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「肉味噌のようにすり潰された死体が路上に」六四天安門事件”最大の激戦地”から生還した男の回想

文春オンライン / 2021年5月10日 11時0分

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写真はイメージです ©iStock.com

 いまや世界をリードするIT先進国へと成長したいっぽう、習近平政権下で厳しい情報統制と強力な監視社会化が進行中の中国。なかでも現体制の大きなタブーであり続けているのが、「党の軍隊」である人民解放軍が、1989年6月4日未明に市民や学生の民主化運動を武力鎮圧して大量の死傷者を出した六四天安門事件だ。30年以上を経たことで、当時を体験した人たちの多くは口を閉ざし、事件は風化が進む。

 ここでは、第50回大宅壮一ノンフィクション賞、第5回城山三郎賞をダブル受賞した安田峰俊氏の傑作ルポに、新章を追加した『 八九六四 完全版 「天安門事件」から香港デモへ 』(角川新書)を引用。1989年の天安門広場に足しげく通っては、デモに参加する学生に差し入れを送り、応援を続けていた張宝成氏が体験した事件当夜の惨劇の実態を紹介する。(全2回の1回目/ 後編 を読む)

◆◆◆

追悼活動がやがてデモに

 毛沢東が死に、高校と専門学校を卒業した張宝成は小さな家具会社を開いた。

 六四天安門事件が起きたのは会社を作って3年後、29歳のころである。中国ではそれ以前の1986~87年にも学生運動があり、知識人を中心に政治や経済の改革を要求する気運が出ていた。

「四五とは違って(注:文化大革命末期の1976年4月に起きた第一次天安門事件)、デモをやったのは学生だった。俺はもう社会人だったから、水や果物を差し入れして応援する立場だったよ。当時の市民にはそういうやつが多くいた」

 1989年4月15日、改革派の指導者だった胡耀邦が死去した。翌日から学生の追悼活動がはじまり、やがて大規模なデモになった。張は4月下旬までに、毎日現場に行って声援を送るようになった。

「リーダーの王丹やウアルカイシもこの目で見たよ。二言三言だが、言葉を交わしたこともある。感想かい? あの当時の大学生は知識人のタマゴだってんで、言うなりゃ将来の博士様か大臣様よ。俺たち庶民にとっちゃ尊敬の対象だった。熱い心を持った凄え若者が大勢いる、こいつらはホンモノの英雄なんだ――。って思いしかなかったな」

 デモは自然発生的に広がった。当初、共産党当局はこの運動にいかなる態度を示すべきかを決めかねており、党総書記の趙紫陽や全人代常務委員長の万里など、デモに同情的な心情を持つ改革派の幹部も多かった。だが、保守派の総理・李鵬を中心とした反発の声もやはり大きく、やがて最高指導者である鄧小平の意向も彼らの側に傾いた。

 時間とともにデモが全国に飛び火するなか、李鵬ら保守派は4月26日に党機関紙『人民日報』紙上に、学生運動を完全に否定する内容の社説「旗幟鮮明に動乱に反対せよ」を掲載させる。政治動乱に慣れた北京市民のなかには、潮目の変化を感じ取って慎重になった人もいたようだが、張の熱は冷めなかった。

「学生と一緒にスローガンを叫んだし、旗を持って応援した。旗に何が書かれていたかは忘れちまったが、スローガンはまだ覚えてるぜ。『李鵬李鵬、混昏無能。再当総理、天理難容』ってな」

 これは「応援する立場」ではなく、ほぼ参加者だと言うべきだろう。

天安門は熱気にだけは満ちていた

 天安門広場の周囲は、デモ隊に水やパンを持ち寄る群衆と野次馬で埋め尽くされた。

「反官倒」(官僚のブローカー行為反対)を主張する手書きのプラカードや旗が溢れ、報道規制への抗議を示す意味から新聞紙で作った服を着ている大学教員も出現した。労働者も共産党員も、果ては個人的にやってきた軍人や警官までもデモに参加していた。

 当初、現場のスローガンは、李鵬の退陣や腐敗撲滅を訴える比較的単純なものが多く、あくまでも党体制の枠組みのなかで異議を唱えるものだったという。5月半ばまでは「社会が根本的に変わったり、党が倒れたりする雰囲気は感じられなかった」とのことで、後年の私たちのイメージとはやや異なった空気感だったようだ。

