熊谷6人殺人事件で無期懲役判決 遺族の慟哭「被害者に寄り添ってほしい」

文春オンライン / 2020年9月12日 20時0分

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逮捕直後のナカダ・ルデナ・バイロン・ジョナタン ©共同通信社

 最高裁は9月9日付けで、熊谷連続殺人事件の上告を棄却しました。そのため、東京高裁が下した「無期懲役」判決が確定しました。つまり、被告人の死刑はなくなり、無差別に6名殺しても死刑にならない、という先例が残ったことになります。

 この事件は、さいたま地裁で行われた裁判員裁判で死刑判決が下されたのですが、東京高裁は死刑判決を破棄し、心神耗弱を理由として無期懲役としていました。その後、検察は上告を断念し、無罪を主張する弁護側のみが上告しました。それを今回、最高裁が棄却したのです。

 上告棄却の連絡を受けた日、遺族の一人、加藤さんと何度か電話で話しました。加藤さんは、「殺人事件って特別だと思う。司法はもっと被害者に寄り添ってほしい」「司法は、頭のいい人たちだけでやってるのかもしれないし、ちゃんと司法制度を勉強して、という気持ちもあるのかもしれない。でも、そういうことではなくて、もっと人としての感情を理解してほしい」と述べ、司法に対する不信感を露にしました。そして、「控訴審が無期懲役としたのは誤審だと思う」「最高裁に上告しなかった検察への怒りは強い」と無念の気持ちを訴えました。

 加藤さんの問いかけを発信するため、『 死刑賛成弁護士 』(犯罪被害者支援弁護士フォーラム、文春新書)から一部を抜粋して紹介します。

◆ ◆ ◆

警察取り逃がし後の凶行

 2015年9月、人口約20万人の地方都市である埼玉県熊谷市は、騒然とした空気に包まれました。わずか3日間で、3家族6人が自宅で何者かに殺されるという凶悪事件が発生したからです。

 この事件の犯人は、ぺルーから仕事で日本に来ていたナカダ・ルデナ・バイロン・ジョナタン(以下「バイロン」と言います)という当時30歳の男です。バイロンは2015年9月13日に民家の敷地内に侵入し、熊谷警察署に任意同行されます。ところが、聴取の途中、タバコを吸うために警察署の玄関先に出たところで、財布や携帯、パスポートなどのすべての所持品を警察署に置いたまま、猛ダッシュで逃走し、警察官の追跡を振り切り、行方不明になりました。そのころバイロンは別の民家に侵入して家人に金を要求したり、通行人に金の無心をしたりしていましたが、警察犬もバイロンにたどり着けませんでした。

 その翌日である9月14日、バイロンは、熊谷市在住の50代夫婦宅に侵入して夫婦を殺害し、2日後の16日には熊谷市内で一人暮らしをしていた80代女性宅に侵入して女性を殺害。その後、すぐ近所に住む加藤さん(名前は非公表)の自宅に侵入し、妻の美和子さん(当時41歳)、長女美咲さん(当時10歳、小5)、二女の春花さん(当時7歳、小2)の3名を殺害しました。後の捜査によって、バイロンが殺害した被害者宅から金品を盗んだり、美咲さんに何らかの性的行為をしていたことも明らかになりました。

 バイロンは加藤さん宅で3人を殺害した後、その場にとどまっているところを警察に発見されますが、2階から飛び降りて頭部を強打・骨折して病院に運ばれました。その時は意識不明でしたが、9月24日に意識を回復し、10月8日に退院して逮捕されました。

「被害者参加」を決断

 事件から約8カ月後、バイロンは、住居侵入、強盗殺人、死体遺棄罪で起訴されました。しかし、裁判が始まるまでにそこから約1年8カ月もの時間を要してしまいます。バイロンに事件当時、責任能力があったかということと、事件後、裁判を受ける意味を理解できるか、という訴訟能力を巡って精神鑑定が何度も行われたからです。

 検事から、「裁判自体、開けないかもしれない」、「裁判をしても責任能力がないということで無罪になるかもしれない」と説明を受け、加藤さんはその理不尽さに苦しみます。バイロンに何かの異常がなければ、何の落ち度もない人を6人も殺せるはずはないからです。

