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「ダウンタウン全盛期は自分のことで一杯一杯で…」東京の全レギュラーを失って関西に戻った芸人・森脇健児の“本音”

文春オンライン / 2021年7月17日 11時0分

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関西を拠点に活動する森脇健児 ©文藝春秋

「自宅にSMAPが勢揃い」「レギュラー12本で移動はヘリ」芸人・森脇健児が明かした“バブル期バラエティ”の栄光と挫折 から続く

 いまや大阪芸人が席巻しているバラエティ界。その礎を築いた一人が、1990年代に大阪から破竹の勢いで東京に進出し、一世を風靡した芸人の森脇健児(54)だ。

 お笑い芸人のアイドル化が進む一方、ダウンタウンが台頭して、お笑い界の勢力図を一変させようとしていた当時、バラエティ番組では何が起こっていたのか。そんな時代に栄枯盛衰を体現した森脇に、関西と関東のバラエティ番組の違いから、当時の人気芸人たちとの関係まで、彼が肌で感じた芸能界について語ってもらった。(全2回の2回目/ #1を読む )

◆◆◆

タモリ、三宅裕司に激怒された過去

――森脇さんは、1990年4月にスタートした『EXテレビ』(日本テレビ系)で本格的に東京へと進出しました。三宅裕司さんとともに、金曜レギュラーを担当しましたが、当時はどんな気持ちでしたか。

森脇 30年くらい前って、関西芸人は「負けたらいかんぜ、東京に」っていう気持ちが前面に出ていた。番組に呼ばれたら「大阪の芸人が一番や」って前に前に出る感じだったんです。三宅さんのような東京のコメディアンは、そんな関西芸人を一番嫌いますよね(笑)。ただ僕の場合、師匠(漫才師の若井はやと)が、番組を始める前に「お前は打たずに、ひたすら三宅さんにトスを上げて打ってもらえ」とアドバイスしてくれて、それを守ったら本当にうまくいきました。

 実際、番組が始まってみると、東京の番組は大阪と違って台本に忠実に進行していく。当時はまだ大阪から通っていましたから、東京までの2時間40分、新幹線の移動中にセリフを頭に叩き込んで、番組に臨みました。案の定、三宅さんは台本通りきっちり読み込まれていたんです。東京では、売れてるタレントとスタッフががっぷり四つに組んでやらないとダメなんだって痛感しました。それを最初に知れたのが大きかったですね。

――当初は東京の芸人さんから怒られることも多かったようですね。

森脇 焼肉屋ではタモリさんを怒らせてしまいました。『笑っていいとも!』(フジテレビ系、1992~95年)で共演していた工藤兄弟と肉をとにかく早く焼いたんです。でも、あれは体育会系のノリやし、そんなんでタモリさんが怒る思いませんやん(笑)。“ええ肉”を次から次へと焼かれるわけやから、まぁ今、僕がやられたらブチギレますけどね。

 三宅さんやルー大柴さんがいらっしゃった『EXテレビ』の打ち上げでも怒られました。日テレ付近の居酒屋でやったんですけど、何か笑わせなあかん思って、僕が真っ裸になって登場する裸芸をやった時ですね。当時の関西芸人にはそういうノリがあったんですよ、(笑福亭)鶴瓶さんからの流れで。そしたら三宅さんにめちゃくちゃ怒られた(笑)。どちらも、東京にきて早いうちに勉強させてもらって本当に感謝しています。

「『夢MORI』は“テレビタレント”としてやろうと」

〈お笑いとジャニーズのイメージが変わった1990年代。SMAPの『夢がMORIMORI』(フジ系)を皮切りに、ジャニーズアイドルがバラエティ進出を果たした一方で、お笑いにダンスを取り入れた、ナインティナイン、雨上がり決死隊らの若手芸人ユニット「吉本印天然素材」が支持された時代でもあった〉

――1990年代初頭は、芸人のアイドル化とジャニーズのバラエティタレント化が交錯した時代でもありましたよね。

森脇 芸人のアイドル化で言うと、僕が関西で『ざまぁKANKAN!』(読売テレビ)をやってる頃、女子中高生たちのワーキャーの対象は光GENJIを中心とするジャニーズのメンバーだったんです。ただ当時、関西を拠点にしていたジャニーズはいなかった。KinKi Kidsとかが出てくる前でしたし。それで、関西では20代の芸人たちがワーキャーの対象になってたんだと思います。今もそういうワーキャーされる芸人って一部ではいるでしょうけど、あの頃のような大きなうねりはないですからね。

――『夢がMORIMORI』(フジテレビ系)が放送されたのは、ダウンタウン、ウッチャンナンチャン、清水ミチコさん、野沢直子さんが共演した『夢で逢えたら』(フジテレビ系、1988~91年)をやっていた番組枠です。伝説的な番組として知られていますが、プレッシャーはありましたか?

森脇 そら、もうお化け番組でしたからね。当然プレッシャーはありましたけど、深く考えてもしょうがないのでスタッフに身を預けました。僕自身の意識としては“芸人”というよりも、“テレビタレント”としてやろうと。森口(博子)さんとSMAPとやるとなった時点で、そういうことだと思いましたから。ずっと続けている京都のラジオ番組では昔ながらのしゃべりをやりつつ、箱根の山を越えたら、違う意識になっていましたね。

――森脇さんは、いわば「関西の色」を消して東京の番組に挑んでいたわけですが、一方で当時人気が沸騰し始めていたダウンタウンは関西の色を打ち出して支持されました。芸人として、思うところはありましたか?

