「研究が足りていなかった」“将棋の強いおじさん”木村一基九段が三段リーグで悩んでいたころ

文春オンライン / 2020年11月1日 11時0分

写真

木村一基九段 ©文藝春秋

「千駄ヶ谷の受け師」と呼ばれる棋士がいる。木村一基九段、47歳。

 プロデビューは23歳と遅咲きだったが、1998年度には将棋大賞新人賞を受賞。翌年度には勝率第1位賞を受賞するなど活躍を続ける。2005年には、ついに竜王戦でタイトル初挑戦を決めた。

 その後もタイトル戦の舞台に進んだものの、「あと一歩」があまりに遠かった。「勝てばタイトル獲得」となる対局では8局連続で負け。特に深浦康市九段との第50期王位戦七番勝負は、3連勝後に4連敗という記録的なシリーズとなった。

 ファンからも棋士からも愛され、ついには46歳で初タイトル「王位」を獲得した木村の歩みを丹念に描いた『 受け師の道 百折不撓の棋士・木村一基 』(東京新聞)は、涙なしには読めない名著として評判が高い。木村のプロ入り前のエピソードを一部抜粋して紹介する。

◆ ◆ ◆

ライバルたち

 1984年正月。札幌駅前にある東急百貨店は、恒例の「将棋まつり」でにぎわっていた。当時小学4年の野月浩貴(のづきひろたか・八段)は、同じ札幌市内に住む小学6年の屋敷伸之(やしきのぶゆき・九段)と雑談しながら、小学生大会が始まる直前の高揚感を紛らせていた。

「おれ、千葉から来たんだ」。向かいの席から割り込んできたのは、屋敷の対戦相手の少年だった。札幌の祖父母宅に親と帰省中、電車の広告で大会のことを知って参加したという。野月と同い年だった。自信満々な口ぶりで、木村一基と名乗った。

「屋敷君を知らないんだな、かわいそうに」。野月はほくそ笑んでその場を離れた。屋敷は前年の小学生名人戦でベスト4に入り、その模様はNHKで全国放送された。野月や金沢孝史(かねざわたかし・五段)ら、逸材がそろう北海道の少年棋界でも抜きんでた存在だった。

 しかし1回戦の対局を終えて戻った野月は、目を疑うことになる。矢倉戦から入玉模様の将棋となり、怪力を発揮した木村が勝ちきっていた。さらに金沢も破り、野月と決勝戦を争うことになった。ただ、強敵との連戦で疲労もあったか、決勝は野月が得意の四間飛車で快勝した。

 舞台に並んでの表彰式で、野月はもう一度驚かされた。式の最中だというのによくしゃべる子だった。自分は将来プロになる。もう師匠に弟子入りもしている。「お前はどうするの?」。野月がプロ棋士という存在を意識したのは、その時が最初だった。

 同年夏、東京・千駄ケ谷の将棋会館五階にある宿泊室。青森県弘前市から訪れていた小学5年の行方尚史(なめかたひさし・九段)は、テレビに映るロサンゼルス五輪の中継を眺めながら、その日の対局を思い返していた。

 上京は小学生名人戦に出場した春以来、2度目となる。今回は、プロ養成機関「奨励会」の下部組織に当たる「研修会」の入会試験を受けるためだった。当時はベビーブームの影響もあって奨励会の受験者数が多く、不合格者の受け皿として研修会が発足して間もないころだった。

 夜行列車で上野駅に着いた行方は、山手線の人の多さに酔い、神田駅で吐いてしまった。2日間の試験は受験者同士で計8局を指す。初戦の相手は、高い声でよくしゃべる同学年の子で、名前は木村といった。話し方に独特の調子があって「田舎にはいない子だな」と感じた。相手の振り飛車に急戦で挑んだが、やられてしまった。

 研修会には、よほどのことがなければ受かると聞いている。でも、奨励会には入れるのか。地元では敵なしでも、こんなに強い子のたくさんいる東京で、本当にプロになれるのか。不安でいっぱいの行方少年は、その日の対戦相手が人生のライバルになるとは、想像もしていなかった。