 加藤さんは、家族3人を一度に失った悲しみ、怒りに押しつぶされそうな気持ちを必死につなぎながら、裁判が始まるのを待つしかありませんでした。家族で住んでいた家が殺人現場となってしまい、そこに一人で暮らすのは耐えられないので実家に戻り、仕事もずっと休んでいました。

 加藤さんは、裁判に「被害者参加」することを決めました。被害者参加とは、事件の被害者や遺族が、刑事裁判に参加して審理に関わり、被告人に質問したり、検察官とは別に求刑したりできる制度です。その際、弁護士に援助を求め、一緒に活動することができます。その役割を担う弁護士を「被害者参加弁護士」といい、被害者参加する被害者やご遺族に制度の説明をしたり、被告人質問や求刑意見を一緒に考えたり、被害者参加人に代わって意見を述べたりします。髙橋正人弁護士と私は、加藤さんから委託を受け、被害者参加弁護士として活動することになりました。加藤さんは、被害者参加をする理由について、「なぜ自分の家族が殺されなければならなかったのか、バイロンに直接聞きたいから」と話してくれました。

 2018年1月、ようやく裁判員裁判が始まり、予定通り、加藤さん、髙橋弁護士、私も一緒に参加しました。バイロンは、法廷で不規則発言を繰り返し、なんらかの精神疾患があることは見て取れましたが、供述内容から事件のことはしっかり認識しているようでした。

 加藤さんは、被害者参加制度を利用し、全ての期日に出席して審理を見守り、自ら被告人質問をしたうえで、「心情に関する意見陳述」を行いました。裁判官と裁判員に、加藤さんの妻と娘たちがどれほど素晴らしい人だったか、かけがえのない人だったか、3人を失ったことがどんなに辛いか、加害者を憎んでいるかを知ってほしかったからです。少し長くなりますが、加藤さんの当時の心情がよくわかるので、意見陳述をそのまま載せます。

× × × × ×

「心情に関する意見陳述」

1 はじめに

 私は被告人から妻と2人の娘を殺された被害者遺族です。ある日突然、4人家族が私1人になってしまいました。なぜ、私の家族がこんな目に遭わなければならなかったのでしょうか。なぜ私は今、1人なのでしょうか。私の妻と2人の娘がどんな人だったか、私にとってどれほど大切な存在だったか、皆さんにぜひ知っていただきたいと思います。そして、あの事件で180度変わってしまった私の生活、被告人に対する怒り、この裁判で思ったことなどを率直に述べます。

2 妻と出会って結婚するまで

 妻は、私の友人が勤めている会社で、友人の部下でした。その関係で私が23歳、妻が22歳の時、飲み会で初めて会いました。その後も何度か飲み会で顔を合わせることがあり、妻がとても思いやりのある女性であることが分かってきました。例えば、大勢でアウトドアに出かける時も、あらかじめ皆の役に立つような準備をしてくれており、私だけではなく、他の人に対しても平等に、その場にいる人全員が気持ちよく過ごせるように配慮できる人でした。

 そんな妻の人柄に惹かれ、出会ってから3カ月ほどで、私の方から正式に交際を申し込み、妻も快諾してくれました。2人とも社会人でしたが、週に1、2回は電話やメールをし、よほど用がない限り、週末は必ずデートしました。地元の観光地に出かけたり、一緒に釣りに行ったりすることが多かったです。妻は景色のいい場所が好きで、時々ドライブもしましたし、都内に出て買い物を楽しんだりもしました。私の誕生日には、手編みのセーターをもらったこともありました。私からは、主にアクセサリーをプレゼントしていました。クリスマスにはちょっとおしゃれなお店に食事に行ったり、初詣に出かけたりして、ごく普通のカップルとして仲良く過ごしていました。

