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「誰が決めたんじゃあ!」 頑固者・菅原文太が撮影に向かう新幹線内で起こした“うどん騒動”の一部始終

文春オンライン / 2021年8月3日 6時0分

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菅原文太氏 ©文藝春秋

 脇役から徐々に頭角を現し、『仁義なき戦い』シリーズへの出演で、押しも押されぬ東映の大スターとなった菅原文太氏。数々の映画ファンを魅了した男の意外な素顔、大ヒット作の舞台裏、そして揺れ動いていた心中とは……。

 ここでは作家の松田美智子氏の著書『 仁義なき戦い 菅原文太伝 』(新潮社)の一部を抜粋。関係者の証言をもとに、在りし日の菅原文太伝説を振り返る。(全2回の1回目/ 後編 を読む)

◆◆◆

マイペースの頑固者

『仁義なき戦い 代理戦争』の公開を終えたあたりから、文太の身辺が慌ただしくなってきた。

 まず、シリーズの成功を受けて、取材の申し込みが殺到し、マスコミへの露出がかつてないほど増えた。著名人との対談も、短期間に数多くこなしている。付き人も、最初は1人だけだったが、数人抱えるようになった。

 また、1作目は200万円だった出演料が倍近くになり、100万円の大入り袋もなんどか受け取っている。公務員の初任給が8万6000円、山手線の初乗り運賃が60円(76年統計)の時代である。出演料の200万円は現在の600万円くらいの価値があっただろう。

「自分はこれまで根無し草のように住居を転々としてきた」と語っていた文太は、この頃、杉並区南荻窪に自宅を購入した。次女が生まれ、3人の子供の父親にもなっていた。

 本人は多忙を極め、東京と京都の撮影所をひたすら往復する日々だったが、麻雀好きなので、その時々のメンバーと卓を囲んだ。

 文太の最初の付き人だった司裕介は、「オヤジは、手のかからない人だった」と振り返る。

「オヤジが麻雀しているときに、僕が『帰ります』というと『おおそうか、ご苦労さん』という感じでね。自分の身の回りのことは自分でやるし、必要な物は本人が買ってきた」

 麻雀には、性格が出た。山城新伍が文太と卓を囲んだときのことを回想している。

〈 彼の人生がたぶんそうであったように、パイの1枚1枚を、あまりにゆっくり慎重に切るものだから、いちじるしくリズムが乱れ、気の短い渡瀬恒彦などはいらいらのしっぱなしで、結果は文ちゃんのペースに乗せられて負けてしまうという、なんといわれても自分のペースをくずさない頑固者の一面を見せる(「週刊女性」76年1月1日号)〉

 山城は、そんな文太に、東北人独特のバイタリティを感じたという。「文太は頑固者」という点では梅宮辰夫の意見も一致している。

「立ち食いのうどんなんだから、店で食えばいいのにね」

「『仁義なき戦い』の撮影で、広島ロケに行ったんです。俳優たちがまとまって、京都から山陽新幹線に乗り、広島へ行くんですけど、途中、岡山のあたりで、付き人の司裕介が『辰兄、ちょっと困っています。助けてください』と言ってきた」

 梅宮が「どうしたんだ」と尋ねると、司は「また、オヤジが始めたんです」と答えた。文太が「車掌と揉めている」という。

「僕が『無賃乗車でも疑われたのか』と聞くと、『持ち込みです』と。よく司の話を聞いてみたら、文ちゃんが岡山駅のホームで立ち食いうどんを買って、そのうどんを食堂車に行って食べようとしたら、車掌に注意されたんだと」

 梅宮はすぐ司とともに、食堂車へ向かった。そこで文太は車掌に向かって「誰が決めたんじゃあ!」と怒鳴り散らしていた。

「文ちゃんは、外から持ち込んだものを食堂車で食べてはいけない、というルールを誰が決めたのか、と怒っていたんです。立ち食いのうどんなんだから、店で食えばいいのにね。言い出したらきかない。頑固でねえ。あの人らしかったな」