奨励会

 奨励会では、プロ棋士を夢みて全国から集まった天才たちの前に、二つの鉄の掟が立ちふさがる。まず26歳までに四段(プロ)になれなければ退会、という「年齢制限」。もう一つは、半年間で成績上位2人が四段に昇段する「三段リーグ」である。初段からプロになれる囲碁界と比べ、将棋界の棋士の総数が3分の1程度と少ないのは、この厳格な「産児制限」による。女性の通過者を一人も出していない点も大きな違いだ。木村は小学5年で奨励会試験を受けたが、受験者数が多く、成績は悪くなかったものの「まだ若い」との理由で落とされた。6級で入会したのは翌85年の12月。天才とうたわれた羽生善治(はぶよしはる・九段)は入れ替わるように同月、15歳で奨励会を抜けてプロ入りしている。

 木村の同期には、札幌で対局した屋敷、野月、金沢の名も含まれていた。同期15人のうち、プロになれたのは木村を含めたその4人のみ。研修会でともに学んだ行方は1次試験で落ち、失意から研修会も退会した。

「ひたすら指すことが当時の勉強法でした」と木村は語る。中学校から帰ると強豪の集まる千葉市の道場に通い、土日も一日中そこで指す。「詰め将棋は退屈で、あまり好きではなかった。今みたいにネットもソフトもないので、何をやったら強くなれるのか分からないんです」。当初はそれでも強くなれた。中学3年で二段と、順調なペースで昇進を重ねたが、そこから歩みが鈍くなった。

 同期の間でも進度は分かれた。屋敷は入会から3年足らずで四段に駆け上がり、木村が高校2年の夏には初タイトル「棋聖」を獲得してしまった。屋敷は当時、18歳6カ月。この史上最年少記録はいまだに破られていない(※2020年7月、藤井聡太が「棋聖」獲得により記録更新)。金沢は木村とほぼ同じペースで昇段した。中学1年で単身上京した野月は、都会の誘惑に足を取られ伸び悩んでいた。

 当時、奨励会の対局は平日に行われており、木村は比較的自由な校風の私立高校に進んだ。同級生だったフリーアナウンサーの大澤幹朗(おおさわみきお・46)は「男ばかりで毎日のように集まり、テレビゲームやマージャンをしていました。青春18きっぷで北海道まで旅行もした。僕たちのせいでプロ入りが遅れた部分はあるかも」と苦笑いする。

 しかし、学生時代の友情は大きな財産となった。当時のメンバーは今も、盆と正月のたびに集まる。王位戦七番勝負と竜王戦の挑戦者決定三番勝負が重なった2019年8月、多忙を極めたさなかにも木村は参加している。「将棋のことを忘れられる、数少ない瞬間なのかもしれません」と、大澤は勝負師の心中を慮った。

三段リーグ

 高校2年でプロ一歩手前の三段に昇段した木村だが、初参加の三段リーグは7勝11敗と負け越し。2期目も同じ成績で「このままではダメだ」と思い知らされる。二段以下の対局とは空気が違った。年齢制限のタイムリミットが迫る中、誰もが人生を懸けて将棋を指している。「特に序盤の突っ込んだ研究が足りていなかった。受けを中心に考えるようになったのはこのころです」

「受け師」と称される木村だが、「防御を固めるだけの将棋ではない」と野月は説明する。将棋は相手玉を討ち取れば勝ちだが「玉でなく、相手の攻め駒を攻める感覚」という。敵が振りかざす武器を狙い、たたき折ってしまう「攻める受け」が、木村将棋の神髄なのだ。

「リスクの高い指し方。ほかの棋士はまねできない、というか、したがらない」と野月は評する。多くの棋士が得意とする攻め将棋と違い、受け将棋は一つのミスが敗北に直結する。「何度も痛い目に遭いながら、徐々に身につけていったんだと思います」。その努力が実を結ぶのは、まだ少し先のことになる。

 木村は別の悩みも抱えていた。今も昔も十代の奨励会員が直面する進学問題だった。当時、大学に進む奨励会員はごく一部。中卒の者も少なくなかった。プロになれる保証はないが、進学すると「保険をかけた」と陰口をたたかれた。