 妻と交際を初めて7年くらいたった頃、自分が30歳になったこともあり、友人たちが次々と結婚するようになって、私も結婚を意識するようになりました。そして、平成16年1月ころ、具体的な言葉は忘れましたが、妻にプロポーズしたら、妻はとても嬉しそうな笑顔を見せてくれました。そして、その年の3月25日、妻の誕生日に婚姻届を提出しました。私は妻のことを8年も待たせてしまいました。結婚後、妻は時々冗談めかして、「なにしろ私は8年も待ったんだからね」と私に言いました。妻は本当に器の大きい女性でしたが、私を8年待っていてくれたことが、それを一番よく表しているエピソードだと思います。

 新婚旅行は沖縄に行きました。首里城や美ら海水族館などの観光名所のほか、沖縄本島から近い水納島という島の本当に美しいエメラルドグリーンの海で、2人で泳いだことが鮮明に思い出されます。生きていて楽しいという実感を抱くことができた大事な大事な思い出です。

3 妻の人となりについて

 妻は、とても器の大きな人でした。子供が生まれて夜泣きしても、「赤ちゃんはそういうものよ」と言ってイライラすることはありませんでした。私は妻の包容力に感心しました。

 どんな時も相手の立場にたち、「こういうことをしたら喜ぶかな」ということを常に考えていました。人に対する思いやりの気持ちが強く、人や物に対する感謝の気持ちを常に抱いている人でした。誰に対してもいつも「ありがとう」と言っていましたし、自分が愛用するものは長く大事に使っていました。10年ほど前、私が仕事上の人間関係で辛い時期があって悩んでいたのですが、妻は「何があってもついていくよ」と励ましてくれて、それが転機となって転職することができました。私のわがままも飲み込んでくれて、夫婦喧嘩はほとんどありませんでした。どちらかというと、私が妻に甘え、妻が私を受け止め、包み込んでくれていたと思います。私は妻を、一人の人間としてとても尊敬していました。

 手芸などの細かい作業が得意で、子供が学校で使う上履き袋なども子供たちが好きな布地を使って手作りしましたし、子供のために手袋を編んだり、私の誕生日に手編みのセーターをプレゼントしてくれました。料理も常にカロリーや栄養のバランスを考えて作ってくれました。子供たちが大好きなメニューは手作りハンバーグでした。メニューのマンネリ化を防ごうと工夫し、例えば鶏の唐揚げに、ネギを甘辛に炒めたものをトッピングしたりして、食卓はいつも華やかで温かみにあふれていました。

 娘たちのことは、「健康で優しい人に育ってほしい」と言っていました。そして、娘たちが結婚する時に持たせるのだと言って、生まれた時から1年ごとのアルバムをコツコツと作っていました。私と妻は、「娘たちのウエディングドレスを見るのが楽しみだね」等と話していました。

 また、妻は、エンディングノートを書いていました。若くして病気で亡くなる人もいるので、後に残された人が困らないように、と言っていました。人に対する気遣いができる妻らしい考え方だと思います。私は、妻がエンディングノートを書いていること自体は知っていましたが、何を書いているのかは知りませんでした。妻が亡くなってから読んでみました。そこには、「結婚してくれてありがとう」「子供を授けてくれてありがとう」等と書かれ、二人の娘につけた名前の由来も記されていました。私を愛してくれていたことがよく伝わる内容でした。「こんな言葉を残してくれてありがとう」という感謝の気持ちでいっぱいです。

4 娘たちのことについて

 長女の美咲は、結婚して2年くらいして生まれました。美咲は、妻に似て人に対する思いやりがあり、常に人を気遣う娘で、怒ったところを見たことがありませんでした。私も妻も、「お姉ちゃんだから我慢しなさい」と言ったことはないのですが、妹の春花と喧嘩になっても、いつも自分が我慢していました。おもちゃも妹優先で、後から妹にやり返したりするようなことはありませんでした。本当は色々と言いたいことがあったのかもしれませんが、人に弱さを見せない芯の強さがありました。

