではなく魂の昇華だという考え方)が込められていた―とする内容。

 私は1995年初頭から地下鉄サリン事件を挟んで麻原彰晃(本名・松本智津夫)元死刑囚逮捕まで、共同通信社のオウム担当デスクだった。オウム真理教が音楽に強い関心を抱いていたことは記憶にあるが、三十人殺し事件のオペラを手掛けていたとは全く知らず、驚いた。著者に確かめると、内容は「完全な創作」だと言う。「この事件には昔から興味があって、これがオペラ化されたらどんな音楽になるのだろう、それはどのように上演されたのだろう、さらにいかなる評価がされるのか、などといった妄想が結実したものといったらいいか」。これもまた事件が夢幻的であることの証明かもしれない。

 思えば、「八つ墓村」の映画化作品の大量殺人シーンにはおどろおどろしい音楽が添えられ、事件を基にした西村望のノンフィクション小説「丑三つの村」(1981年刊)を原作とする同名映画(田中登監督、1983年)の同じシーンは音楽なしだった。だが、考えてみる。例えば、あのシーンに、静かなクラシック音楽を流してみれば、それは現実離れした夢幻的な出来事として、印象はさらに強まったのではないだろうか。そうした妄想も事件が伝説から伝承に近づいている表れかもしれない。

【参考文献】
▽横溝正史「八つ墓村」 角川文庫 1971年
▽「横溝正史自選集3」 出版芸術社 2007年
▽山口直孝「『八つ墓村』の着想から完成まで」=「横溝正史研究6」(戎光祥出版2017年)所収
▽司法省刑事局「津山事件報告書」 1939年=事件研究所「津山事件の真実第三版」所収
▽「岡山県史第12巻近代3」 岡山県 1989年
▽「日本歴史地名大系34 岡山県の地名」 平凡社 1988年
▽「改政一乱記」=「日本庶民生活史料集成」第13巻(三一書房1970年)所収
▽加太こうじ「昭和犯罪史」 現代史出版会 1974年
▽中村一夫「自殺 精神病理学的絞殺」 紀伊国屋新書 1963年
▽鈴木淳史「歌劇『津山三十人殺し』上演史」=「クラシック・スナイパー4」(青弓社2009年)所収
▽「決定版昭和史8」 毎日新聞社 1984年

編集部注:文中に一部誤りがあり加筆修正しました(9/14)

(小池 新)

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