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「もう少し辛抱しろよ」「この野郎!」闘病中の横田慎太郎へ金本監督・掛布二軍監督が送った知られざる“メッセージ”

文春オンライン / 2021年7月19日 6時0分

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写真はイメージです ©️iStock.com

 甲子園出場こそ果たせなかったものの、鹿児島県大会での活躍が評価され、ドラフト2位で阪神タイガースに入団。パンチ力のある打撃に定評があり、プロ入り3年目にはオープン戦で首位打者を獲得するなど、周囲からの評価を集めていた横田慎太郎氏。そんな彼を襲ったのは脳腫瘍という病魔だった……。

 ここでは、同氏がプロ入り前から引退試合までの印象的な日々を振り返った一冊『 奇跡のバックホーム 』(幻冬舎)の一部を抜粋。闘病生活の際の忘れられないエピソードを紹介する。(全2回の2回目/ 後編 を読む)

◆◆◆

金本監督からの差し入れ

 金本監督や掛布さんをはじめとする現場の人たちからの激励も、「チームとつながっている」と感じさせてくれました。

 沖縄で脳腫瘍だとわかり、宿舎の部屋を訪ねたとき、金本監督は話をすでに聞いていたらしく、僕に言いました。

「おれも知り合いの先生にいろいろ聞いてみたら、どの先生も必ず治ると言ってる。もう少し辛抱しろよ」

 入院してからも、シーズン真っ只中にもかかわらず、何度も見舞いに来てくれました。中学生だった娘さんと一緒に来られたときがあって、娘さんが一生懸命折った千羽鶴をプレゼントしていただきました。

「娘がおまえのファンなんだよ」

 そう言われたときは、「まさか」と思いながらも、とてもうれしかった。

 差し入れもよくしてもらいました。あるとき、わざわざ試合前にお寿司を持ってきてくれたことがありました。有名店のお寿司で、「いま握ってもらったから、おいしいぞ」と言いながら差し出してくれました。

 ところが、母によれば、よりによって僕はこう言ったそうです。

「肉が食べたかったです」

 僕はまったく憶えていないのですが、どうやらまたもや天然ぶりを発揮したようです。「この野郎!」と呆れながらも金本監督はすぐにステーキ弁当を特別に手配してくれました。

 金本監督が贈ってくれた色紙にも励まされました。

「病は気から」とはよく耳にする言葉ですが、それまで、それほど気に留めることはありませんでした。でも、いざ自分が病気になってみると、心にしみます。気持ちが折れてしまっては、治る病気も治らない。病気に打ち勝つには、なによりも前向きな気持ちが大事なのだということを、あらためて教えられた気がしました。

 二軍監督だった掛布さんにも、病気がわかったときにすぐに電話しました。掛布さんは言ってくれました。

「いまは野球じゃない。自分の身体を守ることだ。そうすれば必ずもう一度野球ができるから、いまは野球を忘れて治療に専念しろよ」

 お見舞いに来ていただいたときには、やはり一枚の色紙を手渡されました。そこにあったのは、「復活」という二文字。色紙を差し出しながら掛布さんは言いました。

「横田、これからドラマをつくろうな」

「ひとりに強くなれ」という言葉もいただきました。どちらの言葉も、とても僕の心に響きました。

 金本監督と掛布さんからいただいた2枚の色紙は、ずっと枕元に置いて、くじけそうになるといつも見ていました。

 ほかにも球団社長をはじめとするタイガースの関係者や選手の方々からは、本当にたくさんの励ましをいただきました。病名を知らされていない人もいたけれど、みんながみんな、「元気になって戻ってくるのを待ってるから」と言ってくれた。どれだけ勇気づけられたかわかりません。

寛解

 入院から半年ほどたった7月下旬――。

 検査を受けた僕は、「寛解」と診断されました。

 寛解とは、完治ではないのですが、症状が消え、落ち着いた状態になったことをいいます。頭痛や首の張りは消え、視力も――以前の状態にはほど遠いですが――日常生活にはさほど不自由しない程度までは回復しました。