 大きくなったら、アイドルになりたいとか、ケーキ屋さんになりたいなど、女の子らしい夢を抱いていました。少女向けの学園ものアニメ「アイカツ」が大好きでした。運動が得意で、運動会ではかけっこもだいたい一番でしたし、一生懸命縄跳びの練習をして、クラスで1、2番を取るようになりました。亡くなる前は、バドミントンを始めていて、熊谷市が主催するバドミントン教室に通っていました。月2、3回の教室で、数カ月間でしたが、教室がある日をとても楽しみにしていました。しかし、最後の1回が事件のせいで行けなくなったことは、美咲の心残りだったと思います。

 また、芸術系の大学で絵画を専攻していた妻に似たのか、絵も上手で、学校から出品するコンクールで何度か賞を取ったことがあります。美咲が歯磨きをしている絵だったり、夏休みに家族で出かけた祭りの絵だったと記憶しています。自宅では、妹の春花も一緒に、花や動物、母親である美和子の絵をよく描いていました。

 美咲は、あちこち目移りせずに、一つのことをコツコツやるタイプでした。そのコツコツはいつか、名前の通り、美しい花を咲かせただろうと思います。美咲は小学校5年生で亡くなってしまいましたが、私は、どうしても小学校を卒業させてあげたくて、小学校の卒業式に出席し、卒業証書を授与してもらいました。生きていたら今、中学1年生です。

 今、私の中でとても大事な思い出になってしまったのですが、美咲は3年前、私の誕生日に手紙をくれて、「パパと結婚したい」と書いてありました。そのことを今でも思い出し、胸がしめつけられる思いです。

 二女の春花は、美咲が生まれた3年後に生まれました。3月31日生まれなので、同級生の中では1年遅れのようなものですが、おとなしめの加藤家にあって、びっくりするようなやんちゃで元気な娘でした。初対面でも誰とでもすぐに仲良くなることができ、とても社交的でした。笑顔の絶えない娘で、人を笑わせることが上手で、いつもおちゃらけていました。その一方で、負けず嫌いで頑固で、私に対してムキになることも度々ありました。冗談で叩き合っても、最後に自分が叩くまで気が済まない娘でした。ゲームも自分が勝つまで終わりにしなかったです。

 末っ子らしく甘えん坊で要領がよく、学校ではしっかり者で通っていたようですが、帰宅するといつも姉の美咲にくっついて遊んでいました。妻に似たのか世話好きなところがあって、そういうところに春花の思いやりを感じました。家の中では女の子らしく、妻と一緒に折り紙をしたり絵を描いたり、ビーズ遊びをしたりしていました。手先が器用なところも妻譲りだったと思います。将来の夢は、パン職人でした。

 最後に家族で出かけたのは、事件の2、3週間前でした。秩父へ行き、鍾乳洞や博物館に行きました。まさか、それが最後のお出かけになるとは思ってもみませんでした。

 2人の娘の名前は、妻がつけました。「美しく咲く春の花」ということで、長女が生まれる前から、もし女の子が2人生まれたら、美咲と春花にしたいと言っていました。寒い冬を乗り越えて力強く芽を出し、やがて美しく咲く花になる、辛く苦しい時も2人で助け合い、手を取り合えば春の花のように美しい人生になるという願いを込めて。美咲と春花はその願いにこたえ、本当に仲よく助け合って毎日を過ごしていました。その純真な2人の娘を、この被告人は自分の欲望のためだけに殺しました。しかし、美咲と春花の美しい魂は私の心の中に、この世の中に生き続けています。私は絶対に被告人を許すことはありません。

5 事件直後のこと

 事件の日のことは、今でも忘れられません。平成27年9月16日午後6時半頃、私が仕事から帰ると、家から100メートルくらい離れたところに警察の黄色い規制線が張られていました。何が起きているのかよく分からず、集まっていたマスコミの人に尋ねると、「おばあちゃんが亡くなった」とのことでした。私が、「家に帰りたい」と言うと、警察の人が自宅の近くまで連れて行ってくれましたが、私の家が事件現場だと気づいたのか、警察官から「安否確認のため、熊谷警察署に行ってください」と告げられました。私は、何が起きているのか全く分からず、「安否確認って何?」と思いながら、とりあえず熊谷警察署に行きました。すると2階に連れていかれ、いきなり「3人とも心肺停止」と告げられました。

