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遺族からは「骨ひとつあげられない」と言われても… 糸川英夫と20歳年下のアンさんが見せた“愛の形”

文春オンライン / 2021年7月28日 11時0分

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糸川英夫さん ©文藝春秋

「自分は10年に1度、仕事を変えてきた」 77歳の“空の天才”糸川英夫は、なぜ「聖者に学ぶ勉強会」を開くようになったのか から続く

 最前列ではなく、後ろの列の目立たぬところで、人や組織を支える人々がいる。そうした“後列のひと”の声を頼りに取材を重ねてきたのが、ノンフィクション作家の清武英利氏だ。昭和から今に続く、人間とその家族を描いた『 後列のひと 無名人の戦後史 』(文藝春秋)より、「日本の宇宙開発の父」と呼ばれる糸川英夫氏の姿を紹介する。(全3回の3回目。 前編 、 中編 を読む)

◆ ◆ ◆

「飛行機は僕の子供だよ。子供に人殺しさせたい親がどこにいるんだ」

 ただ、苦しかったときも多かったのである。時々、

「神様、許してくれ。僕にはいまだに殺したい奴がいる」

 と唸って、怨念や嫉妬の研究にのめりこんだことも打ち明けた。そして陸軍の戦闘機「隼」の設計をしていたことを話しながら、ぽろぽろ泣いたりもした。

「僕は飛んでいった飛行機は全機、無事に帰ってきてもらいたいって、ずっと願っていたよ。でも自分の飛行機は特攻に使われたり、人殺しさせたと言って非難されたりした。鉄板(防弾板)一枚を隼の座席の背中に入れたら助かったパイロットもいっぱいいたはずだよ。でも『1グラムも重くするな』と言われて、それはできなかったんだ。飛行機は僕の子供だよ。子供に人殺しさせたい親がどこにいるんだ」

 だが、その翌日にはけろりとして「人間は逆境のときだけ成長するんだ」と話し、過去を振り向くことがなかった。糸川は東京と大阪、名古屋で例会を開いており、赤塚は東海地区の秘書兼雑用役を買って出た。

 ところが、君子然としたその糸川がアンさんにはちょっとしたことで怒られるのだ。彼はなかなかモテる老人で、女性音楽家や美人政治家の訪問を受けることもあった。たちまち、アンさんにこっぴどく𠮟られる。やきもちが丸見えで、そんなときに情人の姿に立ち戻った。

 糸川はクラシックが好きで、62歳でバレエを習い始め、バイオリンのコンサートも開いている。だが、彼女は歌謡曲や演歌が好きだ。クラシックは長くて眠くなるから嫌だと言う。糸川の講演会に誘われると、「なんで行かなきゃいけないの」と口をとがらせた。

「だったらさ、言っていることを一つぐらい家でやってみろっていうのよ。できもしないことばっかり偉そうに言うからさ」

 糸川は、そうね、そうだね、と頷いている。彼女はそこを突き、糸川に邪険にされる周囲の人々をかばったり、包み込んでやったりした。 取り巻きの経営者の中には、「博士ともあろう人が、あんな下品な女に」と離れていく人もいた。だが、糸川は気にしなかった。

本妻の家に、「面会に来られたらどうですか?」

 ある朝、糸川が突然、「どうして僕たちは結婚しないか話そうか」と赤塚に言いだした。いまさらどうでも良かったのだが、耳を傾けていると、「あのね。結婚するとね、離婚問題が発生するでしょ。だから結婚しないの」という。

「僕はアンさんと何回も別れようと思ったんだよ。でもね、もうこれっきりにしようと言って、橋の真ん中から両方に歩き出して、渡り終わったらまた振り向いて一緒になっちゃうんだよね」

 くだらないのろけ話だったが、今思えば、結婚しないでずっと暮らしていることも全然おかしくないんだと、糸川は言いたかったのだろう。

――アホちゃうかな。でも、理屈を超えた男と女の関係というのはあんねんなあ。

 赤塚はつくづくと思った。糸川は、「アンさんは、僕にないものをみんな持っている」とも言った。それが明らかになったのは、糸川が脳梗塞で倒れた後のことである。

 糸川は地元の丸子中央総合病院で闘病したが、アンさんは2年近く病室に泊まり込んで介抱を続けた。いつも彼に話しかけ、絶え間なく体をさすり、床ずれや内出血が起きないように少しずつ動かしてやる。病状が悪くなると、彼女の方から本妻の家に、「面会に来られたらどうですか?」と連絡をする。すると、東京から駆け付ける。そんなことが続いたが、本妻が病院に着いても、糸川は病室に鍵をかけて入らせなかったという。大先生のけじめのようにも見えたが、それは家族にとっても、その場を外しているアンさんにとっても、情愛の修羅場であったろう。

