「西から太陽が昇った」太平洋に降った死の灰 歯ぐきの出血に脱毛…日本人が核の恐怖を最も感じた日

文春オンライン / 2021年2月28日 17時0分

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第五福竜丸の航海と被災位置(「写真でたどる第五福竜丸」より)

 全ての核兵器を違法とする核兵器禁止条約が今年1月に発効。核廃絶に一歩踏み出したとされる一方、アメリカの「核の傘」の下にあることを理由に、日本政府が署名を拒否していることに被爆者らからは強い批判が出ている。

 広島、長崎と2度被爆した日本だが、それから76年、どれだけの日本人が核兵器の恐ろしさを感じているだろうか。いまから67年前の1954年の春、静岡県のカツオ・マグロ漁船が南太平洋ビキニ環礁でのアメリカの水爆実験に伴う“死の灰”を浴び、被爆した乗組員の1人が死亡。放射能に汚染された“原爆マグロ”や“原爆雨”などによる健康被害に多くの国民がパニックに陥った。当時は広島、長崎の惨害が十分には知られておらず、この事件の時期は、日本人が最も核の恐怖を身近に感じた時だったといえる。

 船名は正式には船体にも書かれている通り「第五福龍丸」で、その表記の資料や報道も多いが、当事者や団体も「第五福竜丸」と表記しているのでそれに従う。今回も差別語が登場する。

◆ ◆ ◆

「航海は最初からおかしかった」

 1954(昭和29)年1月22日午前11時、「第五福竜丸」は母港の静岡県・焼津港を出港した。140トンの木造漁船。1947年に神奈川県・三崎港所属の漁船として和歌山県で建造され、別の船名で操業していたが1953年、譲渡されて第五福竜丸に。“改名”後、5回目の航海だった。

 出航直前、ベテランの甲板長ら5人が船を去り、乗組員が入れ替わった。船に乗り込んだのは23人。久保山愛吉・無線長(39)を最年長に30代が3人。ほかは、10代3人を除いて、船長も、操業の全責任を持つ漁労長(船頭と呼ばれていた)も20代で、平均年齢25歳の若いメンバーだった。

「考えてみると、この航海は最初からおかしかった。首をかしげたくなるようなことばかり起こった」。出航の翌日に20歳を迎えた「冷凍士」で現在も健在の大石又七さんは著書「死の灰を背負って」にこう書いている。

 同書によれば、出航直後にエンジンの予備部品を忘れたのに気づき、近くの港に入って取りに行ったが、出発するとき、船が浅瀬に乗り上げた。沖に出た時に強い低気圧によるしけに遭い転覆寸前に。

 なんとか乗り切った後、船頭の見崎吉男さんが、今回の漁場は「東沖へ行く」と乗組員に告げた。前回の航海で隣の漁船が東沖で収穫したメバチマグロには高値がついていたからだった。

 第五福竜丸は針路を変えミッドウエー方面へ。2月7日に漁場に到着。延縄を下したが「期待したメバチマグロはまるでだめ。全然かかってこない」。そのうち縄が切れ、延縄の半分以上が流された。予備の古縄を加えて操業再開。「漁場はマーシャル諸島方面へと、操業しながらだんだんに南下していった」。

 それでも不漁の連続。「そして14回目の投縄。3月1日、運命の日がやってきた。燃料や食料も限界に近づき、この日が本航海の操業最後の日に決められていた」(同書)。

静けさの中の閃光「西から太陽が昇った」

 記述は水爆実験の瞬間に入っていく。

〈 夜明け前の静かな洋上に、稲妻のような大きな閃光がサアーッと流れるように走った。午前1時から始まった投縄作業がついいましがた終わり、一区切りついた体を船室の戸口に近いカイコ棚のベッドに横たえて、開けっ放しになっている暗い外をぼんやり眺めていた。午前3時30分、船はエンジンを止め、かすかな風に流れを任せている。さっきまでの目の回るような忙しい作業と騒音がうそのような静けさだ。閃光はその時である。光は、空も海も船も真っ黄色に包んでしまった。はじかれたように立ち上がり、外へ飛び出した。きょろきょろと見回したが、どこがどうなっているのか見当がつかない。左の空から右の空まで全部黄色に染まって、まるでこの世のものとは思えない。〉