森脇 ダウンタウンさん全盛の頃には、「自分のことで一杯一杯」になっていた気がします。それで、個人的にボクシング企画( #1 参照)をやったりする中で、『筋肉番付』(TBS系)のようなスポーツバラエティが出てくるんですよね。だから、僕はそっちのほうで自分を出していくしか生き残る道はないな、っていう気持ちはありました。

 ダウンタウンさんはデビューした当時から「天才」としか思ってないです。僕が17、8歳の時からテレビで見てますからね。フジテレビの番組で共演させてもらったこともありますけど、邪魔しないように必死でしたよ(笑)。

「おもしろくない」と名指しで批判され……

〈『8時だョ!全員集合』(TBS系)、『オレたちひょうきん族』、『邦ちゃんのやまだかつてないテレビ』(いずれもフジテレビ系)といった日本のバラエティ史の流れを変えたのが、『ダウンタウンのごっつええ感じ』(フジテレビ系)だ。1991年12月にスタートした同番組は、関西の色だけでなくダウンタウンの独自性を打ち出して、カリスマ的な人気を博すことになる〉

――『笑っていいとも!』のレギュラー出演時、タモリさんから「広く浅くだよ」とアドバイスされたそうですね。ただ、それをいざ体現するとなるとなかなか難しい気もします。

森脇 今振り返ってわかるのは、タモリさんのすごさって“スタッフと闘ってない”ってことなんですよね。毎日のことやから、日々スタッフがタモリさんに「この企画やりましょう」って言ってくるんですけど、僕が横で見ていても、タモリさんは「わかったよ、やるよ」ってすべて受け入れていたんです。やってみたうえで、「結果の判断はそっちが下してください」みたいな対応なんですよね。

 これが関西なら、「そんなんでけへんわ!」とか、芸人が判断するスタンスが“格好ええ”とされる。そういう環境で僕は育ってきたから、タモリさんとの仕事はすごく勉強になりました。三宅裕司さんやタモリさんのような大物タレントさんから得たものは、関西で活動する今でも生きています。30年前の関西の仕事のやり方しか知らなかったら、もっと早くに僕はつぶれてたと思いますよ。

――関西で活動していた若手時代は「自分が一番面白い」という意識があったと思います。そこから「アスリート芸人」へとシフトしていく中で、葛藤はありませんでしたか?

森脇 おもろいコントや漫才を作ることを、僕はやってきていませんから……。毎週京都でラジオをやってたんで、そのためにネタ作ることはやってましたけど、舞台はやってませんからね。だから、「自分が一番おもろい」とかいうよりも、「どうやってこの世界で残っていくねん」ってトコでしょうね。とくに関西に帰ってきてから、考え方もどんどん変わっていきました。

――当時のバラエティ番組では、ほかの芸人が森脇さんのことを「おもしろくない」などと名指しで批判することもありました。失礼な質問かもしれませんが、こうした発言を森脇さんはどう感じていたんですか?

森脇 どう感じてた言うても……。当時は誰が何を言ったってことより、僕は芸能界という魑魅魍魎の世界に生き残ることで必死でしたから。今も「何がおもろいんや」っていう悪口やら何やらありますけど、ホンマに名前を言うてもらえるだけでありがたい。名前を言うてもらえるってことは、存在があるってことですから。

「僕らの時代は肩に力が入りまくってた」

――ここ数年、第7世代と呼ばれる若手芸人の活躍も見られます。森脇さんは、今のお笑いやバラエティ番組をどのようにご覧になっていますか?

森脇 今のお笑い番組は我々の時代からガラリと変わったなと感じます。ひな壇に座っているタレントさんは頭の回転が早いし、チームワークもいい。素晴らしいと思いますね。

――現在のバラエティ番組と90年代のバラエティ番組とでは何が決定的に違うと思いますか? 

森脇 90年代に関西で活動していたお笑い芸人って、「まずは大阪で売れないと東京進出はない」という意識でやっていたと思うんです。実際、関西という激戦区で勝ち上がらないと、箱根の山を越える切符は手にできませんでしたから。つまり、大阪と東京で2回売れないといけない。だから、東京進出にあたって、今度は「東京の芸人に負けるわけにはいかない」という気持ちも湧いてくる。激戦区を勝ってやってきたって自負もありますからね。僕らの時代は肩に力が入りまくってたんです。一番違うのは、そこだと思います。

“走る”ってことだけはやめなかった

――若手の頃に共演が多かった山田雅人さんは、今はひとり語りの舞台で活躍する“語り師”として、独自の活動を続けています。

森脇 素晴らしいと思います。自分で道を切り開いて居場所を持ったっていうのは、なかなかできることじゃないです。そういう意味では、山田さんも天才やと思いますよ。60歳でいまだに芸能界で活躍しているわけですからね。

――一方、森脇さんは『オールスター感謝祭』(TBS系)の「赤坂ミニマラソン」はもちろん、東名阪の地方局で放映された北海道から沖縄まで走るドキュメンタリーバラエティ『走る男』シリーズなど「走る」仕事をきっかけに再び活躍されています。

森脇 “走る”ってことだけはやめなかったんですよね。ずっと走っている中で、たまたま2003年の秋に『オールスター感謝祭』の「赤坂ミニマラソン」に呼んでいただきました。そこで優勝させてもらった時に、芸能界で生きる自分の道は「ここかもしれない」とひらめいたんです。

 そこからはボクシングをやめて、高校時代からやっていた陸上競技をもう一度やり直そうと、毎日練習しました。ただ、この世界は甘くはなくて、「走る仕事」が来るようになったのは、この5、6年ですよ。2007年に東京マラソンが始まって、そこから大阪マラソンとか全国的にも開催されるようになって、たまたま時代がきた。だから仕事がものすごく楽しいし、今が一番幸せを感じます。

(鈴木 旭/Webオリジナル(特集班))

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