 木村の3歳上の兄弟子、丸山忠久が早稲田大に進学した時、師匠の佐瀬勇次は激怒し「お前は行かないだろうな」と木村に迫った。高校進学にも反対した師匠だった。しかし結局、木村も一芸推薦で亜細亜大に進学した。恐る恐る師匠に報告したが、拍子抜けするほど怒られなかった。「あきれていたのか、丸山さんほど期待していなかったのか」と木村は苦笑いする。「確かに将棋の面だけでみれば、マイナスだとは思いました。それでも自分ならプロになれるという甘い考えも、どこかにありました」

 一方、「大学に行くやつは犬だ」と言い放ち、木村をあぜんとさせたのは同い年の行方だった。行方は奨励会試験に落ちて研修会を辞めた後、故郷の弘前から不退転の決意で上京。「浪人」生活を経て、木村の1年遅れで奨励会に入った。慣れない独り暮らしに加え、理解のない教師から「田舎に帰れ」と叱責されるなど「暗黒の中学時代」に伸び悩んだが、「高校を3カ月で中退したら吹っ切れた」という。

 木村と同じ三段に追いついてくると、二人は毎月、1対1で実戦形式の研究会(VS)をするようになった。しかし木村が三段リーグで苦戦する一方、行方は勢いのまま三期で通過、19歳でプロ入りした。さらに初参加の竜王戦で挑戦者決定戦まで進むなど、棋界の新星として話題をさらった。二人のVSはその後も続けられたが、競争相手の躍進を目の当たりにし、木村の心中には焦燥が芽生えていた。

加瀬教室

 気晴らしとなるはずの大学生活でも、木村の心は晴れなかった。「授業中も、サークルに出ても、将棋のことが頭を離れないんです。三段リーグの成績は上向かないし、といって退学にも踏み切れなかった」

 そんな時、千葉県市川市で毎週、将棋教室を開く先輩棋士から「手伝いに来てほしい」と頼まれた。「同じ千葉なので、昔から『木村という強い子がいる』とは聞いていました。『口が悪い』といううわさも。でも、会ってみると礼儀正しい好青年で、助手を頼んだんです」とその先輩、加瀬純一(かせじゅんいち・七段)は回想する。

 年配者から子どもまで幅広い生徒らを指導するのが、木村の仕事になった。指導対局は教える側の上手(うわて)が、教わる側の下手(したて)の棋力に応じて駒を落とすハンディ戦だ。下手の実力向上が目的で「どううまく勝たせるかが上手の腕の見せどころ」ともいわれる。しかし、木村の指導は「激辛」だった。

「奨励会員なので、負け癖がつくのは良くないと思い『わざと負ける必要はないよ』と言いました。それでも普通は生徒に気を使うんですが、木村君は毎回ほぼ全勝でした」。生徒が減らないか心配する加瀬に、木村は「私は教室をつぶすつもりで指します」ときついジョークを飛ばした。

 ところが木村は、すぐ人気講師になった。当初から指導を受ける産婦人科医の千本英世(ちもとひでよ・75)は「感想戦でのフォローがうまく、『次こそは』と思わせる。負かされても、みんな納得なんです」と語る。「教室の後の飲み会も明るい酒で、すぐファンになっちゃった」

 千本は半年に一度、三段リーグの星取表が発表されると、まず木村の対戦欄をすべて白丸で埋め、全勝を祈願した。しかし、リーグが進むと、黒く塗りつぶさなければならない対局が増えてくる。「その時がつらかった」。同じような気持ちで、木村のプロ入りを待望する生徒はどんどん増えていった。

 それから四半世紀以上が過ぎても、木村は加瀬教室で毎月教えている。「奨励会時代、彼ほど指導対局を指した棋士はいないのでは」と加瀬は語る。駒落ち将棋の上手はギリギリのしのぎが要求される。木村は王様自ら陣頭に立って戦う「玉さばき」に定評があるが、「棋風に影響した部分もあったのかも」。古参の生徒たちは「うちらが鍛えてやったんだ」と遠慮がない。

 教室の後の飲み会も恒例だ。「どんなに活躍しても、忙しくても、ずっと来てくれた。本当に義理堅い男です」と加瀬は感謝する。その姿勢は、王位となっても変わらない。

◆ ◆ ◆

 この続きは、『 受け師の道 百折不撓の棋士・木村一基 』(東京新聞)に収録されています。

“百折不撓の棋士”木村一基、46歳の初タイトル獲得で流れた涙、涙、涙 へ続く

(樋口 薫)

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング