地下鉄サリン事件、死刑囚の母の“告白”「息子のことではない、別の人間だと思ってました」

文春オンライン / 2020年12月19日 17時0分

写真

©iStock.com

1995年地下鉄サリン事件 なぜ理系の高学歴者は、麻原彰晃にのめり込んだのか から続く

  1995年3月、地下鉄サリン事件が世間を震撼させた。事件から2日後の3月22日に、警視庁はオウム真理教に対する強制捜査を実施し、やがて教団の犯した事件に関与したとされる信者が次々と逮捕された。地下鉄サリン事件の逮捕者は40人近くに及んだ。この事件で同時に起訴され、主張や弁護人の足並みの揃った実行犯である廣瀬健一と豊田亨、それに送迎車の運転手役だった杉本繁郎の3人がいっしょに並んで、同じ法廷の裁判に臨んでいた。  

 その判決公判廷の傍聴席にいたのが、ジャーナリストの青沼陽一郎氏だ。判決に至るまでの記録を、青沼氏の著書『 私が見た21の死刑判決 』(文春新書)から、一部を抜粋して紹介する。(全2回中の2回目。 前編 を読む)

◆◆◆

「バカなことをなぜ信じるのか」

「いろいろな無常観があります。具体的には、友人にテレビやオーディオに関係する人、そういうことが好きな人がいて、そうしたものは新しい製品が発売されても、すぐにこの世からなくなっていく。好きで理工系に進もうと思ったのに、社会をみれば、せっかく開発した製品が発売されると、すぐに市場から消え、また新しいものの開発に取り組まなければならない。科学の産物もすぐに価値がなくなり、人のためによかれと思った開発も軍事技術に転用されてしまう。そうしたことに無常を感じました」

 彼は、大学院を出て大手の電気機器メーカーへの就職が決まっていた。それを入社前日の3月31日になって、教団に出家していた。大学院の指導教授からは、「空中浮揚は慣性の法則に反する。学問を積んだ者が、バカなことをなぜ信じるのか」と詰め寄られても、聞かなかった。

「自分の中に、絶対的なものを求めたがる聖域があって、その裏返しだったのだと思います」

 時代はバブル経済の絶頂期を迎えていた。あの雰囲気の中に、どこか付いていけない不確かなものを感じた若者がいても、おかしくはなかった。こんな乱痴気騒ぎのような夜がいつまでも続くのか、果たしてこれが本当の幸せのかたちなのだろうか。そこに溶け込んでいけない自分の姿。羨みと戸惑いの入り交じった感覚。そんなものをぼくは感じていなかった、といったら嘘になる。

 他の法廷では、端本悟というオウム信者が裁かれていた。彼は、早稲田大学の法学部を中退して、オウム真理教に出家した。それから間もなくして、坂本弁護士一家殺害事件に加わり、松本サリン事件では教団が改造したサリンの噴霧トラックを現場まで運転して帰ってきている。ちょうど彼や、廣瀬が大学のキャンパスを往来していた頃、ぼくも同じ場所にいた。同じ景色を観て、同じ空気を吸っていたはずだった。そういえば、あの頃、ぼくの後輩も教団の勧誘を受けていたといった。入信までとはいかなかったが、大学の近くにまでベンツで乗り付けてきていた麻原に直接あって、声をかけられたこともあったという。

 いったい、あの時のぼくと彼らを隔てたものは、なんだったのだろう。

母親の語る生い立ち

 端本もやはり死刑判決を受けている。

 廣瀬を育てた母親は、毎回、息子の公判を傍聴にやってきていた。

 朝6時から9時まで、野菜カットのパート仕事をしながら、昼間は東京地裁に通った。そのため、勤めていた会社を辞めていた。

「その前は、メッキ会社に勤めていました。フルタイムで朝から夜8時まで。主人も現場が多く、割と遅い時間に帰ってきました」

 被告人の情状証人として法廷に立った母親は言った。

 死刑回避を求めて、やがては死刑判決を受けることになった被告人の母親が、その生い立ちを語ることも珍しかった。

 廣瀬の女性弁護人の尋問に、母親はこんなことを語っていった。

 ──夕食は?