 梅宮は、文太は融通がきかない性格だった、と言う。司は私の取材を受けたときに「オヤジは手のかからない人だった」と話したが、実際は手を焼くことが度々あったのだ。

「3人でご飯を食べるでしょ。会話がないんですよ。シーンとして」

 司裕介は京都撮影所の大部屋俳優で、殺陣の技術集団「剣会」のメンバーである。文太に付いたのは、72年の『木枯し紋次郎』からだった。

「会社から『文太さんの面倒を見てやってくれ』と頼まれたんです」

 文太に挨拶をして3日後、まだお互いに気心も知れていなかったが、司は三宅島の宿泊ロケに同行することになった。付き人としての初仕事である。

「監督も含めて、スタッフは皆さんペンションに泊まっていたんですが、主役のオヤジと共演の江波杏子さんは旅館です。あれは嫌でしたねぇ。本当に」

 何が嫌だったのか尋ねると、「食事のとき」だと言う。

「身の回りの世話が必要なので、僕も旅館に泊まっていたんですが、朝と夕、オヤジと江波さんと僕の3人でご飯を食べるでしょ。会話がないんですよ。シーンとして」

 文太は喋らない、江波も全然喋らない、司は何を話していいか分からない。聞こえるのは漬け物を噛む音ばかり。そんな状態が10日間も続いた。

「もの凄く長く感じましたね。スタッフのペンションは撮影が終わると、楽しそうにどんちゃん騒ぎをしているのに、こちらは、宿の女将さんまで気を遣って、ヒソヒソと声をひそめて話すような状態で。1日でもいいから、あっちに移りたかった」

 三宅島では魚料理がよく出たが、文太は刺身が苦手だった。特に青魚が駄目だったという。

「マグロはまず食べなかった。寿司もあまり食べないし、ただ、焼いたサンマは好きでした。小さいときに、何かあったんでしょうかね。息子の加織も同じで、刺身が苦手でした」

付き人のバイク事故に

 付き人になってから、司は文太が主演する映画のほとんどに出演している。『仁義なき戦い』のときは、文太が頻繁に自宅に電話しているのを覚えていた。

「京撮の部屋に電話があったので、内線から東京につないでいましたね。携帯電話がない頃ですから。奥さんと長い時間、話していた」

 幼い子供たちの様子も気になっていたのだろう。家族思いの一面を見せている。

 司が覚えている限り、文太は監督や俳優の悪口を言ったりはしなかった。共演した女優についても、ほとんど語らない。

「ただ、渚まゆみさんのことは褒めてましたね」

 渚とは『現代やくざ 人斬り与太』『人斬り与太 狂犬三兄弟』で共演し、一部のマスコミで2人の関係が話題になったこともある。京都ではプロデューサーに連れられて芸者遊びもしたというが、遊びについては、特に口が堅かったという。

 付き人になって数年後、司はバイクの飲酒運転で事故を起こした。新聞にも載るほどの大きな事故で、全治1カ月だった。退院して間もなく、文太から東京の自宅に来るよう言われた。叱られるのかと覚悟していたのだが、違った。

「『今日は司の全快祝いをやろう』と言われてね、僕はもう大泣きです。嬉しかったなぁ。奥さんもいらして『お酒を飲んで運転してはダメよ』と注意されたけど、優しかった。だけど何日かあとで、梅宮辰夫さんに会ったときは怖かったです。『おい司、東映の俳優で酒をくらって事故を起こしたのは誰だ』と聞かれて。僕なんですけどね。梅宮さんは、かなり怒っていた」

 文太の付き人としては一番古く年長で、兄貴分の存在だったのが司である。司の記憶では、入れ替わり立ち替わりで、20人以上の付き人がいたという。

「菅原文太さんなんかは、頭が悪いから、よう当ててきよったわ」

 付き人ではないが、司と同じく「ピラニア軍団」の団員になった志賀勝は、任侠映画の時代からなんども文太に斬られたり、殴られたりした。大部屋俳優なので固定給と日給だけでは生活が苦しく、文太を相手に「当たり屋」になったことを語っている。

〈 チャンバラの刀とか、ケンカのパンチが当たってしまったら、当てた主役が手当てとして5000円くれんねん。それで、わざと当たりにいく(「サイゾー」2013年11月号)〉

 5000円は、臨時収入としては大きく、少々の怪我をしてでも欲しい金だった。

〈 中村錦之助さんや、大友柳太朗さんは上手だから絶対に当てへんけど、菅原文太さんなんかは、頭が悪いから、よう当ててきよったわ(中略)。ほんまに当ててるんやから、そらうまく映るわな(笑)(同)〉