 先生から「寛解」という言葉を聞いたとき、僕は思わず涙を流しました。

 絶対に治ると信じていたし、術後の経過も順調だった。それでも、「二度と野球ができなくなるかもしれない」という不安は、ずっと僕につきまとっていました。その不安を振り払おうと、いつも前向きでいたつもりでしたが、やはりどこかで無理していたのかもしれません。

「寛解」という言葉を耳にしたとたん、それまで心のどこかにあった不安がひとまず取り払われた。その安堵感のほうが、喜びやうれしさより先に立ったのでしょう。ほっとした気持ちが静かに涙となってあらわれたのだと思います。

 もちろん、すぐにうれしさもこみあげてきました。

「もう一度、グラウンドに戻ることができる」

 そう思うと、飛び上がりたいほどでした。その日が来るのを願って半年も苦しい治療に耐えてきたのですから……。

「甲子園の風が届くところで治療させてください」

 まずお礼を言わなければならないのは、阪大病院の医療スタッフの方々です。みなさんには本当にお世話になりました。

 最初に診断を受けたとき、病院から提案されました。

「ほかの病院も回って、本当にここでいいと思ったら来てください」

 でも、主治医となる先生と話した母は、「この人なら」と即決しました。

「甲子園の風が届くところで治療させてください」

 そう言ってお願いしたのです。

 病院側は、各セクションの先生で構成されたチームをつくり、献身的に治療にあたってくださりました。

 主治医の先生は「絶対に治る」と約束してくれて、どんな疑問にも丁寧に説明してくれました。抗がん剤と放射線の治療で苦しかったときには、「無理しないで、ゆっくり過ごしましょう」とか「吐きたかったら我慢しないでね」と目線を落として親身になってくれたので、「ちょっと恥ずかしいかな」と思うことでも平気でした。ストレスなく過ごすことができました。

「もう一度野球ができるよう、神経には傷一本つけないでください」という僕の無茶な要求にも応えていただきました。

「どんなデッドボールを頭にくらっても大丈夫なように、頑丈にしといたから(笑)」

 退院の際には太鼓判を押していただきました。

 看護師さんたちも本当によくしてくれた。6月9日の僕の誕生日には、なんの前触れもなしに突然、看護師さんたちが10人くらい部屋に入ってきて、「ハッピー・バースデー」を歌ってくれたこともありました。いつも笑顔でかけてくれるやさしい言葉は、僕の安らぎになりました。

家族なしでは耐えられなかった

 繰り返しになりますが、治療はいま思い出してもつらかった。二度と体験したくありません。とくに抗がん剤と放射線の治療を受けていたときは、吐き気とだるさでぐったりすることしかできませんでした。何度くじけそうになったことか。

 それでもめげずに病気と闘い続けられたのは、もちろん僕の力だけではありません。僕ひとりだけだったら、耐えられなかったかもしれない。野球をあきらめていたかもしれません。

「もう一度野球をする」

 その目標を捨てることなくやってこられたのは、いつも応援し、励まし続けてきてくれたさまざまな人のおかげだと心から思っています。

 第一に感謝しなければならないのは、やはり家族です。とりわけ仕事をやめてまで、ずっとつきそってくれた母の存在はこのうえなく大きかった。

 息子が脳腫瘍という大病をわずらって、母もつらかっただろうと想像します。でも、母はいつも明るく接してくれました。

「逃げずにみんなでがんばろう」

 そう言って、本当に献身的に支えてくれました。

 病室にひとりでいると、どうしても悪いほう、悪いほうに考えがちです。まして手術直後の僕は、目標を失って絶望していました。

「横にいるだけでもいいんじゃないかと思って、一緒に寝泊まりした」

 母は言っていました。「元気になって阪神の寮に帰すまでは、絶対にひとりにしない。一緒にいよう」と考えたそうです。当時の僕は気づきませんでしたが、いま振り返ると、目が見えなくていちばん不安だったとき、母がいてくれたことが大きな力になったと思います。