 その時の私の心境は、なんと説明していいのか分かりません。「3人とも心肺停止」というあまりにも衝撃的な出来事を真正面から受け止めることができず、「亡くなったのかな?」とか「まだ生きている可能性もあるのかな?」とか「今日から俺一人なのかな」とか、色んなことがどこか他人事のように頭の中を駆け巡りました。そうするうちに、私や妻の家族が集まってきて、ニュースでこの事件が報道されていると聞いて、それで初めて私の家族が事件の被害に巻き込まれたのかなと思いました。

 警察は、次々と私の日々の生活状況について質問してきました。私は気持ちが動転していたので、その時は問われるままに答えましたが、貯金の額まで聞かれて、今にしてみれば、なんでそんなくだらないことを聞くのだろう、という感じでした。

 警察からは何度か「ご遺体の写真を見る心の準備が出来ましたか?」というようなことを聞かれました。私が写真を見たのは、日付が変わった深夜のことでした。3人の顔写真を見せられました。血の気がなくて青白い顔で、目をつむっていました。本当に亡くなったのかな、と思いましたが、まだ現実を受け入れられませんでした。

 その後、司法解剖があって、ようやくご遺体と会えたのは、1週間くらいたってからのことでした。亡くなっていると分かっていましたが、その間、私は3人に会いたくてたまりませんでした。

 深谷警察署で、3人が並んでいるところに案内されました。司法解剖されたばかりで、化粧などもされていませんでした。3人を見て、本当に動かない、会話が二度とできないのか、ということを痛感しました。3人とも洋服を着ていなかったので、私は妻の妹と一緒に3人の洋服を買いに行きました。いつも着ていたような、それぞれの好みに合っていそうなものを選びました。辛い買い物でした。

 その後、2日くらいたって、お通夜と告別式を行いました。葬儀屋さんが、妻の遺体を棺に入れました。春花は、妻の兄が棺に入れました。葬儀屋さんから「美咲ちゃんはお父さんがどうぞ」と言われ、私が抱きかかえて棺に入れました。その時、美咲の重さを全身で受け止めながら、父親として抱っこしてあげられるのはこれが最後だと思うと、抱っこしたまま棺におろしたくない、このまま時間が止まってくれたら、という気持ちでいっぱいでした。

 喪主は、一人残された私でした。私の仕事関係や近所の人たち、妻の友達、娘たちの小学校の子供たちもたくさん来てくれて、とても悲しんでいる様子でした。泣いている子供たちがたくさんいて、折り紙などを棺に入れてくれました。

 私は、喪主としてこの葬儀をつつがなく終わらせなければならないと思い、そのことで精いっぱいで、具体的なことはあまり記憶がありません。

 私の母は、嫁と孫を失ったショックだと思いますが、事件直後に倒れて入院し、葬儀にも参列できませんでした。今でも後遺症があります。私の両親にとっても、妻の両親にとっても、美咲と春花はたった2人の孫でした。今はもう孫はいなくなってしまいました。そして、妻の友達や娘たちの友達、学校関係者など、妻と娘を知る多くの人がみんな、悲しみに暮れました。今でもこの事件は、私たちのことを知る多くの人の心の傷になっているのです。

6 事件で変わってしまった私の生活

 事件後は、実家で過ごし、自宅に戻るのに1年かかりました。事件の現場が自宅でしたので、事件直後は、捜査の関係で、しばらく自宅に入ることもできませんでした。警察から自宅に入っていいと言われた後も、現実逃避というか、そこに立ち寄ると色々なことを思い出して怖い、という気持ちがあり、なかなか家に戻れませんでした。家が家族の思い出そのものであり、そこに行くと自分が耐えられないように思いました。

 事件前は、朝6時半頃起きて仕事に行き、夜帰るという生活だったのが、夜は眠れないので、朝も9時頃になってようやく起きられるという感じになりました。食事は妻に全面的に頼っていましたので、妻がいなくなってからは、朝食はお米だけ炊いて納豆で食べたり、レトルト食品で済ませるようになりました。昼食と夕食はほとんど外食になってしまいました。事件前は、タバコは1日10本程度でしたが、今は1箱半くらい吸ってしまいます。

