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「何年たっても大好きだよ」森友改ざん事件・赤木俊夫さんの妻が空に放ったメッセージ

文春オンライン / 2021年3月30日 6時0分

写真

誕生ケーキを前にした元気な頃の俊夫さん(赤木雅子さん提供)

 3月は赤木雅子さんにとって特別な月だ。なぜなら自身と、夫の赤木俊夫さんの誕生月だから。雅子さんが22日、俊夫さんが28日。日にちが近いからいつも一緒にお誕生会を開いた。仲良しの甥っ子たちが岡山の実家でバースデーケーキを贈ってくれたこともある。「としおじちゃん まあちゃん おたんじょうび おめでとう」と書いたプレートをのせて。写真の俊夫さんは満面に笑みを浮かべている。いつもよく笑う人だったという。

 それを一変させたのが財務省の森友公文書改ざん事件だ。俊夫さんは勤め先の近畿財務局で改ざんという不正行為をさせられた。それを苦にうつ病になり、組織に見放されたと感じて自宅で命を絶った。それが2018年の3月7日だ。

「幸せな月」が一転して「悲しみの月」に

 死の間際、俊夫さんは改ざんを告発する「手記」を残した。そこには「抵抗したとはいえ関わった者としての責任をどう取るか、ずっと考えてきました」という言葉とともに「55才の春を迎えることができない儚さと怖さ」という一文がある。あと3週間で誕生日だった。

 こうして「幸せな月」が一転して「悲しみの月」になってしまったが、それから3年。赤木雅子さんは自らの力で再び大切な月を取り戻した。それはどのように成し遂げられたのか? 節目となったのは1年前の俊夫さんの手記全文公開と国などの提訴。そして今年の3・11、東日本大震災10年に思い立った被災地訪問だ。赤木雅子さんの3月物語。まずは本人に語ってもらおう。

◆ ◆ ◆

あの時、私は色を失ってモノクロの世界にいた

 とっちゃん(夫の俊夫さん)が亡くなった3年前の3月7日、私は不思議なほど泣かなかった。でも翌日、葬儀場で寝かされている姿を見たら涙があふれ出た。「助けられなくてごめんよ」そして「何で死んだの」という思いがわき上がり、一晩中とっちゃんの横で号泣した。葬儀が終わり実家に帰っても狂ったように泣き続けて、あの頃、琵琶湖の半分くらい涙を流したと思う。

 その月の28日、岡山の実家でとっちゃんのためにバースデーケーキを買ってくれて、みんなでお誕生会をした。甥っ子たちの前では泣かないようにしたけど、それまでで一番寂しい誕生日だった。あの頃、満開になった公園の桜が真っ白に見えた。えっ、とびっくりして周りを見たら、公園ではしゃいでいる子どもたちもみんな真っ白。あの時、私は色を失ってモノクロの世界にいた。

 でも去年、私はとっちゃんの手記を思い切って公開した。同時に事件の真相を知るため裁判を起こした。国と佐川さん(改ざんを指示したとされる佐川宣寿元財務省理財局長)を相手に。これを3月にしたのは、私ととっちゃんの誕生日がある大切な月だから。

3・11直後、震災応援のときのとっちゃんの記録が残っていた

 あれから1年、また3月が巡ってきた。7日の命日、18日は手記公開と提訴から1年。その間に3・11の日がある。多くの方が犠牲になった東日本大震災から10年。同じように大切な人を失った一人として祈りを捧げに行こうかな。そう考えていてふと思い出した。

「とっちゃん、震災直後に被災地に出向いたはずだ。財務局で派遣職員の募集があって、真っ先に手を上げたと話していた」

 社会貢献が口癖だったとっちゃんらしい行動だ。10年前のとっちゃんのメモ帳を開くと、……あった。2011年4月のページ。

「4/25~29 七ヶ浜町役場へ支援(5日間)」

 震災から1か月半ほどの時期に宮城県七ヶ浜町に支援に行っている。町役場で調べてもらったところ、この時のとっちゃんの記録が残っていることがわかった。業務中の写真もあるって。よし、行くしかない!