「だいたい一緒にとっていました」

 ──忙しくても帰る?

「会社は家のすぐ近くでした。月に一度、月末でしたが、夕食の支度をしに帰って、また会社に行き、朝の2時まで働くことがありました」

 ──子どもには寂しい思いをさせたことはない?

「それはないと思っています。夕食の時には必ず帰っていました」

 続けて、被告人の性格、生い立ちを振り返る。

「明るい子で、温厚な性格だったと思います」

 ──母親として悩んだことは?

「一切ありません」

 ──特段の教育方針は?

「いえ、ありません」

 ──小学校3年から剣道に通っていますね。

「熱があって休むように親が言っても、剣道にも学校にも行く。なんでもやり遂げるだろうなと思いました」

 ──中学校の通知表を見ると、先生の評価も高い。級友にも寛容で、公正な判断をすると。

「勉強のできない子でも、できる子でも一緒に仲良くすると、言っていただきました」

 ──高校からは奨学金を受けていますね。御両親からそう言われたのですか?

「違います」

 ──では、自分から進んで?

「はい。家計を助けようと……そうだったと思います」

宗教の世界へ

 ──大学では応用物理学を学び首席で卒業。総代で挨拶もしていますね。

「そういうことは聞きました」

 ──被告人は言わないのですか?

「家に帰って、記念品として時計を頂いたとだけ……」

 ──学校のこととか、本人があまり話さない?

「そうだったと思います。ですが、親として別に関心を持たない訳ではありませんでした」

 そんな息子が、宗教の世界に関心を抱いていく。だが、親は一切そのことを関知していなかった。

 ──高校から瞑想修行をしていたことは?

「知りません」

 ──宗教への警戒心はありましたか。

「わかりません」

 ──昭和63年3月にオウムに入信した、そのことを知らなかった?

「はい」

 ──この年の秋には大手電器メーカーへの就職が内定しますね。

「会社から家へ内定の連絡があって、それで知りました。どう言っていたか、ちょっと記憶はありませんが、喜んでいたと思います」

 ──出家する、と両親に言ったのは?

「翌年、平成になってから、1月ではなかったかと思います。坊さんが出家するのと同じ、そんなことを言っていました。出家すると、7代家が栄えると、健一が言っていました」

 ──出家後の生活については?

「自由に勉強、研究ができると言っていました。それと、幼稚園、小、中、高校、大学と、理想郷を作ると、そう言っていました」

 ──理想郷を作る?

「はい。簡単にそういうものができるのかな、と思ったのを覚えています」

 ──納得したのですか。

「納得はしませんでした。本人がどうしても出家したいと言うので、それも仕方ないかな、と思ったのを覚えています」

家族との初めての接見

 ──反対は?

「反対はしました。今までの勉強が無駄になるという言い方をしました」

 ──平成元年3月31日に出家していますね。

「はい。『何時に出かけるの?』と聞くと、『昼を食べてから出かける』と言うので、私も会社から帰って来て、昼御飯を一緒に食べました。それはもう悲しい気持ちで、御飯を一緒に食べるのもこれが最後と思って、赤飯を食べました」

 ──赤飯を?   なぜ?

「はじめての旅立ちだと思って、食べました」

 ──送りだそうと。二人きりで?

「はい。ドアの外に出て、『もし、ぼくが気持ちいいと思わなかったら、すぐ帰ってくるからね』と。ホントにそうであればいいな、と。帰ってくることを期待していました」

 ──地下鉄サリン事件の報道で、最初はイニシャルがでましたね。

「気が付きませんでした。息子のことではない、別の人間だと思ってました」

 ──逮捕とわかった時は?

「どうなっているのか、と。何かの間違いだと思ってました。警察に呼び出されても、やったことを信じてませんでした」

 ──10月になって接見してますね。お母さん、お父さん、妹さんの3人で。

「はい。涙をぽろぽろこぼして、頭を下げてました。私が『元気だったの?』と言ったのを覚えてます。それでも健一は、ただ頭を下げてました。父親は何も言わず、妹もただ泣くだけでした」

(青沼 陽一郎/文春新書)

×

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング