東長崎、東久留米、東村山…西武線に「東〇〇駅」が多すぎるぞ問題 “ナゾ”の答えは?

文春オンライン / 2020年10月19日 6時0分

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今回の路線図。ちなみに、今回向かった西武線4つの東〇〇駅はすべて池袋の“西”にある

 右と左や東西南北といった方向、向きを示す言葉は基準がなければ成り立たない。どこか基準があってはじめてそこからの方向として北だとか南だとか、そういう話ができるのだ。基準を示さずに「今は西にいるよ」と言われても、それがどこか皆目見当もつかない。

 これは地名、例えば駅の名前でも同じことである。よく例に挙げられる浦和駅シリーズ。東西南北すべて揃っていてさらに武蔵浦和や中浦和、浦和美園と“浦和”の付く駅は数多い。で、これがきちんと機能しているのは、中心の「浦和駅」があるからだ。

 と、のっけから実に当たり前の話をしてしまった。これにはワケがあって、首都圏の路線図を眺めていたら本来ならば拠って立つ基準があるべきなのに、それを持たない方角付きの駅があるからだ。すべてを調査したわけではないのでなんとも言えないが、少なくとも西武鉄道には4つもある。それもすべて東〇〇駅という。

 西武なのに東、というのは不思議な池袋を歌ったビックカメラの歌のようだが、池袋の不思議よりも拠り所なき東〇〇駅のほうがよほどナゾ。いったい、どうしてこうした駅が生まれたのか。そしてそれらの駅はどんな駅なのか。実際に訪れつつ、調べてみることにした。

“東”長崎駅には何がある?

 東長崎駅は池袋線で池袋駅から2つ目の駅だ。池袋線は地下鉄副都心線・有楽町線からの直通列車がすっかり主役顔になっているが、東長崎駅があるのは直通列車が通らない区間。もちろん各駅停車しか停まらない。ただ、大ターミナル・池袋にもほど近い豊島区内。きっとにぎやかな駅に違いない。

 そう思いつつ訪れてみると、立派な橋上駅舎がお出迎え。南北どちらの出口も真新しい駅前広場が整備されているが、駅のすぐ目の前の通りがクルマ1台も通れるかどうかという細い道。“地元感”が濃厚な店舗があったりして、そのあたりは典型的な私鉄沿線の町並みといっていい。

 最初に北口に出たので少し近くに東急ストアがあってあっけにとられたが、南側の駅前には西友があってひと安心。西武沿線はやはりこうでなくてはならぬ。

どんな理由で東長崎駅と名付けられたのか

 さらに南口の広場の一角にある交番はあの“トキワ荘”を模した作り。手塚治虫や赤塚不二夫が青春時代を過ごしたアパートメント、トキワ荘。これがこの東長崎駅の近くにあった、ということのようだ(実際はかなり離れていて最寄り駅は大江戸線の落合南長崎駅)。

 個人的には東長崎駅のような駅前の道が狭くてごちゃついているような駅が好きである。だからついあれこれ書いてしまったが、本来の目的は“東長崎”という駅名のナゾだ。

 駅の所在地は豊島区長崎五丁目。なるほど、豊島区の長崎と呼ばれる地域一帯の東側にあるから東長崎駅です、と言われたら何の不思議もない。実際、長崎の南側には南長崎という地名もある。

 ところが、地図を見ると淡い期待はバッサリ裏切られた。東長崎駅、豊島区長崎の西にあるではないか。むしろ椎名町駅が長崎の東の外れにあって、こちらのほうが東長崎駅にふさわしいような気もしてしまう。

 そこで西武鉄道さんに聞いてみた。いったい、どんな理由で東長崎駅と名付けられたのか。

「開業したのは1915年のことで、記録が残っていないので確かなことはわからないのですが、おそらく古くからの地名に由来するのではないでしょうか」

……うーむ、ナゾというのはそんな簡単に解けるワケでもないからこんなものだろう。この古くからの地名が“長崎”。歴史的には、鎌倉幕府の執権だった北条氏の家臣・長崎氏と関係がある立派な地名なのだというが、やはり“東長崎”のナゾは深まる一方。

 ちなみに、ウィキペディアを見ると「九州の長崎と区別するため」と書かれているが、出典もないので真偽は不明。いくらなんでもあの南蛮文化香る長崎と間違える人は……と、結局何も解決しないまま次の駅、東久留米駅に向かった。

“東”久留米駅には何がある?