 車椅子を押していろいろなところに連れて行ってくれたし、野球経験なんかないのに毎日のようにキャッチボールにつきあってくれた。「ナイスキャッチ」と笑顔で声をかけてくれたことがどれだけ僕に希望を与えてくれたか。ラケットを買って一緒にテニスをしたこともあったし、「散歩に行こう」と言って遠くまで歩いたこともしょっちゅうでした。

 抗がん剤治療が始まってからは、毎朝6時に僕の食事をつめたお重と洗濯した服を持ってアパートを出ると、病院に行く途中にあった八幡神社に寄り、僕の全快を願ってお参りするのが日課だったそうです。そうして病院に来ると、一日中僕の世話と相手をし、また帰りには神社にお参りする……。

 最近、母が振り返って言いました。

「一日の半分以上はふたりで笑ってたね」

 言われてみると、たしかにそうだったかもしれません。僕らが笑っているのを見た看護師さんから、「何がそんなに楽しいんですか?」と訊ねられたほどです。

 たしかに身体は苦しかった。でも、苦しいことを苦しいと言える、痛いなら痛いと素直に言える。それが僕らにはうれしかったのです。そして、ふたりで笑いあえたのは、母の明るさがあったからこそだったと僕は感じています。

 もちろん、父と姉も力になってくれました。ふたりはともに鹿児島に住んでいますが、毎週代わる代わる見舞いに来てくれました。父は言葉は少なかったけれど、折に触れて僕を精神的に支えてくれた。病院の下でキャッチボールしたことも忘れられません。

 当時、鹿児島のテレビ局に勤務していた姉も、母が仕事をやめるにあたって引き継ぎ業務で離れられなかったときや、看病疲れから風邪をひいたときには、母の代わりにずっと僕につきそってくれました。

 そんな家族がいたからこそ、僕は前を向くことができたのだと、あらためて思うのです。

僕にはもう一度プレーする義務がある

 そしてファンの人たち。

「いつまでも待ってます」

「戻ってくるのを楽しみにしています」

 入院中、そうした手紙をたくさんいただきました。そのひとつひとつが病気と闘う僕の力になってくれました。

 なかには毎日のように電話をかけてくれる人もいました。僕がプロに入ってからずっと応援してくださった鹿児島の徳永さんは、仕事終わりの午後5時50分、欠かさず励ましの電話をくれるのです。

「みんなが待ってる! 自分を信じて、前を向いてがんばりなさい」

 その電話一本にずいぶんと救われました。

 こうしたファンの方々の激励や応援を大変ありがたく感じると同時に、僕はこう思うようになりました。

「世の中には、僕と同じように苦しんでいる人がたくさんいる。病気でなくても、つらい目に遭っている人、理不尽な環境に置かれている人、悩んでいる人がたくさんいるはずだ。なかには絶望しかけている人もいるかもしれない。僕がプロ野球の世界に戻ることができたなら、そういう人たちに闘う勇気や元気を与えることができるのではないか――」

「グラウンドに復帰する」という目標はそれまで、あくまでも自分のためでした。でも、いつしかそれは、僕だけのための目標ではなくなった。もう一度、甲子園という大舞台で全力疾走し、フルスイングを見せることで、病気やさまざまなことで苦しんでいる人たちに夢と感動を与えたい、少しでも前を向く力を与えたいと思うようになったのです。

「そのためにも――」

 病院を後にするとき、僕は自分自身に言い聞かせました。

「もう一度、試合に出てプレーしたい。いや、僕にはプレーする義務がある!」

【続きを読む】 「えっ!? 嘘だろ?」ライトを志願したのにセンター守備を命じられ…横田慎太郎“奇跡のバックホーム”の舞台裏

「えっ!? 嘘だろ?」ライトを志願したのにセンター守備を命じられ…横田慎太郎“奇跡のバックホーム”の舞台裏 へ続く

(横田 慎太郎)

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