◆ ◆ ◆

遠く離れた被災地の写真で出会ったとっちゃん

 3月9日、正午。JR仙台駅に僕らは集合した。僕らというのは、赤木雅子さん(50)と映像ドキュメンタリー作家の久保田徹くん(25)、それに執筆者の相澤冬樹(58)の3人。久保田くんは雅子さんのドキュメント映像を撮り続けている。今回の旅もすべて同行してカメラに収め、10分余りの作品にまとめた。

(動画のリンクは記事の末尾に)

 若いけど考えがしっかりして頼りがいがある。どんな大人より発言が大人びている。赤木さんは迷った時、久保田くんの助言を最も信頼している。息子がいたら彼くらいの年になっているのかな、とちょっと切なく感じるそうだ。

 レンタカーで1時間弱。七ヶ浜町役場に着くと、秘書係長の植杉淳一さんと総務課長の高橋勉さんが出迎えてくれた。植杉さんは事前に赤木俊夫さんのことをいろいろ調べてくださった。コロナ対策でアクリル板の仕切りが置かれた応接室で、町長の寺澤薫さんが応対してくれた。実は寺澤町長は10年前の震災当時、役場の地域福祉課長で、俊夫さんたち支援に訪れる人たちの受け入れにあたったそうだ。全体写真に俊夫さんが寺澤町長と一緒に写っている。

「こちらをご覧下さい」

 町長が差し出してくれたのは、罹災証明の受け付け会場の写真。そこにとっちゃん(俊夫さん)がいた。真剣な表情で被災した方の話に耳を傾けている。雅子さんがよく知る、いつも笑顔のとっちゃんとは違う。雅子さんの知らない、被災地で公務中のとっちゃん。初めて見る姿に目が釘付けになった。命を絶って3年、遠く離れた東日本大震災の被災地の写真で出会うなんて。心がざわついた。

寺澤町長が語った俊夫さんの仕事ぶり

 雅子さんは町長に尋ねた。

「夫のこんな仕事中の姿って、見たことなかったんです。それにこの腕章。近畿財務局って書いてありますよね」

 寺澤町長は深くうなずきながら答えた。

「財務局の対応は早かったんです。被災者の方はどうしても気が立っていますから荒々しい言葉になることもあって、応対は大変だったと思いますけど、冷静に正確に手早く必要なことを聞き出して書類を作っていました。震災直後で一番大変な時に支援にあたってくださった。食事もろくにとれなかったと思うし、皆さんがどこに宿をとっていたのかも知らないんです。あの状況でお礼のようなことは何もできませんでしたが、今でも本当に感謝しています」

 ここで雅子さんは、いつ言おうかと思っていた話を切り出した。

「夫のこと、近畿財務局で起きたことはご存じでしょうか?」

 寺澤町長はその言葉を引き取るように答えた。

「はい、承知しております」

 皆まで言わなくても大丈夫ですよ、という配慮を感じて、雅子さんは心の底からほっとした。実はとても不安だったのだ。これまで俊夫さんが亡くなった後も裁判でも財務省や近畿財務局からけんもほろろの対応を受けてきた。七ヶ浜町役場でも、関わりたくないという冷たい対応をされるのではないかと気にしていた。でも実際には役場の人たちは温かく迎えてくれた。とっちゃんと近畿財務局の対応に感謝してくれている。それが何よりありがたかった。

裁判でも被災地のような緻密で素早い対応を見せてくれたらいいのに

 でも、同時に思う。近畿財務局は被災地で緻密で素早い対応を見せて感謝されたのだから、裁判でも緻密で素早い対応を見せてくれたらいいのに。焦点となっている、とっちゃんが改ざんの全容をまとめた「赤木ファイル」なんて、公開しようと思えばすぐにできるはず。

 それにあのとっちゃんの腕章。服の胸にも近畿財務局って書いてある。財務局の職員だということを誇りに思っていたんだろうな。それが後に改ざんをさせられて死ぬことになるなんて、ほんとに悲しすぎる。七ヶ浜町役場の人に本当によくしてもらっただけに、近畿財務局の対応が残念すぎる。