 東長崎から東久留米までは同じ路線なので乗ったきりで着く。たかだか30分ほどの短い東京郊外の旅である。そして東久留米駅もまた、東長崎駅と同様の橋上駅舎。ただ少しこちらのほうが古いようだ。

 駅前は東西どちらにも大きなロータリーがあって、客待ちのタクシーもいるような立派なもの。さらに西口にはみんなの旅のお供、東横インまでそびえている。東京郊外の私鉄沿線の小駅というよりは、JRの地方都市といった趣である。

 そしてこの駅にはひとつの特徴があった。橋上駅舎の2階部分西側に「富士見テラス」が設けられているのだ。訪問した日は生憎の曇り空(筆者は雨男なのでほとんど曇ってばかりいるのだ)で富士山など見えようはずもなかったが、よく晴れた冬の日には立派に富士山が見えるとか。さらに冬至前後には夕日が富士山頂に沈んでいく“ダイヤモンド富士”も拝めるというから東久留米の人たちが羨ましい。

 さて、いつまでも富士見テラスでとどまっていてはまたもやナゾが解けずに終わってしまう。そこでここでもまずは西武鉄道さんにお尋ね。

「開業は1915年で、こちらも正式な記録は残っていないんです……」

 再び立ち込める暗雲。ただ、東長崎と違う点もある。東久留米駅があるのは、その名も東久留米市なのだ。自治体名=駅名なのだ。ここをとっかかりに推測を進めていく。東久留米市の駅だから東久留米駅になったのではないか。

 が、これはまったくの間違いで、東久留米市が誕生したのはちょうど50年前の1970年(駅舎にも50周年記念の横断幕が掲げられていた)。市になる以前は久留米町、さらにそれより前は久留米村といった。東久留米市になった理由は明確で、市のHPにも「町民に親しまれていた東久留米駅から」とある。

 つまり、もともとは久留米村だったところになぜか“東”がくっついて東久留米駅が誕生し、その駅名を頂いて東久留米市が成立した、というわけだ。ナゾ解明のカギは名付け親の西武鉄道さんが握っているが、それがわからないというのだから手詰まりである。

地名辞典を紐解いてみると…

 そこで、調査の本流に立ち返るべく地名辞典を紐解いた。するとあっさり答えがあった。「市制施行の際、同名市があるため、東京の東を冠す」(『角川日本地名大辞典』)。なんだか市のHPとは微妙に違う主張をしているが、いずれにしても久留米駅ではなく東久留米駅となった理由は先行する久留米駅にあるということだろう。東長崎の“長崎”と同じ、九州の久留米である。

 さすがに間違えないのでは……とも思うが、実際にJR、かつての国鉄の駅名は先行する同名の駅がある場合は区別するために旧国名を冠することが多い。上総一ノ宮、武蔵小金井などがそうだ。また、中には県名をもってくることもある。

 その流れを踏まえれば、東京の“東”から東久留米駅、と名乗ってもまあ不思議ではない。そしてその理屈からすると東長崎も“東京の長崎”で東長崎で間違いないのだろう。いずれにしてもこれらの“東”は東西南北の東ではなく、東京の東だったのだ。

 ちなみに、本家久留米駅といえばブリヂストンタイヤ発祥の地としておなじみ。駅前にはどでかいタイヤがオブジェクトとして鎮座している。東久留米駅前のタイヤといえば客待ちタクシーのタイヤくらいなものだが、実は西武とブリヂストンはなまじ無関係とも言えない。国分寺線と拝島線が交わる小川駅の近くには古くからブリヂストンの工場があり、かつては駅までゴムの匂いが漂ってきたという。

“東”伏見駅には何がある?

