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「勝っても負けても地獄なら、勝つ地獄の方がいい」内村航平は、銀メダル・体操男子にとって“特別な存在”だった

文春オンライン / 2021年7月27日 17時15分

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表彰台に上った代表選手たち ©JMPA

 7月26日に行われた東京五輪体操の男子団体決勝戦。橋本大輝、北園丈琉、萱和磨、谷川航の4人が全員五輪初出場であるにも関わらず、堂々とした演技でミスなくこなしていく。そして最後の種目の鉄棒で、19歳のエース橋本が高難度の技を次々に決め、一分の狂いもなく着地を決めた瞬間、なぜかロンドン五輪の競泳男子400mメドレーリレーのシーンが思い出された。

「康介さんを手ぶらで帰すわけにはいかない」

 個人種目でメダルを逃した北島康介に対し、メドレーリレーに出場した松田丈志らが発した言葉だった。体操団体の4人も、2日前に種目別鉄棒で落下し予選落ちしたキング・内村航平に思いを寄せ、同じ思いで演技したことは容易に想像できた。

「航平さんを手ぶらで帰すわけにはいかない」

 優勝したROC(ロシアオリンピック委員会)に僅か0.103及ばず、銀に終わったが、

 彼らの演技からそんな思いが伝わってきた。事実、内村の予選落ちを目撃した橋本はこう語っていたという。

「代わりに僕が鉄棒で獲って、航平さんの首に掛けたい。最高に一番きれいな色を、最高に一番似合う人に」

 体操選手にとって内村は特別な存在だった。橋本は内村を心の底から尊敬し絶対的な存在と崇めているし、北園は人生の恩人とも語っている。

「航平さんは、どんなに勝っても常に前に進む」

「中学の時に初めて会ったときは緊張して何も言えなかったけど、航平さんから話しかけてくれて色々アドバイスいただいた。ケガで五輪を諦めていた時も電話をいただいて、『気持ちを切らさなかったら絶対に戻ってこられるから』って。その言葉で生き返った」

 代表歴の長い萱や谷川は、橋本や北園以上に内村の薫陶を受けている。

 コロナ禍の前、何度かナショナルチームの合宿を見学したことがある。互いにライバルであるはずなのに「その技どうやってやるの?」「空中の感覚はどうなっている?」「そのひねり方教えて」などとワイワイ言葉を交わし、まるで小学生が校庭で逆上がりの練習をしているみたいに楽しそうだった。その中心にいたのはもちろん内村。当時一緒に練習していた田中佑典が顔を綻ばせた。

「航平さんは、どんなに勝っても常に前に進む。僕らもこの時点で満足していられないと、また懸命に練習し高みを目指すんです」

 彼らの練習に目を凝らしていた体操ニッポンの水鳥寿思監督は、このチームは水鳥ジャパンではなく内村ジャパンにしたいと語り、選手たちはその方が伸びると語っていた。

「監督の仕事は選手が練習しやすい環境を作ること。それに今の選手たちの技が高度になって理解し難いこともある」

 水鳥監督はアテネ五輪で金メダルを獲得した男子団体のメンバー。それでも今の選手の技についていけないと苦笑い。

 その一方、水鳥監督はリオ五輪後、内村に言葉で伝える重要性も説いた。だが体操の空中感覚はなかなか言語化できない世界でもある。それでも内村は自分の感覚を言葉に転換する努力を重ねた。

「背中を見せれば後輩もついてくると考えていたけど」

「それまでは自分の背中を見せれば後輩もついてくると考えていたけど、自分の感覚を後輩に伝えるためには言葉が必要。感覚的なことを言葉で伝えるのはとても難しいんですけど、でも何とか考えているうちに自分の思考も深まったのかな」

 そしてこうも言った。

「見ている人には、僕らが簡単そうに体操をこなしているように感じるかもしれないけど、実はすごく難しいことをやっているんです。その神髄を伝えるためにも、言葉を獲得しなくてはと考えました」

 私が内村の言葉が面白いと思い始めたのは2017年、日本選手権個人総合で10連覇したときの言葉がきっかけだった。勝利の喜びではなく“地獄”という言葉で表現したからだ。

「もう、地獄ですね…。負ける方が楽になると思っていたんですけど、勝ってしまったので」

 アスリートは誰もが勝利を目指してどんな艱難辛苦にも立ち向かい、内臓が焼け付くような厳しいトレーニングに耐え、身体や技を磨き続ける。長くて暗いその先には、栄光と称賛という人生の至福が待っているからだ。だが、至福を手にしたはずの内村は真逆の言葉を口にした。その言葉の意味がずっと気になっていた。しばらく経ったある日、内村にその真意を尋ねた。内村は一瞬、ニヤリとし矢継ぎ早に言葉をつないだ。

「連勝記録が途絶えれば、次からもっといい演技ができると考えていたのは事実ですが、でも、もし負けていたら絶対に口惜しさでいたたまれなくなっていたはずです。そんな中で、“地獄”という言葉が咄嗟に出たのは、リオ五輪後にプロになって以来、大きな環境の変化があり、練習が上手くできなかった不安、日本選手権では僅差の勝利でもあり、でもそんな状態でも勝ち続けなければならないと思ったりするなど、不安や苦難が何層にも堆積し、ついあんな言葉が出てしまいました」

 それだけではない。“地獄”の言葉にはさらなる深遠な心理が隠されていた。

内村にとって、金メダル以上の価値があるもの

「勝っても地獄、負けても地獄なら、勝つ地獄を味わった方がいい。実は僕、地獄を結構楽しんでいるんです。地獄の状態は僕にとってはいいプレッシャーでもある。だから心理的に、自分自身を地獄に落とそうとしているのかもしれません」

 絶対王者だった内村は、モチベーション維持が難しかったという。そのため、自分を地獄に落としやり、そこから這い上がることをモチベーションにしてきたというのだ。

 自分自身を絶体絶命の状態に追いやり、そこで生き延びてこそさらに強い自分ができると言い、艱難辛苦こそが自分を鍛え、磨き、成長させるチャンスと考えていた。

 そこまでして勝利にこだわったのは自分の栄光以上に、実は、後輩たちへ繋ぎたいものがあるからという。

「僕のやったことって、これまで誰も経験したことがない領域。そこで掴んだものを後輩たちに伝えられたら、彼らは短期間で成長できると思うんです。日本体操界の底上げが、僕にとっては金メダル以上の価値がある」

 内村の薫陶を受けた選手たちは、団体では銀に終わったが、個人総合、種目別の競技は続く。個人総合優勝が狙える橋本は、まだ内村の首に金メダルを掛けるチャンスがある。しかし内村は照れながらきっとこういうに違いない。

「ちょっと待ってよ、僕、まだ引退しないし」

(吉井 妙子)

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