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「高校では7回入部8回退部」「野球入学した大学は半年で中退」…天才・落合博満がプロ入りするまでの知られざる“足跡”

文春オンライン / 2021年7月21日 6時0分

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プロ入り後の落合博満氏 ©文藝春秋

 NPB史上初にしていまだ破られていない三度の三冠王獲得といった偉業を成し遂げ、“天才”と評される落合博満氏。そんな彼のプロ入りは25歳と意外にも遅咲きだ。高校卒業からロッテ・オリオンズ入団までの間、いったいどのような日々を過ごしていたのだろう。

 ここでは、詩人・作家のねじめ正一氏による 『落合博満論』(集英社新書) の一部を抜粋。落合氏の人間味あふれるエピソードを紹介する。(全2回の1回目/ 後編 を読む)

◆◆◆

誰もが認める野球能力

 生来の性格から落合は、封建的な体育会系の上下関係に馴染めず、秋田工業高校野球部時代は「7回入部8回退部」と、入退部を繰り返している。とはいえ、一度も退部届は書いておらず、常に休部状態のままであった。それが許されたのは、落合の野球能力が、誰もが認めるものだったからだ。

 落合は大の映画好きで、映画館に入り浸っていた。試合が近づくたびに部員が映画館まで呼び戻しに来て、その都度、野球部に復帰し、たった一週間の練習で四番を打った。そして、本塁打を量産した。

 上京し、セレクションで合格して入った東洋大学の野球部もやっぱり封建的なところだった。ケガも重なって、兄姉たちの後押しでせっかく入学した大学を半年で中退した。

プロボウラーを目指すも、交通違反の罰金で受験できず

 だからといって、落合家で彼を責める人は誰もいなかったという。

 大学野球で挫折し、東京から秋田に戻った落合は、新たな生きる道を考えなければならなかった。ボウリング場でバイトをしながら、プロボウラーを目指したという。

 ところが、それが好運だったのか不運だったのか、交通違反の罰金でプロボウラー試験の受験料を失い、受験できなかった。アベレージスコアは286だったというから、プロボウラーとしても成功していたかもしれない。

 故郷でのこの2年ほどの間、落合は若い強靭な肉体をもて余しながらも、野球への情熱をふつふつとたぎらせていたにちがいない。

 兄姉から野球で活躍することを期待されているのは、身に痛いほどよくわかっていた。特に長兄は、落合の野球の才能を見抜いていた。だからこそ、何も言わず見守っていたのだ。

ショートフライかと思ったらホームラン

 いよいよ野球がやりたくなった20歳の落合は、社会人野球部を持つ「東芝府中」を、高校の恩師に紹介してもらう。

 東芝府中野球部のセレクションは高校3年生が多かった。歳は2、3歳しか変わらなくても、彼らには落合がふてぶてしく、ずっと年上に見えた。

 セレクションが始まり、みんなでキャッチボールを始めたときには、落合はそれほど目立つこともなかった。だが、いざバッティングになったとき、彼らはぶったまげた。ショートフライだと思った打球が、そのままフェンスを越えてホームランになったのだ。

 それこそ、セレクションでは桁違いのバッティングであった。

下っ端の集まり「ペイペイ会」

 この東芝府中のセレクションを落合と一緒に受けた、当時高校生だった山形県酒田生まれの私の知人は、セレクションを終えた落合が木陰で煙草を吹かし一服している姿に、近寄りがたい風格を感じた、と言っていた。

 落合は東芝府中に入社するが、臨時工であった。でも野球ができて、そのうえ給料が入ってくるのだから、臨時工であろうが正社員であろうが、落合には関係ない。

 落合は、会社の寮から野球練習場までボロ自転車で通っていた。東芝府中野球部には封建的な感じがなかったので、自分から率先して野球に励むことができた。東芝府中の広いグラウンドで、落合は生まれて初めて、無我夢中になって野球に集中できた。勤めをきちっと終えてから野球をする臨時工だからこそ、思う存分野球ができたのかもしれない。

 野球部とは関係なく東芝府中には「ペイペイ会」という名の集まりもあった。

 ペイペイ=下っ端の集まりだ。40、50代の人たちが多くて、出世なんかどうでもよく、でも自虐的にはならずペイペイを楽しむ人たちであった。


 お金を集めて年に4、5回、どこかへみんなで遊びに行ったり、新年会や忘年会をやったりしていたらしい。若い落合もペイペイを楽しんでいた。落合の人間味が知れる話である。