「もっとも、官倒への抗議、腐敗撲滅なんて言っても、実際のところ今に比べりゃあ当時の腐敗なんてかわいいもんだったと思うぜ。デモ学生も市民も、本気で『腐敗』の被害を感じていたやつはほとんどいなかった。俺自身もそうだったさ」

 大部分の人間が、自分の実感がない社会問題の解決を訴えていたのに、熱気だけは満ちているという不思議なデモだった。

 かいつまんで説明するなら、刺激や娯楽の少ない社会で体制の圧迫感から解放される非日常感と、「もう少しましな世の中にしてほしい」といった程度の現状改善欲求、それらに異議を唱えた李鵬たち保守派への反発が、人々が行動する動機になっていたのである。

学生組織は分裂、統制が取れなくなり…

 だが、5月後半になると風向きが変わってきた。

 民主主義や自由を求める、濃厚な政治性を持つスローガンが増えはじめたのだ。後世の記録では、学生組織が分裂して主張の一貫性がなくなり、地方から上京した学生が広場に多数流入して「統制が取れなくなった」と評された時期である。一方で当局は北京市内に戒厳令を敷き、緊張感が高まった。

「国外の報道を多く聞くようになって、ひょっとして党体制がぶっ倒れるんじゃねえかと思いはじめた。だが、一方でデモ側の主張は混乱していたし、新しい参加学生たちには、マナーが少しばかりいただけねえ連中も増えてきた。市民はなにも明確な考えを持っちゃいなかった。『こりゃあ成功するわけねえよ』とも思っていたね。気持ちは複雑だった」

 当時の妻(後に離婚)には「こういう運動に参加すれば後で必ず捕まるから行かないで」と止められた。長女が3歳になったばかりで、そのことも張宝成の気力を削いだ。

 だが、それでも今後の展開が気になり、彼は天安門広場に通い続けた。

 1989年6月3日――。

 後に現代中国史上の汚点となる武力鎮圧の夜は、彼らのそんな日常の先にやってきた。

武力行使を容認した党の無血退去作戦

 張宝成はこの日の午後も天安門広場にいた。もっとも学生が固まる中心部ではなく、周辺の野次馬のなかに混じっていたという。

 党内部の流出資料を含むとされる『天安門文書』(文藝春秋、2001年)によれば、ちょうどこのとき、鄧小平を除く中国共産党の最高幹部たちは緊急会議を招集していた。午後4時から始まった会議では、李鵬らによってここ数日間に戒厳部隊と市民や学生との小競り合いが頻発している事実が報告され、同日深夜(4日)の午前1時から朝6時までに広場の学生を平和的に立ち去らせることが決定された。同時に、戒厳部隊が移動する途中で「妨害行為」に直面した場合には「必要とするすべての」手段で対応し、広場からの無血退去作戦を必ず遂行することも全会一致で決定された。

 この夜、広場内部で虐殺が起きなかったことは、現場に最後まで残っていた台湾人歌手の侯徳健や、広場内の学生の無血撤退に尽力した文学者の劉暁波など複数の当事者が証言している(ただし2017年10月に明らかになった英国大使館の機密文書には広場内での虐殺を示す詳細な記述があり、議論は再燃している)。ともかく、六四天安門事件において最大の悲劇の舞台となったのは、郊外から天安門広場まで東西を貫いて延びる大道路・長安街の沿線をはじめとした市内の各地だった。

 先の党内緊急会議の決定は、要するに人民解放軍と武装警察が学生の無血退去作戦を実行するために、道中での武力行使を事実上容認する方針を示したものだった。

銃口を向けられた、あの夜

 午後9時過ぎから、戒厳部隊の多くは東西南北の各ルートを通って市内への進軍をはじめた。テレビは盛んに市民の外出禁止を呼びかけた。

 広場周辺にいた張宝成が、軍の動きを知ったのはその1時間後である。

「兵士が銃をぶっ放しやがった、って話が聞こえてきた。当時、俺は姉妹と一緒にいたんだが、どうやら真剣に危ねえようだから家に帰ろうって話になったんだ」

 結果的に言えば、情報が乏しいなかで彼らが下した判断は危険極まりなかった。なぜなら当時の張の自宅は、広場から長安街を12キロ西に向かった玉泉路にあり、戒厳部隊の主力「西線」の進行ルートと完全に同じ道を逆走する形になったからである。この西線部隊は北京軍区の三八軍・二七軍・六三軍からなる約2万人で、戦車や装甲車など軍用車両数百台を擁する精鋭の機械化軍団だった。