 ああ、同名の駅と区別するために東京の“東”を冠したんですね、ということがわかってしまって、なんとなくこちらも答えが最初から見えている。それでも決めたからには初志貫徹で行かねばならないのが西武新宿線の東伏見駅である。

 西武池袋線と新宿線は山手線のターミナルから西に向かって平行に伸びている。埼玉県に入ったところの所沢駅で交わるが、それまでは付かず離れず、絶妙な距離感を保っている。おかげで、東久留米駅と東伏見駅は直線距離ではさほど離れていないのに実に行きにくい。所沢で乗り換えればいいのだが、それはなんとなくシャクなので、保谷駅に戻ってからバスに乗ってえっちらおっちら、東伏見駅にやってきた。

 東伏見駅はもしかしたら一部の人たちにはなかなかの知名度を誇っている駅かもしれない。駅の南口のロータリー、その片隅に小さなマスコットのような像があり、「縄文の里、東伏見」。そう、東伏見は縄文遺跡のある町として有名……ではない。肝心なのはそのすぐ近くにある立て看板。「早稲田大学東伏見キャンパス構内案内図」だ。

 駅前からしてもうキャンパスのつもりかと僻みたくもなるが、事実ロータリーの反対側には早稲田大学の建物が建っていて、その奥には体育会系のクラブが使うグラウンドがひしめく。筆者も10年ほど前に取材で訪れたことがある。以前訪れた本庄早稲田駅などと同様、東伏見は早稲田大学の町なのだ。訪問時も駅の周りで屈強な肉体のいかにも体育会系といった雰囲気の学生たちの姿を多く見かけた。

 そして答え合わせである。東伏見駅、こちらも一応西武鉄道さんに聞いてみる。

「1927年に開業した当時は上保谷駅といいました。ここも正式な記録はないのですが、京都の伏見稲荷大社の勧請によって東伏見稲荷神社が創建され、駅名も1929年11月に東伏見駅に改められたと言われています」

 こちらはなかなか具体的。東伏見駅から東伏見稲荷神社までは早稲田大学のキャンパスの間を抜けて約10分。この神社がやってきてから、周辺一帯の地名が東伏見となって、それが駅名変更にもつながって今に至っているというわけだ。本家本元の伏見稲荷大社の勧請という事情から、神社が「東伏見稲荷神社」と名乗ったことはなんとなく想像できるところである。

 なお、東伏見駅があるのは西東京市。もう東だか西だかわけがわからなくなってきますね……。

“東”村山駅に残されたナゾ

 結局のところ、西武線に点在している拠り所なき“東〇〇駅”は、どれも先達に遠慮して東京の“東”を冠したことから来ているようだ。今回は訪れなかったが、拝島線の東大和市駅の東大和も同様。

 ただ、そうした中でひとつだけ説明のつかない東〇〇駅がある。志村けんさんで一躍名を馳せた東村山駅である。

 東村山駅は西武新宿線と西武国分寺線が交わる駅で、JR中央線方面と所沢をはじめとする西武線沿線をつなぐハブのようなターミナル。駅の前後には踏切があるが、現在立体交差化のための線路高架化工事真っ只中だ。なので、少し前まで使われていた橋上駅舎は閉じられて、北側の地下に小さな改札口と出入り口が設けられているいわば“仮駅舎”で営業中だ。

 そんな東村山駅、とうぜん東村山市にあるのだが、これはこれまでの東〇〇駅とは違う。村山、という駅は確かに北は山形県にもあって山形新幹線も停まるほど。ただ、駅として開業したのは東村山駅のほうが古い(1894年開業、東北の村山駅は1901年開業)。

「開業当時は久米川仮駅でした。1895年に現在地に移設して、東村山駅と改称しています。当時の地名から取ったのではないかと思われます」

 こちらはおなじみ西武鉄道さんのコメント。東村山市が成立したのは1964年だが、鉄道開通前の1889年には東村山村があった。これがどのようにして名付けられたのかが問題だが、もともとこの一帯は村山と呼ばれており、その東部に位置していたから東村山と名乗ったという説が有力だという(今でも村山という地名は残っている)。つまりこれは、駅名としては拠り所なき東〇〇駅だが、地域名としてはしっかりとした拠り所があった。

 というわけで、ナゾの東〇〇駅を巡る旅、思いの外長くなってしまったがこれにておしまい。もしかすると他にも似たような駅があるかもしれぬ。ただ、全国ひろしといえど同じ会社の路線にこれだけ拠り所なき東〇〇駅(方角はどこでもいいのだが)があるのは西武線くらいだろう。あれ、西武線は“西”ですねえ……。このナゾの解明は、またの機会に。

(鼠入 昌史)

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