 事件から1年くらいは、毎日、死んで楽になりたいと思っていました。一度に妻子3人を亡くした気持ち、分かっていただけるでしょうか。

 一番辛い時間帯は、夕方以降です。昼間は出かけたり何かの用事をしていますが、夜になって誰とも会話をしないので、ひどい孤独感にさいなまれます。辛くなってしまうので、家族のことは思い出さないようにしていますが、精神的に余裕がある日は、たまに写真を見たりもします。家族のことは本当は思い出したいです。いつもいつも考えていたいのです。でも、辛いから思い出さないようにしているという相反する気持ちの中で、私はもがき苦しんでいます。

 事件の後から、仕事には行けていません。月に1回だけ出社して、会社の産業医と話をして、手続き関係のことを済ませるだけです。また、週1回、支援センターでカウンセリングを受けており、それは事件後からずっと、今も続いています。

7 いなくなってしまった妻子への思い

 3人のうち、最初に妻が殺されたようです。妻は、きっと被告人と戦ったと思います。日頃から、痴漢にも立ち向かうタイプで、「男の人にも負けない」と言っていましたし、その場に娘たちがいたのであれば、必死で娘たちを守ろうとしたと思います。私は、妻が戦う姿を思い浮かべて辛くなります。その場に自分がいたら絶対に助けてあげられたのに、ということは常に思います。

 また、幼い娘たちはどんなに辛かっただろうか、怖かっただろうかと思います。もしかして、2人一緒にいて、どちらかが殺されるのを見ていたかもしれません。その時、娘たちはきっと「パパ助けて」と叫んだと思います。恐怖で声にできなかったとしても、心の中で叫んだことでしょう。私がそこにいたら助けられたのに、という思いは今でも消えません。なぜ、私はそこにいなかったのでしょうか。美咲、春花、パパが助けてあげられなくてごめん。

 娘たちが通っていた小学校は、私の母校でもありました。今でも校長先生が月命日に墓参りしてくれます。校長先生は、命日や運動会など、折に触れてこの事件のことを児童に話してくれているそうです。

 支援センターの人たちの力を借りて、何度か亡くなった3人の遺品を整理しました。洋服やランドセルなどを見ると本当に辛いです。自分がおかしくなってしまうのが怖いので、あえてあまり入り込まないようにしている部分があります。

 今、3人が生きていたら、ということをしょっちゅう考えます。今にして思えば、もっと家族に色々なことをしてあげられたのに、という後悔の気持ちしかありません。特に子供たちの将来は本当に楽しみにしていました。私が悪いわけではないのでしょうが、どうしてもそう考えてしまいます。

8 裁判が始まるまでの気持ち

 事件から裁判が始まるまで、約2年半かかりました。私の頭の中にはずっと、なぜうちの3人だったのか、そしてなぜ殺されなければならなかったのか、という疑問が消えませんでした。それを被告人本人に直接聞きたいとずっと思い続けていました。

 こんなに長い間、待たされたことについては怒りの気持ちしかありません。被告人は、精神障害があるのかどうかわかりませんが、私の自宅2階から転落した後、無料で手厚い治療を受け、精神鑑定を何度も受け、警察、検察、裁判所などの国家機関の人たちがたくさん彼の権利のために働いています。被告人が結婚したペルー人の女性は、被告人とは恋愛関係になく、被告人にお金を払って来日したそうですが、何やら胡散臭い話です。仕事は続かず、昼間は寝ていて夜に起きてゲームをするような生活を続け、あげくの果てには6名も殺しました。そのような外国人でありながら、日本の税金をたくさん遣ってみんなで大事に保護していると感じます。一方私は、真面目に生活してきた日本人です。この国が私に何かしてくれたでしょうか。誰のための裁判なのか、疑問です。守られるべきは被害者ではないでしょうか。私の意向は何も聞かれることなく、被告人の都合だけで2年半も待たされました。