乱射を受けて路上は血の海に

 広場からしばらくは自転車で移動できたが、途中の西単では戒厳部隊の市内侵入をはばむためにバスが路上に放置され、混乱した通行人が立ち往生をして進めなくなっていた。それでも人込みをかき分けて徒歩で前進し、ついに広場から西5キロにある木樨地に至った。

 ――木樨地。

 市民や学生数千人が戒厳部隊に抗議してこの場所に集まった結果、天安門事件で最多の死傷者を出したとみられている地名である。『天安門文書』所収の国家安全部「重要情報」は、ちょうど張たちが現場にさしかかった同日午後11時ごろの現地の状況をこう報告している。

〈 建物のあいだや、車道を区分している緑地帯の低木に身を隠していた市民や学生は「ファシスト!」「人殺し!」「悪党!」などの言葉の弾幕を張り、部隊に石塊を投げつづけた。兵士たちは(注・抗議者が路上をふさぐために停めていた)数台のトロリーバスとその他の障害物を片づけると、再び銃口を群衆に向けた。石塊を身に受けて自制心を失った一部の兵士は、「ファシスト!」と叫んだり石塊やレンガ片を投げたりする者には、見境なく乱射し始めた。少なくとも100人の市民と学生が路上の血の海に倒れ、その大部分は仲間たちの手で近くの復興病院にかつぎ込まれた。

 頭上を旋回するヘリコプターの爆音と路上の射撃音。復興門外大街に住む市民は家の窓から兵士に悪態をつき、物を投げつけた。このため兵士はさらに撃ち返した。木樨地と全国総工会本部とのあいだの約500メートルの道の両側に建つビルに弾丸が当たってあちこちに跳ね返った。その夜、(注・路上以外でも)22号と24号部長級宿舎に住む3人が被弾して死亡した。〉

「打倒共産党!」の声に大量の銃弾

 諸資料によれば、当初は部隊側も発砲をためらい、退去勧告や威嚇射撃を繰り返したという。だが、やがて党中央の命令通りに天安門広場に向かうため、指揮官は武力行使を決定した。一人を殺害すると、その後の実弾掃射は雪崩式に拡大していった。

「兵士が同じ中国人をバンバン撃ち殺している光景を見て、あたりが見えなくなるほど滅茶苦茶に腹が立ったさ」

 そんな光景を張宝成も見た。さすがに声をひそめて続ける。

「だが、兵士どもに怒鳴り声を上げて、もっと前に出ていこうとしたところで妹に止められた。親を残して先に死んじゃいけねえってな。あのとき妹がいなきゃ、俺も『暴徒』の一人として軍隊に撃ち殺されていただろうよ」

 惨劇を前に張は我を忘れ、姉妹たちは泣き出した。そんな彼らにも銃口が向けられ、慌てて路上に伏せた。ついにそれまでのデモでは聞かれなかった「打倒共産党!」を叫ぶ声がどこかで上がったが、すぐさま大量の銃弾を撃ち込まれて沈黙した。

「俺は生きていたのか」

 周囲の人間がバタバタと倒れるなか、彼は水平射撃の弾幕のなかを姉妹を連れて逃げ回り、ついに近所のビルに駆け込んだ。やっと一息をつき、ビルの5階から路上の惨劇を眺めた。もっとも高層階にも銃弾は飛んでくるし、実際に階上の住民が死亡した事例も後に確認されている。見ているだけでも危険な代物だった。

 やがて戒厳部隊は路上の「暴徒」と障害物を排除すると、広場を目指して進んでいった。深夜1時を回るころには状況が落ち着き、張と姉妹は徒歩で2時間を掛けて家路をたどった。

 その夜は少し眠ったが、神経が昂ぶっているためかすぐに目が覚めた。

「俺は生きていたのか」

 やがて外に買い物に出ると、パニックを起こした市民の買い占めによって店先から商品が消えていた。近所を歩いたところ、自宅にほど近い五棵松の十字路で肉味噌のようにすり潰された人間の死体を見つけた。戦車に轢かれたようだった。

 ――これが、張宝成が経験した八九六四だった。

【続きを読む】 天安門事件の市民殺傷は周到に事前準備されていた?…「死体が腐り臭気が漂う」謎の冷蔵庫とは

天安門事件の市民殺傷は周到に事前準備されていた?…「死体が腐り臭気が漂う」謎の冷蔵庫とは へ続く

(安田 峰俊)

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