落合が羽ばたいた年

 1974年10月14日、長嶋茂雄の引退試合があった。

「長嶋茂雄さんに憧れて野球を始めた私は、1974年10月14日に後楽園球場に足を運び、長嶋さんの引退試合を観戦した。その時、長嶋さんとともに日本のプロ野球も終わってしまうのではないかと、本気で思っていた」(『野球人』ベースボールマガジン社、1998年)と、落合は書いている。

 落合の生まれた若美町(現・男鹿市)は、秋田でも野球の盛んなところだ。落合は小さな頃から野球がうまくて、ふてぶてしさ、愛想のなさもその頃からすでに発揮されていた。試合の始まる寸前にすたすた現れて、試合が終わると、後片付けをするわけでもなくすたすた帰っていったという。それでも、小学校でも中学でも、お愛想なしのピッチャーで四番であった。

小さな頃からの憧れ、長嶋茂雄

 そんな落合の小さな頃からの憧れが、長嶋茂雄だったのだ。モノマネも上手だったらしい。

 長嶋がいなくなったら日本のプロ野球は終わりだ、そう思ったのは当時、落合だけではなく、日本の多くの人がそうだった。

 詩人の寺山修司は長嶋の引退試合で「僕の青春が終わった」と言った。

 でも、落合は長嶋茂雄に間に合った。

 東芝府中で野球をやっと手に入れた。ギリギリのギリギリのところで、野球を引き寄せた。野球をやっとこさ摑まえた落合は、長嶋の引退試合に足を運んだ。日本プロ野球の行く末を憂いながら、落合自身も野球のとば口に立つことができたのだ。

「アクがないというか、人を引きつける一種独特の魅力があるんだね。なんなのだろう? 人間性かな? いや、やっぱりあの人の野球だと思う」(『なんと言われようとオレ流さ』講談社、1986年)

 落合の長嶋についての言葉だ。

長嶋そのものが野球

 長嶋の魅力は野球に尽きる。長嶋の人間性ではなく、長嶋の野球をする姿、ひとつひとつの動きが、落合にとっての長嶋なのである。長嶋=野球。転がる球を追い求めるように長嶋を追い求めてきたのだ。

 それにしても「アクがない」という言葉は長嶋を深く考察している。アクがないというのは、野球そのものなのだ。長嶋には日常がない。野球しかない。長嶋の個人が見えない。透明感があるのだ。へんな人間的な突っぱりがなく、すうっとカッコよく立っている。

 長嶋がゴロを捕るのは、よちよち歩きの赤ん坊を抱きとめるのと同じことなのである。ゴロが転がってきても、よちよち歩きの赤ん坊を胸に抱き込むように捕って、一塁に優しく送り届ける。

 長嶋のバッティングでは、体が開いてヘンな格好になっていても、ボールの方から長嶋の振るバットに寄ってくるのだ。

 長嶋のスイングでは、ボールとバットが喧嘩しないで戯れている。

 長嶋そのものが野球なのだ。

東芝府中の四番打者に

 そして、落合が目指したのも戯れる野球、遊びの野球だった。ボールとバットが正面衝突するのではなく、楽しく戯れていた。

 両翼100メートル近いグラウンドの全部を使って、落合はボールで遊んだ。東芝府中の広いグラウンドが、落合の野球の器をつくった。

 長嶋引退の翌年、1975年から落合は東芝府中の四番打者を任される。

 東芝府中は1976年、南関東大会で優勝して、初めて都市対抗野球本大会に出場した。以降、落合は他チームの補強を含めて3度、都市対抗野球本大会に出場(都市対抗野球には本戦に出場する際、敗れたチームから補強選手を招集できるルールがある)。

 東芝府中最後の年には、全日本にも選ばれた。

 東芝府中には5年在籍して、ホームラン70本を打った。そして、ドラフト3位でロッテに指名された。

「臨時工」「ペイペイ会」「長嶋茂雄引退試合」。1974年は、この3つが体に染みつくことで、落合が大きく羽ばたいた年であった。

【続きを読む】 足が速い、肩が強い、動きがよい…落合博満監督を楽しませ続けた“ナンバーワン控え選手”が見せた“最後の雄姿”

足が速い、肩が強い、動きがよい…落合博満監督を楽しませ続けた“ナンバーワン控え選手”が見せた“最後の雄姿” へ続く

(ねじめ 正一)

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