9 裁判が始まって

 裁判が始まって、初めて直接被告人を見ました。被告人を見た時、今にでも飛びかかって殺してやりたい気持ちにかられました。被告人の態度は、反省どころか、最低限の礼儀を尽くすとかそういうレベルにもないことに、怒りの気持ちでいっぱいです。自分ではなぜ裁判にかけられているか分かっているはずですが、自分のしたことが悪かったという態度は微塵もありません。

 たくさんの証人が出てきて、事件のことが明らかになりました。聞けば聞くほど、被告人は普通に生活していて、どこもおかしくないことが分かりました。実際、事件が起きた直後、警察から聞いた話ですが、警察が私の娘たちの話を被告人に尋ねたら頭を抱えていた、ということでした。彼はちゃんと自分のやったことを認識していたはずです。精神鑑定などにこんなに時間をかけずに、事件後すぐに裁判をしていたら、もっと真実に近づけたと思います。長期間、身柄拘束すれば誰でも頭はおかしくなるのではないでしょうか。それに、事件から2年半もたてば、普通の人でも記憶は曖昧になるでしょう。確かに被告人は今、精神状態は悪くなっているように思います。なぜこんな風になるまで長引かせたのか、私は納得がいきません。

 弁護人、検察官、裁判体(裁判官と裁判員の合議体)が被告人質問をして、その中で被告人は「6人殺しました」と言いました。私は、こいつは事件を知っている、と思いました。間で変なことも言っていますが、私は「分かっているな」と直感しました。

 私も被告人質問をしました。私は、なぜうちの3人だったのか、そしてなぜ殺されなければならなかったのか、ということをどうしても被告人に直接聞きたかったからです。ただ、2年半待ち続けて、たったの30分しか質問できないことは、無念でした。被害者自らの質問で、30分という長さは異例だそうですが、私にとっては短すぎました。そして、被告人は、私の質問を全てはぐらかしました。「やってない」というならまだしも、質問に正面から答えなかったことに強い怒りを覚えました。被告人には、この後、最後に自分の意見を述べる機会が残されています。私のこの意見陳述を聞いて、真意を話す機会があるということです。最後に必ず、私の質問に答えてほしいと思います。

 被告人質問の後、悔しくて腹が立ってどうしようもなかったです。被告人が質問に答えず、はぐらかしてばかりだったからです。被告人は至近距離にいましたから、飛びかかって殺してやりたいとずっと思っていました。その日の夜は、怒りと興奮でさらに眠れないだろうと思っていましたが、自分で思っている以上に全身が疲労していたようで、いつもより早く眠りました。いえ、眠ったというより、倒れてそのまま起き上がれないような疲労感でした。

10 この事件について思うこと

 この事件で悪いのは被告人であることは、よくわかっています。ですが、事件の日、妻が外出していたら、とか、娘たちが友達の家に遅い時間までいたら、とか、私が会社を早退していたら、など、「こうしていたら事件にはならなかった」ということを色々と想像してしまいます。しかし、裁判を通じて感じたのは、被告人が最初に警察に行きたいと言っていて、実際に警察に行ったのだから、あそこで取り逃がしていなかったら、6人の命は奪われなかっただろうということで、その気持ちが一番強いです。そして、取り逃がした後も、不審な外国人についての通報が続いたのに、なぜ地域住民に広報を徹底しなかったのか。その点についての疑問が私の中から消えることはありません。

11 終わりに

 妻の人生、娘の人生はなんだったのでしょうか。被告人のような人間に殺されるような何かをしたのでしょうか。正直なところ、私は悲しみや怒りの気持ちを自分自身で抱えきれずに苦しんでいます。この裁判の結果は、私の今後の人生にとても強く影響します。被告人の刑を決める皆さん、自分の家族が全員殺され、ある日一人になったら、どう思いますか。犯人が精神障害だったから、それは災難でしたね、ということで諦めるのでしょうか。そういう視点で、自分のこととして考えていただきたいです。

以上

× × × × ×

たった3回の審理で死刑判決を破棄

 第1審は、死刑判決が下されました。丁寧に事実認定を行ったうえで「家人殺害の実行を含めて病気の影響はほとんどみられず、合目的的で全体としてまとまりのある行動をとっている」として、完全な責任能力を認めたのです。加藤さんは判決後、少しホッとした表情を見せ、「これで妻と娘たちにやっと報告できる」と語りました。