 その時のことを、広田重道「第五福竜丸」は「突然誰かが叫んだ。『太陽が上がったゾ!』。恐怖に震える声だった」「『西から太陽が昇った』。これがみんなの実感だった」と記している。「死の灰を背負って」によれば、デッキには見崎漁労長や船長らがいて左舷をじっと見ていた。

〈 一段と鮮明な黄白色が大きな傘状になって、水平線の彼方で不気味な光を放っている。「あそこだ」「なんだ、あれは」。声にならない。心の中で叫んだ。今にも、どでかい太陽が昇ってきそうな感じだ。

 光は微妙に色を変えた。黄白色から黄色、オレンジがかって、かすかな紫色が加わり、そして赤く変わっていった。それも、少しずつ少しずつゆっくりと。誰もが無言で息をころし、立ちすくんだまま、目はその光景に吸い付けられるように、じっと成り行きを見守っていた。1954(昭和29)年3月1日午前4時12分。南太平洋マーシャル諸島のビキニ環礁北東約90マイル(約170キロ)、北緯11度63分、東経166度58分。〉

 乗組員は慌てて延縄を引き揚げ、朝食をとった。「そのときだった。『ドドドドド!』。足元から突き上げてくる轟音は、海ごと船を揺さぶった」。縄を揚げる作業に戻ると、久保山無線長(「局長」と呼ばれていた)の大きな声がした。

〈「おうい、みんな聞いてくれ。いまあったことは焼津にゃ知らせない。だから、もし船でも飛行機でも見えたら、すぐに教えてくれよ」。下のデッキで働いている俺たちに向かってそう言った。俺にはその意味がとっさに分からなかった。無線を打つか打つまいか、局長は迷っていたようだ。もし見えたら、その時点ですぐに打とうということらしい。局長は考えていた。無線を使ったために自分たちのいまいる場所を察知されたら捕まるかもしれない。最悪の場合は消されてしまう恐れもある。“実験区域内でスパイ行為をしていた”などと報告されたらそれまでだ。遠い海での出来事、沈んでしまえば、証拠も何もみんななくなってしまう。戦後9年といっても、あの太平洋戦争の記憶は誰の胸にもまだ残っていた。こちらも「鬼畜米英」の教育を徹底的にたたき込まれていたから、全て相手を悪い方に考え、信用するわけにはいかない。とにかく見つからないうちに、ということだった(「死の灰を背負って」)。〉

 久保山無線長は「中央公論」1954年11月号掲載の「絶筆 死の床にて」という手記で、2月27日に「虫が知らせたのか、私は見崎漁労長、筒井船長に『終戦後も原爆実験はやっているのだから、禁止区域には接近しない方がいいだろう』と注意した」と書いている。彼は戦争中、海軍に徴用されていたという。戦争中の感覚が体に染みついていたのだろう。

閃光から2時間、雨の中には白い粉のようなものが混じっていた

〈 2、30分はたっただろうか。あたりはすっかり明るくなり、黒い大きな雲はなぜか俺たちの方へ向かって、どんどんと覆いかぶさるように不気味に広がってきた。晴れていた空はその雲で覆い尽くされてしまった。低気圧でも通過するかのように風も加わって、雨もぱらぱらし始めた。うねりの出ないのがせめてもの救いだ。閃光が見えてから2時間ぐらい、ふと気がつくと、雨の中に白い粉のようなものが混じっている。「なんだ、これは」。思っているうちに、粉はだんだん量が多くなった。やがて雨はやみ、その白い粉だけになった。粉雪が降ってくるという感じだ。