 役場を去る時、寺澤町長と高橋総務課長、植杉秘書係長の3人がそろって玄関の外に出て、レンタカーの姿が見えなくなるまで見送っていた。最後まで礼を尽くしてくださった。

「忘れられないためにはマスコミも利用するつもりでね」

 翌10日、もう一人メンバーが加わった。今野誠二郎くん(24)。久保田くんの相棒で、ここからカメラ2台で撮る。年齢差倍以上の4人の珍道中。まず向かったのは津波で大きな被害を受けた宮城県名取市の閖上(ゆりあげ)地区。ここで語り部の丹野祐子さん(52)にお会いした。これにもいきさつがある。

 夫を亡くして落ち込んでいる雅子さんを、友達が水害の被災地でのボランティア活動に誘ってくれた。誰かの役に立っていると感じられて生きがいになり、たびたび参加するようになった。そのリーダーが「ちょんまげ隊長」。サッカー日本代表の試合でいつもちょんまげ姿で応援しているから、その名がついた。ボランティア活動でもいつもちょんまげ姿。ちょんまげ隊長は東日本大震災でも早くから被災地で活動し、その中で丹野さんと親しくなった。そこで雅子さんが被災地へ行くならぜひと、自分も閖上を訪れて紹介した。

 丹野さんは津波で中学1年生だった息子の公太くんを亡くした。公太くんのこと、津波のことを忘れないでほしいと、語り部としての活動を続けている。雅子さんは尋ねた。

「息子さんのことを語り続けるのって、悲しいことを思い出してつらくありませんか?」

 丹野さんは明るく答えた。

「つらいこともありますけどね。一番つらいのは忘れられてしまうことなんですよ。忘れられないためには語り続けるしかないし、マスコミの皆さんに報道してもらうしかない。マスコミには不満もあるんですよ。震災10年だなんて、勝手に区切りをつけて、その時だけ報じようとしてね。10年なんて私たちにとっては何の区切りでもないし、報道するならずっと報道してほしいんです。そう言ってきたのに、相変わらず震災10年で私の記事を出す記者さんはいるしね。でも気にしちゃダメ。忘れられないためにはマスコミも利用するつもりでね」

鳩ふうせんに書いたラブレター

 丹野さんは毎年3月11日、閖上の海岸近くで鳩の形をした風船を飛ばす。天国にいる亡き息子公太くんにメッセージを届けるため。環境への影響が少ない素材で作ったふうせんを希望者みんなで飛ばす。丹野さんに「ラブレターを書いて」と勧められて、その場でサッと書き込んだ。

『赤木俊夫様 としくんへ 元気にしてますか? 閖上の皆さんと仲良く鳩ふうせんを読んでください 何年たっても大好きだよ』

 ほんとにラブレターですね、とからかうと、雅子さんは赤マジックで♥(ハート)マークをいっぱい書いて、どんなもんだと胸を張った。

「地震が起きた時間は閖上に」雅子さんの考えを変えた木村さんの話

 その夜は宮城県石巻市の牡鹿半島にある「割烹民宿めぐろ」に泊まった。ここもちょんまげ隊長の案内だ。隊長は語る。

「震災ではここも被害が大きかったし、今はコロナの影響でお客さんが落ち込んでいるんですよ。先日の地震でまたガラスが割れたり被害を受けましたからね。ぜひ宿泊して応援してあげたいと」

 その「めぐろ」にちょんまげ隊長はある人を招いていた。木村美輝さん(51)。地元で漁師として暮らしてきたが、震災の津波で自宅も船も、そして何より大切な妻と高校生だった息子を亡くした。木村さんは津波で流された街中で家族を探し歩き、やっとマイカーを見つけたという。その時のこと。

「車の中に息子がいてね。でも、運んでいく手段がないんですよ。泥だらけになっているけど、顔を洗ってやる水もないから、近くにあった一升瓶の酒で洗ってやりました。口を開けたら中に泥がびっしり詰まっていて、それを指でかき出してやりました」