 いよいよ体が動かなくなったころに、アンさんは糸川の手を握りながら、赤塚に漏らした。

「あたしは今が一番幸せなの。ヒデちゃんが私だけのものになったのよ」

 一方の赤塚は師を失う不安から、糸川の車椅子を押しているときに尋ねた。

「大先生、僕はこれからどうしていくのがいいでしょうか?」

 細い声が返ってきた。

「自分で考えなさい」

 そうだ、先生はもういなくなるのだ。

「大先生が逝ったよ」

 糸川が力尽きたのは、1999年2月21日の未明である。86歳だった。窓が白みかけたころ、1人付き添ったアンさんに手を強く握られていた。

 遺志に添って葬儀は行われず、自宅の古民家を清め、数十人のゆかりの人々で酒を飲んだ。赤塚は「大先生が逝ったよ」と知人から電話を受け、320キロの道を津市から車を飛ばした。

 糸川にかわいがられた宇宙科学研究所課長の林紀幸も東京から駆け付けた。 第1話 で紹介したが、林の父親はテストパイロットで、糸川たちが設計した「隼」2型機の試験飛行中に殉職している。

 古民家で誰もがぼんやりしていると、友人だった丸子中央総合病院理事長の丸山大司が、「うちの看護婦が世界一だと自慢したいけれど、私はアンさんのような献身的な介護をいままで見たことがありませんでした」と絞り出すように言った。

「僕たちの先生でもあるんだ。遺影は渡せないよ」

「先生のように2年近くも寝たきりで、それでいて褥瘡(じょくそう)がないご遺体を、僕は医者になって初めて見ました」

 そして号泣した。それを合図に嗚咽の声が広がった。

 町営の火葬場では、遺骨や遺影をめぐって、赤塚らと、東京から引き取りにきた遺族の間で小さな諍いが起きた。

 遺族が「遺影や遺骨はみんな持って帰ります。骨ひとつあげられない」と告げたのだった。息子たちに言わせれば、アンさんやその友人たちは(大事な父親を母から奪ってこんな目に遭わせた者たち)という思いがあるだろう。それぞれに立場と言い分があるのだ。

 しかし、気の強い「ロケット班長」の林は、青筋立てて𠮟った。

「僕たちの先生でもあるんだ。遺影は渡せないよ」

 火葬が終わり、白い骨の糸川が台車で運ばれてきた。ゆかりの人々が台車を囲んで、骨壺に骨上げをすることになった。

 誰かが遺族の目を盗んで、糸川の骨片を長い竹の箸でパッと取り、手元のハンカチにくるんだ。

 丸子中央総合病院の看護師たちも急いでハンカチに包んだ。飛び上がるほど熱かった。赤塚も骨壺に入れる振りをして、手を伸ばしてポケットに入れた。気づいたらその手に火傷をしていた。

 赤塚はその骨片の1つを、糸川が愛したイスラエルの地に、もう1つを鹿児島県肝属郡肝付町(旧・内之浦町)に立つ糸川英夫像の礎石の下に埋めた。そこは、糸川が秋田の道川海岸に代わるロケット発射場として選んだところだ。今は内之浦宇宙空間観測所がある。そして、わずかな骨片の残りを赤塚の会社に設えた簡素な祭壇に祀った。

 看護師たちが持ち帰った骨片はアンさんに渡された。そのためにこっそりと取ってきたのだ。

「母は大先生と出会い、暮らして、共にいられたことが本当に幸せだったと思います」

 49日を迎えて、彼女は看護師たちとともに、糸川が好きだった静岡県伊東市の城ヶ崎海岸に出かけ、早朝の吊り橋の上から散骨した。

 遠く伊豆七島を一望して、アンさんが大きく手を振ると、博士の灰は青一色の空にパッと散った。一気に撒いた。

 看護師の一人が「残さなかったの?」と尋ねると、彼女は放心したようにつぶやいた。

「いいの、いらないわよ」

 糸川が彼女に遺したものは、古民家だけだった。糸川の死後、離れていく人は多かったが、彼女はそこに住み、最後は糸川と同じ病室で15年後に亡くなっている。彼女の葬儀の後、息子が参列者にこんな挨拶をしたという。

「母は大先生と出会い、暮らして、共にいられたことが本当に幸せだったと思います。皆さん本当にありがとうございます」

 そんな風に言える息子も、言わせたアンさんも堂々として見事だな、と赤塚は思った。

 そんな愛の形もあるのだ。

 赤塚はアンさんの遺骨の一部も持ち帰って、毎日、祈りを捧げることにした。彼女は赤塚の、もう1人の恩師なのである。

 彼のところには、2人の遺骨が安置されている。だから、赤塚は2人の愛の行方を知る墓守ということになる。

(清武 英利/ノンフィクション出版)

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