 みんなゴム長靴にゴムのズボン、上半身は白いシャツ1枚、船も人も風上に向かっての作業なので、粉は目や耳、鼻などに容赦なく入り、まとわりつく。雪と違って、手で払っても、へばりついたようになかなか落ちない。目に入るとチクチク痛くて、目を開けていられない。くちびるの周りについた粉を口に含んでかんでみると、ジャリジャリして固い。「なんだろう。なんだと思う」。周りの者と小声で話し合ったが、納得のいく答えは誰からも返ってこない(「死の灰を背負って」)。〉

 漁は最後まで不漁で、乗組員は「デッキにたまった白い灰も海水で洗い流し、自分たちも裸になって、髪の毛や耳などについた灰を洗い落としてほっと一息」。船は焼津港に向かって北へ。しかし……。

「灰をかぶった時点では誰も口には出さなかったが、作業中にめまいがしたり、縄を揚げ終わるころには頭痛や吐き気、夜になると下痢をする者も何人かいた」(同書)。

降り注いだ白い灰…続いた乗組員の体の異常

 久保山無線長は危険を感じていたのか、甲板員に「水で体を洗え」と何度も言った。甲板員の1人が、戻って見てもらうため、白い灰を拾ってひとつかみ袋に入れていた。乗組員の体の異常は続いた。

〈 灰をかぶって3日目ごろから、顔の皮膚が異様に黒ずんできた。いつもの日焼けの黒さとは違う黒色で、歯ぐきからの出血もある。首の回りや手首、足首、腹のベルトを締めていたところ、作業中に灰がたまったところには、やけどと同じような2、3ミリの水泡が固まってできてきた。顔や耳は左側がひどい。作業中、左側に白い灰がずっと当たっていたせいだろう。見た目ほど痛くないのが不思議だ。水泡が崩れてそこに潮水が当たると、これはしみて痛かった。

 焼津までの帰航には2週間かかった。1週間を過ぎたころ、甲板長の川島(正義)さんが髪にくしを入れていて、ふと毛が抜けてくるのに気がついた。「ええっ」とてんでに自分の髪の毛を引っ張ってみた。抜ける。ほとんどの者が大なり小なり、引っ張ると抜ける。鉢巻きをして作業していた者がやはり一番ひどい。指で持っただけ抜けてしまう(「死の灰を背負って」)。〉

「みんな異様な黒い顔に目玉をきょろきょろさせ、手足にできた傷も気になっていたが、次の出港までにはなんとか治るだろう。そんなふうに軽く思っていた」。3月14日午前5時50分、ひっそりと焼津に帰港。

 事情を聞いた船主の勧めもあって、全員が午前中、焼津協立病院で受診。当直医は翌日、傷がひどい山本忠司機関長ら2人を東大付属病院に回した。

「重大なのを気づかず、灰のついた服のまま市内を遊び歩いている」

 若い乗組員は帰港した日の夜から夜の街に出た。そして3月16日、乗組員らは読売朝刊社会面の特ダネ記事に飛び上がる。

〈邦人漁夫、ビキニ原爆実験に遭遇 23名が原子病 一名は東大で重症と診断

 3月初めからマーシャル群島で行われているアメリカ原子力委員の一連の水爆、原爆実験の、その第1日目のさる1日に、たまたま日本の漁船がそばにいて、爆発による降灰を受け、その放射能によって全員火傷したまま、大して重くもみず14日帰国。うち2名の船員が東大の精密診断を受けるために、灰を持って15日上京。清水外科の診断を受けたが、1名は生命も危ぶまれる重症として直ちに入院手当を受けることになったが、他の船員は事の重大なのを気づかず、灰のついた服のまま同夜は焼津市内を遊び歩いている。

水爆か

 この1日の爆発実験は、アメリカの公式発表によってもビキニ環礁で行われたもので、日本漁夫の申し立てとも一致しており、しかもこの日の実験では、28名の米人と236名の現地人が“ある種の放射能”によって火傷したと報告されているが、いままでの原爆実験ではこの種の事故が報告されていないことからみて、あるいは水爆かともみられ、その強力な放射能を持った“死の灰”が持ち込まれて不用意に運ばれているとすれば危険なことである。〉