 志賀が文太を「頭が悪い」と言ったのは、5000円の手当てを払うことになるのが分かっていても、避けようとしなかったからである。現場の迫力を優先したためだったのか。

『仁義なき戦い 頂上作戦』でも、文太は志賀を含めた「当たり屋」たちになんどか金を支払った。ただし、付き人が「今のはわざと当たりに行っただろ」などとチェックを入れるので、2000円にダンピングしたこともあったという。

 もっとも、この頃の文太に少々の出費は痛くも痒くもなかった。会社の待遇が大物扱いになり、出演料も交渉次第ではさらなるアップが見込めたからである。

嫉妬の対象

 73年に『仁義なき戦い』シリーズは3本製作されているが、文太はその間にも『まむしの兄弟 刑務所暮し四年半』(監督・山下耕作)、『まむしの兄弟 恐喝三億円』(監督・鈴木則文)、『やくざ対Gメン 囮』(監督・工藤栄一)、『山口組三代目』(監督・山下耕作)、『海軍横須賀刑務所』(同)の5本に出演している。もはや高倉健に当たっていたスポットライトを奪ったかたちであり、周囲の見る目も変わってきた。

 一方では、嫉妬の対象にもなっていた。社内で「文太が生意気になりやがった」「最近、態度が横柄だ」「あいつは変わった」という声も聞かれるようになった。

 文太と『仁義なき戦い』『仁義なき戦い 頂上作戦』の2本で共演した俳優の三上真一郎は、松竹時代から文太と親しい関係だった。芸歴は長く、笠原和夫が1作目の『仁義なき戦い』で三上が演じた新開宇市を見て「自分が脚本に書かなかった人物背景を見事に演じてくれた」と感心した俳優でもある。

 松竹を解雇されてフリーになった三上はシリーズ4作目『頂上作戦』(74年)の撮影中だった文太を、こう回想している。

 その日は深作監督にしては珍しく、撮影が定時で終わり、夕食後にアフレコ(撮影後、画像に合わせて音声を録音すること)が行われる予定だった。俳優たちはアフレコ・ルームに集合して、開始を待った。だが、予定時間がとうに過ぎても、主役の文太が現れない。

〈 梅宮辰夫、田中邦衛、東映専属の俳優も含めておよそ30人ほどは、することもなく椅子に座り主役のお出ましを待つしかない。そんななか、東映では鶴田浩二より古い梅宮辰夫が製作部に向かって、「おい! 文太はどうしたんだ? 早く呼んでこい!」イライラした様子である(三上真一郎「チンピラ役者の万華鏡」「映画論叢」)〉

背中には、主役は俺だぜという気構えが漂っていた

 連日の深夜撮影で、誰もが疲れている。梅宮が怒るのは当然だが、文太がいなければアフレコは出来ないので、我慢して待つより他なかった。

〈 やっとお出ましとなった主役は、ほんのりどころか明らかに一杯聞し召して、爪楊枝を銜えておいでだ。それでは始めましょうとマイクの前で主役を囲み、テストが始まった(同)〉

 ところが、1回目のテストが終わったあと、文太はミキサー室へ行き、スタッフとなにやら話し合いを始めた。俳優たちは元の椅子に戻り、再開を待った。しばしあり、助監督の声が響いた。今夜は文太の出ていないシーンだけのアフレコにしてほしい、という。

〈 おやおや主役は体調が可笑しくなったか、それとも飲み量が足りないのか? 唖然呆然とする我々を一瞥することもなく、明るいベージュのカシミア・コートを肩にかけた主役は、製作部を従え颯爽と出て行った。(中略)外から流れてくる冷たい風に向かって堂々と歩いて行く菅原文太。その背中には、主役は俺だぜという気構えが漂っていた(同)〉

 そこには、約12年前、7歳下の三上の前で「松竹は冷たい」「約束が違う」と嘆き、大粒の涙を流した男はいなかった。

 のちに文太は、高倉健と鶴田浩二を例に出し、「人気はその時のもので、永遠に続くものではない」と語った。賢明な文太は、自分もまた同じ命運にあることを予想していただろう。人気商売の儚さを自覚していたからこそ、ひとときの栄光を謳歌したのかもしれない。

《暴力団と交流もあったが…》『仁義なき戦い』で名を上げた菅原文太がヤクザ映画への出演を辞退するようになったワケ へ続く

(松田 美智子)

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