 被告人側は控訴しました。死刑判決の場合、弁護人は本人の意思に関わらず必ず控訴するので、それは予想されたことでした。しかし、第1審判決は、慎重かつ緻密な事実認定を行ったうえで、責任能力を認めていたので、控訴審でも翻ることはないだろうと考えていました。

 東京高等裁判所で行われた控訴審は、バイロンに訴訟能力があるかが争点でした。事件後、長い期間身柄拘束が続いていることによる拘禁反応もあり、バイロンの精神状態は徐々に悪化している可能性があったからです。そのため、訴訟能力に関することしかバイロンに質問できず、審理はたったの3回、合計数時間で終わりました。バイロンは、第1審では車椅子だったのが、控訴審では自分で歩いており、以前よりむしろ元気になっているように見えました。

 しかし、控訴審判決は原審を破棄し、「無期懲役」という予想外のものでした。バイロンは心神耗弱であり、責任能力は完全ではなかったというのです。しかし、控訴審判決が「心神耗弱」と判断した理由は、バイロンには「ヤクザに追われている」という妄想があり、殺害した3件の被害者宅への侵入は「妄想上の追跡者から逃れる目的」などとし、加藤さんの長女に対する性的行為は、追跡者から危害を加えられるという被害妄想とは全く結びつかないのに、その点については全く触れないなど、どれも納得できるものではありませんでした。第1審が認定した事実関係自体はそのままに、控訴審が法的評価を変更しただけのものでした。

 加藤さんも、被害者参加弁護士も、東京高検の検察官も唖然としました。バイロンの弁護人ですら、そんな判決は予想していなかったかもしれません。加藤さんは、「裁判官が単に死刑にしたくなかっただけと感じた」と憤りを隠せない様子でした。

 東京高検が、刑事訴訟法上の上告理由がないという理由で上告を断念したため、バイロンは死刑を免れることになりました。何の関係もない善良な市民、しかもお年寄りや女性、子どもばかり6人も殺しておいて「無期懲役」という悪しき前例を、たった3人の裁判官が数時間の審理だけで作ってしまったのです。

確定したらやり直す手段はない

 バイロンは東京拘置所で、職員に対し「なんとか無期懲役にならないのか」と尋ねていたそうです。望み通り無期懲役となり、東京拘置所で今ごろ高笑いしているでしょうか。日本国民の税金で衣食住を保障され、病気になれば税金で医師から診察をしてもらい、税金で弁護士もつけてもらえます。加藤さんが納めた税金でバイロンを養っているも同然です。

 しかし、バイロン自身には全く賠償能力がないので、遺族に金銭賠償をすることはありません。加藤さんは、衣食住に係るお金は自分で払い、弁護士費用も自分で負担します。この裁判のために必要だった刑事事件の記録のコピー代数十万円すら、自分で負担しなければなりませんでした。

 加藤さんが、その理不尽に耐えたのも、亡くなった美和子さん、美咲さん、春花さんのために、絶対にバイロンを死刑にしたいという一心からです。バイロンが死刑になれば、最低限、亡くなった3人に顔向けできると考えたからです。

 加藤さんは控訴審を「誤審である」と主張しています。しかし現行法では、これをやり直す手段はありません。この件は、上告を諦めた検察にも問題があります。刑事訴訟法上の上告理由がない場合でも、重大な事実誤認がある場合、最高裁判所は控訴審判決を破棄することができるのです。控訴審判決が最高裁によって破棄される可能性も十分にあったのに、それすらしませんでした。仮に最高裁が破棄しなかったとしても、加害者を許さない、ご遺族の無念を代弁するという検察庁のあるべき態度すら示さなかったことは、組織の限界を感じさせるものでした。命を大事に、残された遺族を大事にするため、控訴審でも裁判員裁判にすること、遺族にも上告する権利を与えることなど、様々な法律や制度を変える必要があります。

(上谷 さくら)

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