「焼けたゞ(だ)れた グローブのような手」が見出しの別項記事では、記者が東大付属病院で乗組員から聞き出した当時の模様を書いている。また、被爆者研究で知られた都築正男・東大名誉教授の談話も。

「外傷などから判断すると、広島、長崎の原爆の場合と違う」「今度の場合は、直接灰をかぶって2、3日後に顔が火ぶくれになったというが、その灰は水爆か原爆かの破片が落ちてきたものだ。いわば原爆のカケラの放射能そのものにやられたわけで、かぶった直後、丁寧に洗い流せばなんでもないのだが、放置しておくと、放射能が体を突き通し、火ぶくれのようになる」。

 記事はまた「船員たちは『大したことはない』と言って警察にも届けず、記者らにも『何を騒ぐのか』というほどで、大井医師から報告を受けた県当局も適切な処置を講じていないありさまである」と記述。指摘は当然かもしれないが、やや乗組員には酷だった気がする。

「ピカドンに遭って、みんなヤケドをしているそうよ…」

「読売新聞百年史」にはスクープのいきさつが書かれている。

〈 事件をキャッチした問題の昭和29年3月15日、静岡支局焼津通信部員・安部光恭は、島田市に発生した「久子ちゃん殺し事件」(3月10日発生。被告に死刑確定判決が出たが、再審無罪となった「島田事件」のこと)を追っていた。島田市には各社とも通信部がないので、焼津通信部員が前夜から島田警察署に詰め掛けていた。その日の夕刻、安部に電話の呼び出しがあった。この事件で安部は「毎日」に犯人のモンタージュ写真を抜かれていた。電話はきっと、静岡支局長・倉持武雄からのお目玉と覚悟しながら、重い気持ちで受話器を手にした。「第五福竜丸がピカドンに遭って14日に帰って来たけれど、みんなヤケドをしているそうよ……」。せわしげに話す電話の主は、支局長ではなくて、焼津の下宿のおばさん、小林みさだった。安部は、おばさんの声を確かめるように受話器を取り直した。

「福竜」の元船主というおばさんの親類が知らせてくれたものだった。

「すぐ帰ります」。受話器を置くと安部は「広島、長崎に次いで日本人の3度目の被爆だ。これはでかいぞ」と思うと、早鐘のように高鳴る胸の鼓動を感じた。

 安部は直ちに自動車で焼津へ戻った。途中で「福竜」の所属会社・富士水産を訪ねて、顔見知りの渡辺総務部長から航海日誌を借り出すのに成功した。

 被災の模様を聞くために船長・筒井勲(正しくは久吉)、無線長・久保山愛吉、漁労長・見崎進(正しくは吉男)ら3人の家を訪ねた。3人は「病院で診断を受けたが、みんな健康体を言われた」と答えるほかは口をつぐんで多くを語ろうとしなかった。

 安部は次に乗組員が健康診断を受けた焼津協立病院を訪ねた。既に医師は帰宅した後だった、が、東京の病院へ2人の患者を送ったことを突き止めた。支局へ第一報を送ったのは午後7時46分だった。〉

 その読売には背景があった。「読売新聞八十年史」は「ビキニ水爆被災の大スクープ」の見出しでこう書いている。「この大スクープを勝ち得た背景には、この年の元日から社会面に連載した『ついに太陽をとらえた』があったことを忘れてはならない」。

 この年に読売社主に復帰する正力松太郎は原子力平和利用に強い関心を持っており、事件の翌年、衆議院議員になり、のち初代原子力委員長、初代科学技術庁長官を務める。「ついに太陽をとらえた」は「特に、1954年こそ、世界的な『原子力の年』と考えた本社は、この難解にして食いつきにくいものと思われている『原子物理学』をいかに平明に、かつ興味深く読者に理解させるかが新聞の使命として大きな役割であると考えた。本社が周到な準備のもとに約1カ月にわたって連載した啓発的解説」(同書)記事だった。

