「精神科に行くと家名に傷が付く」評論家・古谷経衡が受けてきた毒親からの苛烈な虐待
文春オンライン / 2020年11月1日 17時0分

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“使用済みティッシュ”を勉強机に並べ、恥をかく姿を愉しむ…“毒親”による異常行動の数々 から続く
「親孝行はした方がいい」「親子は無条件に“良い”関係性である」……そのような模範は広く社会に共有されているといっても過言ではない。
しかし、その一方で、我が子に精神的・肉体的な虐待を与える“毒親”と呼ばれる人たちも存在する。ネグレクト、過干渉、暴言……“毒親”による一方的な押し付けによって苦しんでいる子どもたちは、親に対して感謝の念を抱く必要はあるのだろうか。
気鋭の若手評論家として活躍する古谷経衡氏による著書『 毒親と絶縁する 』(集英社新書)から、毒親による虐待の実情、そして心に受けた深い傷を紹介する。
◇◇◇
生き地獄
話を私のパニック障害発症の1998年12月に戻すことにしよう。私の発作は、この体育館での出来事を切っ掛けに、以後頻繁に起こるようになった。それは、「広く逃げ場の無い場所」「衆目から監視されている場所」および「静寂が支配する緊張した空間」という三点のうち、どれか一つの条件があるとただちに発動した。
それは急激に悪化し、翌1999年になると「広く逃げ場の無い場所」の定義が狭まり、「教室くらいの広さの場所」でも発作の対象となった。これは何を意味するのかというと、「学校で授業が受けられない」ということを示す。
高校1年生の私は、キェルケゴールを中学生時代に読む程度の基礎教養を持っていたので、これが内臓疾患ではなく精神疾患であることは分かった。内臓疾患ならその発作は場所を選ばないはずだが、私の急激な死への恐怖は、特定の空間に身を置くことで起こる。この規則性から、この発作は精神疾患であると自ら確信した。ただ当時、パニック障害という言葉は知らなかった。図書館の本で独学すると、「不安神経症」とか「不安障害」であるに間違いないという判断に至った。
さて次の段階はどうするか。もう一刻の猶予も無い。学校での授業中には、ほぼ必ず発作が起こり、それと悟られないようにひたすら恐怖に耐えた。地獄の50分である。
硬いはずのリノリウムの床の感覚が絹豆腐のように砕け散る。正方形の教室の床に足をつけて確かに椅子に座っているはずなのに、もう瞬間的に、本当にあっという間に全身の感覚が麻痺し、座っているという自覚も全部吹き飛んで、呼吸が荒くなり窒息しそうになる。心臓が蒸気機関のように唸(うな)り声をあげて爆発している。教師の声など一切耳に入らない。
耐え難い症状
狭いはずの教室の中にいながら、まるで平行な床が無限に続く真っ平らで巨大な、天井の無い平面に放り出されたかのように平衡機能を喪失し、そのぐるぐる回る地面と呼吸困難に私は耐えて耐えて、耐えて、耐えなければならなかった。この発作の地獄は、現在でも時折夢に出てくる。いくら現金を積み上げられても二度と同じ恐怖の体験は御免である。これは、患者当人にしか分からない凄絶な発作なのである。
「広く逃げ場の無い場所」でいえば、私がこの病気を発症した最初の場所、すなわち体育館が最も禁忌となった。体育館に入った瞬間に発作が起こる。よって必然的に、体育館を使う体育授業は受けることができない。
トイレにこもって難を逃れる日々
最初は事実を話さず保健室で「頭痛」「腹痛」などといって休ませてもらっていた。最も難敵だったのは、体育館で行われる全校集会で、私は学校の大便室の中に鍵をかけて閉じこもり、クラスメートががやがやと教室に戻ってくる隙を見て何食わぬ顔で合流する、という姑息戦法を採った。
しかしこれが通用したのも、ほんの1か月か2か月くらい。当時の担任から、
「なぜお前は全校集会の時にいつもトイレでうんこをしているんだ!?」
と呼び出された。正直に告白するしかなかった。いや、正確には、その場では「……すみません、以後無いように誓います、すみません」と謝って、その日の夜、担任の家に家から電話をして直接病気を告白した。
この時、私は両親に電話の内容を聞かれるのを警戒して、電話線をピーンと伸ばして、厳冬の北海道の外気に晒されるベランダに出て、寒さでガタガタ震えながら担任に電話をした。北大進学のためなら実の息子への虐待をあらゆる理由をつけて正当化し、それが叶(かな)わないと見るや「カネを返せ」とか、自慰の処理をしたティッシュを集めて机に並べる、などというもはや対話すら叶わない、常軌を逸した言動を取る両親には、直感的に私の動物的本能が、「この病気は両親には絶対に理解されない」「両親を通じていくら学校に訴えても無意味」と警告していた。そしてその直感は当たり、その後、事態は図らずも予想通りに展開することになる。