 顔色を変えずに淡々と話すその様子に、雅子さんは逆に迫力を感じたという。

「息子さんの口の中から泥をかき出すって、壮絶なことですよね。どんな思いをしてきたんでしょうね」

 話を聞いて深く感じるところがあったようだ。翌日は震災10年となる3月11日。当初はもう閖上に戻るつもりはなかった。だが一晩熟考して雅子さんは考えを変えた。

「やはり地震が起きた時間は閖上にいたいです。丹野さんにもう一度お会いしたいし、鳩ふうせんも自分であげたい」

鳩ふうせんに書き加えたメッセージ

 そこで急きょ予定を変更。僕ら4人はレンタカーを南へ、閖上へと走らせた。思いがけぬ再びの来訪に丹野さんも喜んでくれた。すでに報道各社もカメラを並べてその時を待ち受けている。丹野さんはいたずらっぽく笑いながら雅子さんに告げた。

「マスコミがこんなにたくさん来てるけど、気にしないで」

 そう、報じてもらうことも忘れられないために必要なのだ。3月11日午後2時46分、巨大地震発生の時刻。時報とともに集まった人たちが黙祷を捧げた。そして亡くした人への思いを込めた鳩ふうせんをみんなが一斉に空に放った。

 雅子さんは閖上に戻ってきた後、鳩ふうせんの反対側にメッセージを書き加えた。

『としくんへ「これからも一緒に生きていこう」雅子』

 文字に書くときはとしくん。話すときはとっちゃん。とっちゃんへのメッセージを託した鳩ふうせんが閖上の空に消えていった。じっと見つめている雅子さんの目が潤んできて、ハンカチを取り出し目に当てた。そこをすかさずスマホで撮ろうとしたが、あわてておろされてしまった。でも久保田くんと誠二郎くんが全部カメラで撮っている。

 最後は赤木雅子さん自身の言葉で締めくくりたい。

◆ ◆ ◆

とっちゃんへのバースデープレゼント

 今年もとっちゃんの誕生日、3月28日がめぐってきた。神戸はあいにくの雨だ。雨は何だか気持ちがさえない。でも大丈夫。3年前とは違う。桜はちゃんとピンクに見える。私の世界には色が戻った。

 それにけさ、表のチューリップが咲いているのに気づいた。とっちゃんが大好きで毎年植えていた。育てていたバラも芽吹いている。とっちゃんへのバースデープレゼントに違いない。

 雨だからバースデーケーキを買いに行くのはやめてしまった。でも岡山の実家から母親がケーキの写真を送ってきた。「とっちゃんのケーキだよ」というメッセージを添えて。

 それに最大のプレゼントがある。ドキュメンタリー映像作家の久保田徹くんが作ってくれた私の動画。東北の被災地での話を中心に10分余り。Yahoo!クリエイターズプログラムのドキュメンタリー部門にアップされている。

「夫のために、真実を知りたい。私にできることは裁判」―「森友学園問題」で夫を亡くした赤木雅子さんの今
https://creators.yahoo.co.jp/kubotatoru/0200097723

 この動画の最後で私はこう話している。

「大丈夫。私にできることは裁判」

「私は強いので、とっちゃんのためにこうやって闘うことができる。夫のことを証明してあげるためにも」

忘れられないように声をあげていく

 改ざんについて告発するとっちゃんの手記を週刊文春で全文公開し、国と佐川さんを訴えてから1年。私は強くなった。

 それまでの2年間は財務省の人たちから重しをのせられているようで、好きなように行動することも意見を言うこともできなかった。でも手記を公開して隠す必要がなくなったから怖いものがなくなった。財務省の人たちは相変わらず、とっちゃんの残した改ざんの記録「赤木ファイル」をあるともないとも言わない。早く本当のことを言ってしまえばいいのに。それが楽になる道だと、私は気づいた。

 閖上の丹野さんが語った「一番つらいのは忘れられてしまうこと」という言葉は本当によくわかる。私も大切な人を亡くした者として、忘れられないように声をあげていく。

 私は一人じゃないとふと思う瞬間は、本当は一人なんだと思い知らされる瞬間でもある。でも、もう後戻りはしないんだ。とっちゃんはきっと「おもろいことやってるなあ」と笑って見守ってくれているよね。

(相澤 冬樹)

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