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山口組の礎をつくり、美空ひばりを芸能界に送り出す…伝説的「カリスマヤクザ」の正体とは

文春オンライン / 2021年2月13日 6時0分

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©iStock.com

 日本最大規模の暴力団山口組の礎を築き上げ、美空ひばりからは「お父ちゃん」と呼ばれるほど慕われた。政財界とのコネクションも持ち、あらゆる分野でその名をとどろかせるなど、「神」として崇められることも珍しくないヤクザがいた。その男の名は田岡一雄だ。

 ここでは、別冊宝島編集部による『 日本のヤクザ 100の喧嘩 』を引用。暴力で成り上がり、時代を動かしたカリスマヤクザ田岡一雄の生涯を紹介する。(全2回の1回目/ 後編 を読む)

◇◇◇

山口組を日本最大規模の団体に押し上げた男

 類まれな人心掌握術を操り、有能な子分らを数多く従えることで、三代目山口組の田岡一雄組長は、神戸のローカル組織を日本最大規模にまで押し上げることに成功した。その功績は1981年に亡くなってから40年近くの時間が流れた現在でもまったく色あせていない。「日本一の子分」を自称した“山健”こと山本健一・山健組初代組長、大軍団を率いた「ボンノ」こと菅谷政雄・菅谷組組長、田岡三代目が亡くなったのち、山口組を脱退し一和会を結成した山本広(山広)・山広組組長、その山広組長と四代目組長の座を争った竹中正久・竹中組組長といったスターヤクザの子分らから、神のごとく崇あがめられていた。そうした印象が強いせいか、田岡三代目自らが抗争に関わった姿は想像しにくいかもしれない。

 だが、田岡三代目も若き日には度胸と腕力を武器に、対立する相手や組織と、命懸けの真剣勝負を重ねていたのである。

 27年に高等小学校を卒業したあと、旋盤工の見習いとして就職。しかし、現場主任からの理不尽な横暴に耐えきれなかった田岡三代目は、暴力を振るって抵抗したため、あえなく解雇処分を受けた。

山口組との縁の始まり

 あてもなく神戸の繁華街を歩いている際、小学校の同級生だった二代目山口組・山口登組長の実弟と再会を果たす。この偶然をきっかけにして、田岡三代目と山口組の縁が始まった。

 バクチ修業に精を出すかたわら、毎日のように喧嘩を繰り返していた田岡三代目は、あるとき、柔道の猛者に路上で因縁をつけられた。その際、とっさに突き出した指が相手の目に入って見事に勝利を収めたという。その後、神戸の不良たちを相手に“目潰し攻撃”を重ね、見事に必殺技を修得。以来、喧嘩では連戦連勝したとされる。

公演中の舞台に上がって芝居をぶち壊す

 30年には、山口組が用心棒を務めている芝居小屋「湊座」の責任者ともめたことが原因で、公演中の舞台に上がって芝居をぶち壊すという暴挙に出る。本来なら山口組から追い出されるところだが、山口登二代目は田岡三代目の威勢のよさを気に入り、本格的なヤクザ修業を積ませた。

 山口組という強力なバックボーンを得た田岡三代目はさらに戦闘性を増していく。32年には、山口登二代目が後援会の会長を務めていた大関・玉錦ともめた力士・宝川の寝込みを襲って、刀で頭を斬りつけ、防ごうとした宝川の右手指を斬り落とす事件を起こした。

 続いて34年には、神戸港の海員組合での労働争議に関わっていた山口登二代目の舎弟が、組合員らに殺害される事件が発生する。そこで田岡三代目は労働争議本部を襲って、組合長を斬りつけたのだ。

暴力でのし上がったカリスマ

 こうした田岡三代目の暴力性は山口二代目には好意的に映ったようで、36年に正式に親子盃を下ろされている。田岡三代目はそのとき24歳、最年少直参の誕生だった。

 そして37年には、素行の悪さから山口組を破門された大長政吉とのトラブルを発端に、その実弟の大長八郎と決闘することとなった。「クマ」と呼ばれた田岡三代目と、「ハチ」と呼ばれた八郎は、かつて気の合う仲間だったという。だが、田岡三代目は迷うことなくヤクザの筋を選んで八郎を一刀のもとに斬り捨てたのだ。この「大長事件」により田岡三代目の勇名は急速に広まったが、代償として懲役8年の刑を受ける。

 43年に刑期が2年短縮され出所すると、山口登二代目はすでに前年に病で他界していた。

 落ち込む田岡三代目だったが、2年後に日本は敗戦国として終戦を迎え、国内は混乱期に突入する。神戸の街でも不良米兵や不良外国人が悪事を働き治安が悪化。それを見かねた田岡三代目は懐にピストルを忍ばせ、彼らと対峙したのである。次第に、付き従う者たちが現れたことで、田岡三代目の名はいっそう高まっていったという。

田岡一雄の船出

 46年、ついに田岡三代目は、山口登二代目の遺言もあって山口組三代目組長に就任。舎弟と若衆を合わせてわずか33名での船出となった。

 田岡三代目は賭場の運営に見切りをつけると、戦前から手がけていた浪曲の興行に力を入れるようになった。芸能プロダクション「神戸芸能社」を立ち上げ、美空ひばりをマネージメントすることにより業界で一気に勢力を伸ばした。

 さらに、興行界での地位を決定づける事件が53年に発生する。当時、人気俳優だった鶴田浩二を山健組長らがレンガなどで襲撃し、重傷を負わせたのだ。田岡三代目も犯行を指示したとして逮捕されたが、「前年に鶴田のマネージャーの非礼に不快感を覚えたが、山健組長らに指示はしていない」と主張し、不起訴処分となった。

暴力で芸能界に名を馳せる

 現在なら暴力沙汰を起こす芸能事務所は評判を落としそうだが、田岡三代目ともめたら何をされるかわからないとして、神戸芸能社の権威は絶大となったのだ。

 この興行面と、すでに進出していた神戸港での港湾荷役業で得た莫大な収益を元として、山口組は50年代から全国侵攻作戦を展開。命知らずの配下組員らが死闘を重ねた結果、全国各地に菱の代紋が掲げられるようになったのである。

 田岡三代目の比類のないカリスマ性と、若き日に爆発させた暴力性が、いまだ隆盛を誇っている山口組の礎となっている。

車両特攻、銃殺、放火…現在も収まらない“山口組”同士の「抗争」はなぜ起きてしまったのか へ続く

(別冊宝島編集部)

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