両親を介さず担任に相談
担任からは「とりあえず明日学校で詳細を聞く」と言われた。結果的に、私の全校集会欠席は、かろうじて認められた。学校保健医にもすべてを洗いざらい話して協力してもらった。名前は忘れたが、この時の学校保健医には、今でも感謝している。今考えれば、この保健医(女性2人)だけが、私の唯一の味方といってよかった。
兎に角一旦パニック障害を発症した私にとって、一番厄介だったのは、「教室くらいの広さの場所」でも発作が頻出する点だが、私はこれを自力で改善する抜け道を何とか見つけ出した。
教室の最後尾の角の位置、つまり一番後ろの「衆目から監視されて“いない”場所」ならば、発作が起こらないことを発見したのである。だから席替えのたびに、私はなんやかやと理由をつけて最後尾の角の座席を確保するために狂奔した。時には、最後尾角の席を確保したクラスメートに金銭(3000円とか5000円)でその権利を譲ってもらう、というトリプルAの荒業もやった。
むろん、この高校生には大金となる3000円とか5000円のカネは、先に述べた通り私のプリンターつきワードプロセッサによる錬金術から生み出されたものだ。地獄の沙汰も金次第とはまさにこのことをいうのかもしれない。
こうやって「安全な定位置」を確保することを、他のクラスメートには「内緒」で担任が渋々承諾するまでに実に3~4か月ぐらいかかった。体育の授業は単位取得上、流石に休み続けられないので、クラスメートには「腸の病気」と嘘を言って、体育館の入り口の隅っこの、ギリギリ発作が起きない地点での見学が許可(見学による単位認定)された。これも同様に、3~4か月かかった。
理解を示してくれた教師たち
定年間際の体育教師にはパニック障害とは何なのか、それが精神的疾病なのか肉体的疾病なのかすら、最後まで識別できていないようだったが、優しい世界観の持ち主だったので私の申し出を最終的には承諾してくれた。
あとで知ったことだが、この教師は40代の時に大病を患って生死の縁をさまよったという。病む者の気持ちを、疾病の質は違うとはいえ理解していたのかもしれない。私の母とは正反対の許容度の高い教師だった。
何事にも頑強な意志を基にした徹底抗戦と交渉が必要であると、この時の体験がのちの私の強力な人生訓になった。だが、この間(かん)のことは正直、今でも思い出したくない。本当に思い出したくない。こうして克明に当時のことを書いているが、20年以上経った現時点ですら少し辛(つら)いのが正直なところ。文字通り生き地獄だった。二度と思い出したくはない漆黒の生き地獄であった。
保険証まで隠されて
さてここまで読んだ読者は「治療はどうしていたのか?」という素朴な疑問を持つであろう。当然だ。私は1998年の12月に、厳然たるパニック障害を発症していたにもかかわらず、結論からいって「具体的な治療は何一つ」できなかったのだ。いや、正確には「具体的な治療の一切を受けさせてもらえなかった」のである。
1998年冬の急性発症から陰鬱な正月を経て1999年の春にかけて、私のパニック障害の症状は最も重篤になった。「授業を受けることがほとんど困難」「体育館に入ることが不可能」「よって卒業に要する単位もどうなるか分からない」とあっては、もはや受験勉強どころではない。
この事実を、私はやむなく、理解されることが不可能と薄々予感しつつも、1999年の早い段階で両親に告白した。私の希望は次の二つ。
(1)このような症状であるから、現在の高校はやむなく退学し、フリースクールなどに転校したい。
(2)精神科に行きたいから保険証を貸してくれ。
ところが、この二つの要求は、両親によって全部拒否された。特に父親はこの時点においてなお、私が「中堅進学校の成績上位5%に入り北大に進学する」という到底実現しえない進路への幻想を持ち続けていたので、現在通学している高校の退学など、彼の卑小で差別的な世界観には全く存在しえないことなのであった。
お前の言う“病気”は気のせいだ
だから予想通り、父は「退学、転校などは一切認められない。お前の言う“病気”というのは気のせいだ」の一点張りで、何ら交渉の余地は無かったのである。
そして驚くべきことに二点目の、「精神科に行きたいから保険証を貸してくれ」という、かろうじて受け入れられそうな要求もまた完全に拒絶されたのだった。当時、私の父ははっきりこう言ったのである。
「仮にお前の言う“症状”があったとしてだ。精神科というのは○○○○病院である。そんなところに息子のお前が行くとなると、古谷家の家名に傷がつくではないか。だから保険証の使用は一切認めない。保険証の貸与も一切認めない。病院に行くことも、学校を転校することも一切認めない。お前は北海道大学に行く。お前に教育費という莫大(ばくだい)なカネをかけてきた投資を回収するためだ。お前が北大に行かなければ、なぜ我々が必死にお前を育ててきたのか。意味が無くなる。その“症状”というのは気のせいだから寝れば治るだろう」
という、驚くべき偏見と差別に満ちた放言で、私の一番と二番の要求はことごとく拒否されたのだ。そしてこれについては母も二重にも三重にも増して父と同見解を採用したのである。そうして私の母は「日蓮さまに平癒のお願いをしておくから、その症状はすぐに治る」などと断言して、それきりこの話はおしまい。完全に打ち切りであった。
最大の庇護者であるはずの両親からの偏見と無理解
これこそ教育虐待以外の何物でもない酷い仕打ちであり、はっきりいってこれはれっきとした犯罪である。具体的には刑法第218条「保護責任者遺棄罪」にあたる。保護責任者遺棄罪とは、保護を必要とする人間を助けなかった罪で、要するに保護責任のある者が助けを必要とする相手を何もせずに放置した場合の罪である。この点において、両親は完全に犯罪人である。
未成年者で、親の保険証が無ければ病院に行くことができない私は、ただ両親への募る敵愾心(てきがいしん)と憎悪を胸に秘めて何とかやり過ごす選択肢しか無かったのである。パニック障害への偏見と無理解は、他人だけから受けるものではない。本来「最大の庇護者(ひごしゃ)」であるはずの両親からも、起こりうるのである。
それでも、高校時代の私は精神科に行くことを諦めなかった。自己保有のワープロで学校教材費を水増ししてでも本代を捻出するほど、根が行動派だった私は、この程度の説得が不発に終わったことのみでは、どうしたって治療への道を諦め切れなかったのである。
精神科受診への差別と偏見
しかし1999年の春、両親、特に父の世界観に追従して私に苛烈な虐待を行っていた母は、私が保険証を無断で使うことを警戒して、保険証を家のどこかに隠し、絶対に使えないように工作をした。信じられないだろうが本当の話である。
母は自分は国からの難病指定により無料で十分な治療を受けているのに、さらには精神安定剤を処方された経験があるにもかかわらず、子供の精神疾患は無治療に処す、という矛盾極まりない態度を取りながら、それを一切矛盾だとは思わなかったのである。
それほど精神科受診へのとんでもない差別と偏見に、両親は心を蝕まれていたのである。蝕まれていたというよりも、第1章で書いた通り、私の両親は異様なほど差別的にできているのである。だから、彼らが最も蔑視する「精神科への通院・治療」を許可することなど、彼らの世界観の中では天地がひっくり返っても到底ありえない選択肢であった。
無保険・飛び込みで精神科へ
よって私は、タウンページで調べた、家から徒歩15分のところにある精神科に飛び込みで入った。当然、保険証を持たない無保険状態である。温厚な医師から、その時初めて正式に、「君の病名はパニック障害である」と告知された。
そして両親の偏見により保険証の使用ができない旨を話すと、「薬代だけで良い」と言って、無料で診察してくれた。もう名前も忘れてしまったが、私が人生で初めてかかった精神科医師の優しさは、今でも忘れていない。この場を借りて御礼申し上げたい。
しかし、私がその時薬局で処方されたのは所謂「頓服(とんぷく)薬」で、パニック障害の根本的治療にはほど遠かった。ほど遠いというよりも、ほとんど何の効果も無かった。しかしながら姑息に、私のパニック障害の発作頻度は軽減されていった。
それは前述したように、担任や体育教師、学校保健医との粘り強い交渉の結果、「教室内で最後尾の角の席を確保すること」「体育の授業は見学によって出席認定すること」「全校集会は保健室で待機すること」の三点を、私が断固たる意志で認めさせたからである。
これにより何とか私は、高校に継続して通うことができるようになった。これだけは物理的な救いだった。本当は中退してフリースクールに進みたかったのだが(当時札幌市内には、進学実績で決して普通科全日制に引けを取らない、魅力的で有名なフリースクールが一校あったからだ)。
(古谷 経衡)
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