〈 3月15日夜の東京本社は「原爆にやられた原稿が入った」の静岡支局からの第一報を知らせる速記者の声にざわめいた。9版の締め切りが過ぎていたが、青森県野辺地駅での米軍ジェット機墜落事故をトップに扱うため、整理部は現地からの電送写真を待っていた。そこへビキニ被災の第一報であった。とりあえず3段見出しで9版の一部を差し替えた。やがて第一報のコピーが地方部から社会部へ回ってきた。その夜の社会部デスクは幸運にも「ついに太陽……」の連載を担当した次長・辻本芳雄で、そのグループの一員だった村尾清一が夜勤で居合わせた(「読売新聞百年史」)。〉

聞きつけた「妙な患者」のうわさ

 同書によれば、村尾記者は同僚記者とカメラマンを伴って東大付属病院へ駆けつけた。「その時は、上京したという被災者の名前も入院先も分かっていなかった。東大付属病院に目星をつけたのも“太陽グループ”の第六感からだった」。

 病院内を回ったが、何もてがかりがなかった。引き揚げようとしたときに、同僚記者が清水外科に妙な患者がいると小耳にはさんだ。看護婦をくどいて名簿を見せてもらうと「焼津、増田三次郎、山本忠司」という名前があった。

 当直医師に頼んで面会を求めたが、許可してくれそうにない。その間に「村尾は清水外科の病室をのぞいて歩いた。1階から2階へ。『増田さん、山本さん』と連呼しながら3階へたどり着いたとき、一室から『ハイ』の応答があった。それが増田三次郎だった」(同書)。

 佐野眞一「巨怪伝」も「この時代、どこの新聞社も放射能についての知識をほとんど持ち合わせていなかった。それが読売に限って、焼津通信部員からの一報だけでピンときたのは、この年の元旦から『ついに太陽をとらえた』という原子力開発の解説記事を連載していたためだった」と書いている。

米ソ核開発競争が進んだ1950年代

 読売の特ダネは、アメリカの核実験が周知の事実だったように書いているが、多くの日本国民にとってはそうではなかっただろう。同紙の3月2日付夕刊は1面2段で【ワシントン特電1日発】で次のような2本の記事を載せている。

〈【AFP】アメリカ原子力委員会のストローズ委員長は、第7合同機動部隊がマーシャル群島にある原子力委員会の太平洋実験場で原子力装置を爆発させたと1日発表した。この爆発は一連の実験の最初のものである。

【INS】米政府当局はある種の“原子装置”の実験がマーシャル群島で行われたと1日、簡単な発表を行ったが、その直後、超強力の水爆“地獄爆弾”が爆発されたのだという推測が行われている。原子力委員会及び海空両軍当局は、厳しい口止めをされていると語ったが、完成された水爆が実験されたとみてよいようである。〉

“地獄爆弾”とはすさまじいが、16日の特ダネがこの記事を参照していたことは間違いない。「水爆か」という見出しにも根拠があったわけだ。

 この実験は当時のアメリカとソ連(現ロシア)の核開発競争をもろに反映していた。広島と長崎に原爆を落としたアメリカは、第2次世界大戦後も原爆研究と実験を続行。東西冷戦のさなか、対抗したソ連は1949年9月に原爆を所有した。

 そこでアメリカはさらに威力の強い水爆の開発を開始。1952年11月、初の水爆実験を実施した。しかし、ソ連も1953年8月に水爆実験に成功。「“イタチごっこ”が始まった」(庄野直美編著「ヒロシマは昔話か」)。両国ともまだ実用段階ではなく、本格的な実用実験として計画されたのが、ビキニ環礁での「ブラボー」と呼ばれた一連の水爆実験だった。

「乗組員はスパイとも思える」「損害が誇張されている」終戦9年目、日本人水爆実験被害者にアメリカから向けられた言葉 へ続く

(小池 新)

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