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「優勝を逃した戦犯」「巨人史上最低の4番」と叩かれながら…原辰徳が現役最終年に抱えていた“特別な思い”

文春オンライン / 2021年7月24日 6時0分

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©文藝春秋

  ドラフトで4球団競合の末、読売巨人軍に入団した原辰徳は、プロ入り1年目から新人王を獲得するなど期待にたがわぬ活躍を見せる。一方で、王や長嶋の幻影を追う一部のメディア・ファンからの徹底的なバッシングにあうことも珍しくなく、優秀な成績を残しながらも、巨人不振の全責任を背負わされているかのような扱いを受けてきた。

 ブログ「プロ野球死亡遊戯」で人気を集め、さまざまなメディアで野球の魅力を説くスポーツライターの中溝康隆氏は少年時代、そんな“不完全なアイドル性”を持つ原辰徳に魅せられていたという。ここでは同氏の著書 『現役引退 プロ野球名選手「最後の1年」』 (新潮新書)の一部を抜粋。高度経済成長期の象徴ともいえる天下のONと常に比較され続けた男の最後の1年を紹介する。(全2回の1回目/ 後編 を読む)

◆◆◆

巨人史上最低の4番

 シーズン34本塁打、94打点の27歳の若き4番打者。

 プロ野球界にはこの好成績を残して、マスコミから「優勝を逃した戦犯」「巨人史上最低の4番」と叩かれまくった選手がいる。80年代中盤の原辰徳である。

 甲子園のアイドルで大学球界のスーパースターという輝かしい経歴を持ち、1980(昭和55)年ドラフト1位で巨人の藤田元司監督が4球団競合の果てに抽選で引き当てた。ドラフト会議直後になんと街で号外が配られ、ミスター監督辞任で6円安、王引退で5円安を記録した後楽園の株価が、原を引き当てた日には始め値の366円から19円高の385円まで跳ね上がるタツノリフィーバーが幕を開ける。長嶋茂雄と王貞治の後継者を託され、巨人入りした22歳のプロ生活は順風満帆だった。81年は1年目から新人王を獲得し、チームも日本一。2年目は富士重工、味の素、オンワード樫山、美津濃、明治製菓、明治乳業、大正製薬といった大手企業のCMに出まくり、アルバム『サムシング』でレコードデビューも飾った。スポーツ選手の前年度所得番付で1 位青木功(ゴルフ)と3位千代の富士(相撲)に挟まれ、球界トップの2位にランクイン。江川卓とともに投打の柱“ETコンビ”と呼ばれ、83年には打率.302、32本塁打、103打点で打点王と最多勝利打点に加え、MVPを受賞。エイトマンスマイルをふりまく時代の寵児は、ゴールデンタイムで毎晩視聴率20パーセント超えの巨人戦ナイター中継の主役として君臨する。あの頃、日本のどんな有名芸能人より頻繁にテレビに登場した前代未聞の野球選手が若き日の原だった。

ケガで初の一軍登録抹消、結婚で女性ファン激減

 当然、そんな異常なアイドル人気を誇る若大将を面白く思わない人たちも出てくる。主に巨人V9をリアルタイムで目撃し、現役時代のONに熱中した中年のおじさんたちである。彼らがメイン読者層の週刊誌では、徹底的に原叩きを繰り返す日々。つまり、チャラチャラした「最近の若者の象徴」4番原を叩けば雑誌が売れたわけだ。「週刊現代」86年9月6日号では、「打てば負け打たねば勝つチームの“貧乏神”巨人史上最低4番打者・原辰徳にファンベンチ罵声」の見出しで「“4番目の打者”原辰徳がいつ“4番打者”になってくれるのかと。巨人には記憶の人=N、記録の人=Oがいます。現状では、原クンは“記憶にも記録にも残らない人”ですもの」とまで辛辣に書かれている。比較対象は常に過去の偉大なノスタルジー。もはや転職して去った敏腕営業マンの残像を追う部長の若手社員イジメのような、むちゃくちゃな要求だ。並の精神力と覚悟なら、やってられるかと投げ出して野球を辞めていると思う。

 気が付けば、巨人不振の全責任を背負わされ、追い打ちをかけるようにプロ6年目の86年シーズン終盤、自己最多の36号アーチを放った広島戦の9回裏二死1塁、炎のストッパー津田恒実の剛速球をファウルした直後に古傷の左手首に激痛が走り退場。左手有鉤骨骨折で初の一軍登録抹消をされてしまう。バットを振れるようになるまで3カ月以上を要する重症で不要論が囁かれ、王貞治監督からは厳しい檄が飛び、さらに電撃結婚で女性ファンも激減。オフにはロッテの三冠王・落合博満の巨人トレード話が連日報じられ、球界の主役の座は高卒新人記録の31本塁打を放った“新人類”清原和博に奪われた。まだ28歳にして半端ない窓際感。そんな逆風にさらされる悲運の4番サード原辰徳に熱狂したのが、ONの現役時代をリアルタイムで知らない当時の少年ファンである。

終わらない歌を鳴り響かせるホームランアーティスト

 周りの大人たちが「またチャンスでポップフライかよ」とディスる背番号8に対し、まるで自分が馬鹿にされたかのような悔しさを覚え、「俺たちがタツノリを応援しないでどうするんだ」なんてわけの分からない使命感に後押しされ、テレビの前で絶叫。悔しさと蒲焼さん太郎を噛みしめながら、リモコン片手に半泣き。すると、不思議なことに原は89年日本シリーズ第5戦での起死回生の満塁弾、92年神宮球場での怒りのバット投げアーチと度々土壇場で劇的な一発を放つ。30代になると左翼コンバートに加え、アキレス腱痛を抱えて故障も増えたが、もう終わったと言われる度に、終わらない歌を鳴り響かせるホームランアーティスト。あの頃のタツノリにはある種の儚さと切なさがあった。完全が求められる巨人4番において、その不完全なアイドル性に少年ファンは魅せられたのである。

 だが、長嶋茂雄が監督復帰した93年に背番号8の入団以来12年連続の20本塁打が途切れ、巨人はゴールデンルーキー松井秀喜の「4番1000日計画」と、導入されたばかりのFA大型補強時代へと突入していく。そして、落合博満のFA移籍で4番の座を追われた原は、1995(平成7)年に「最後の1年」を迎えることになるわけだ。

 ライバルチームの野村克也監督率いるヤクルトから広沢克己やジャック・ハウエルを獲得するなど止まらない補強に背番号8の居場所はなくなりつつあったが、年明けのテレビ番組の「今シーズンの巨人4番はだれがいいか?」という電話アンケートで1位に選ばれたのは落合でも松井でもなく、原辰徳だった。時に「代打カズシゲ」を送られるような、ミスターの非情采配にファンは怒ったのである。

「俺らの4番打者」への感謝と惜別

 引退を懸けて臨んだプロ15年目のシーズン、満身創痍の36歳は5月下旬以降、スタメン機会すらほとんどなく、時々代打で顔見せ程度に出る立場だったが、いつからか打席に向かう度に誰よりも大きい拍手が送られるようになる。長嶋や王は歴史そのものだが、原辰徳は平穏な日常の象徴なのだ。巨人ファンは来たばかりのFA移籍組やキャリアの浅い若手にはまだ遠慮してしまう。でも、なんだかんだ長い時間を共有した原になら感情をぶつけられる。色々文句も言ったけど、結局は実家の母ちゃんが作るシンプルな握り飯が一番美味い的な「俺らの4番打者」への感謝と惜別。いわば80年代のプロ野球界が生んだ最大のメディアスターのファイナルカウントダウンは、異様な熱気を生み出すことになる。

 7月22日に37歳の誕生日を迎え、ペナントレースがヤクルトの独走態勢に入りつつあった夏、8月21日付のスポーツニッポンと日刊スポーツ両紙がついに「原引退」を報道。その時点で打率1割台に3本塁打の元4番は吹っ切れたように土俵際での意地を見せる。9月20日の中日戦ではその試合最大の大声援の中、途中出場で左翼席上段へ76試合ぶりの4号ホームランをかっ飛ばしてバットを放り投げ、お立ち台では「たまに出てもこれだけのお客さんがね、声援を送ってくれて……」と言葉に詰まるタツノリ。95年シーズン、スタメン起用はわずか26試合だった。

「勝負弱い」と日本中から叩かれまくった男

 そして、10月1日の試合前に神宮球場のクラブハウスで長嶋監督に今季限りでの引退を報告する。10月8日の東京ドームでの引退試合はチケット発売日に即日完売、8万円ものプレミア価格がつき、消化試合のデーゲームにもかかわらず、日テレ中継の瞬間視聴率は32.4パーセントを記録。この最後の舞台で「4番サード」で先発出場すると広島の紀藤真琴から通算382号を放ち、起用法から確執も噂されたミスターと涙の抱擁を交わして、原辰徳はユニフォームを脱いだ。

 こうして、高度経済成長期の象徴ともいえる天下のONと常に比較され、30本塁打を打って勝負弱いと日本中から叩かれまくった男の激動の選手生活は終わった。なお、80年代セ・リーグの通算本塁打数と総打点の両部門トップは山本浩二でも掛布雅之でもバースでもなく、原の274本塁打、767打点である。つまり、当時誰よりも批判されたプロ野球選手が、誰よりも結果を残したわけだ。引退セレモニーで「夢の続きがある」と宣言した若大将は、やがて監督として21世紀の巨人軍を背負い、球団史上最も勝った指揮官へと上り詰めてON越えを果たすことになるが、それはまた別の話だ。

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「オレのことをヤツらは侮辱した」巨人史上最強の助っ人が日本を去った最後の1年…“問題発言”の裏側に迫る へ続く

(中溝 康隆)

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