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「スピードで勝てなくても、価格で勝負できる」近鉄vs国鉄、“名阪特急”競争の切り札

文春オンライン / 2021年8月1日 6時0分

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名阪特急 ©️杉山淳一

不死鳥「ひのとり」で新幹線に挑む、近畿日本鉄道・名阪特急の歴史がすごい から続く

 近鉄特急の復活は1947(昭和22)年だ。大阪線の上本町~伊勢中川間と、名古屋線の近鉄名古屋~伊勢中川間で特急が復活した。線路の規格が異なるから直通はできないけれど、伊勢中川乗り換えの名阪特急ルートが復活した。ただし、被災車両のうち良好な車両を修理して使うという状態で、所要時間は4時間以上かかった。

 一方、国鉄の関西本線は優等列車を走らせる余裕はなく、普通列車で5時間以上かかった。東海道本線の急行は4時間前後だ。しかも近鉄特急は指定席を採用し「座れる列車」をアピールして人気となった。

(全2回の2回目/ 前編 を読む)

加速するスピードアップ合戦と人気

 所要時間の回復は早かった。1949年に上本町~名古屋間は3時間25分に。その翌年、1950年には3時間5分となり、戦中の最速列車と同程度に回復。特急の運行本数も年々増えて、1955年には大阪線・名古屋線とも7往復となった。

 国鉄はどうだったか。1949年に特急「へいわ」が誕生し、東海道本線の特急が次々に再開する。しかし、東海道本線の特急は東名間、東京~大阪~神戸間の列車という役割だった。短距離で利用するには割高な運賃設定でもあった。

 国鉄の名阪間スピードアップは1952年に誕生した準急列車の役目だった。所要時間は3時間35分。近鉄より30分遅い。国鉄の反撃は1956年だ。米原~京都間が電化され、所要時間は3時間16分となって近鉄との差が縮まる。こうなると、乗り換えなしの国鉄を選ぶ人も増えてきた。

 追いつかれた近鉄にとって、1956年は名阪特急の躍進の年となった。大阪線の上本町~布施間を複々線化して大阪線と奈良線を分離し、大阪線のスピードアップとなった。名古屋線側も四日市駅を国鉄駅から現在の近鉄四日市に移した。これは国鉄四日市駅に接続するためにあった半径100メートルの急カーブを解消するためだった。両線はそれぞれスピードアップを実現し、名阪間は2時間35分に短縮された。

 国鉄も追撃する。1957年に準急を電化し、1日3往復。所要時間は2時間45分と近鉄に及ばなかったけれども、その差は10分。乗り換えなしの国鉄準急に人気が移った。

 近鉄は速度以外の要素「伊勢中川駅の乗り換えが面倒」で敗北した。こうなると大阪線と名古屋線を直通運転し、乗り換えを解消するしかない。直通運転のために、名古屋線の軌間を大阪線と同じ標準軌に改造すると決めた。しかし、準備も工事も時間がかかる。そこで1957年は改軌準備工事とサービスアップの年となった。特急に冷房装置、続いてシートラジオを搭載。大阪線の特急には公衆電話が設置された。

伊勢湾台風をきっかけに「改軌」「短絡線」

「比叡」と名づけられた国鉄準急は、翌年の1958年には5往復体制となり、新しい急行形電車(91系、後の153系)が投入された。そこで近鉄はサービス競争の新たな手札を切った。高速鉄道としては世界初の2階建て特急電車「ビスタカー」だ。大阪線で運用され、大阪から伊勢方面、名古屋方面の乗り継ぎ客にアピールした。

 しかし名阪間で言えば、国鉄はさらなる優位に立った。1958年11月、国鉄初の電車特急「こだま」の運行開始だ。東京~大阪間を日帰りできるダイヤが組まれ、行ったらすぐ戻ってくるというイメージが列車名に採用された。「こだま」の名阪間の所要時間は2時間14分だ。ついに所要時間でも近鉄より優位に立った。

 ただし、「こだま」の運行本数は1日2往復で、主な乗客は東京~名古屋・東京~大阪間だった。近鉄特急のライバルは準急であり、ビスタカーと増発で対抗できた。もっとも、「こだま」の成功によって国鉄の特急増発は予想できたし、1959年には「比叡」より停車駅を減らしてスピードアップした準急「伊吹」が誕生した。近鉄はますます劣勢となった。そんな中、近鉄にトドメを刺す事件が起きた。

 1959年9月26日。伊勢湾台風の上陸だ。近鉄名古屋線の愛知県内区間は壊滅的な被害となった。近鉄蟹江~桑名間14キロは約2カ月にわたって水没。もちろん特急は運行できない。名阪伊勢ルートは断たれた。これまでの尽力が、まさに水泡に帰す。しかしこの時、近鉄社長の佐伯勇は「これはチャンスだ」と捉えた。予定していた改軌工事が始まれば、いずれ列車の運休、減便は必要になる。ならば、災害復旧と改軌工事を同時進行すればいい。

 約2カ月間の突貫工事が行われ、11月27日に被災区間標準軌による復旧と、既存区間の改軌が行われた。ついでにルートも調整され、急カーブなどの難所を解消し、高速運転向きの路線に改造された。江戸橋~伊勢中川間は、最初は標準軌、次に名古屋直通のために狭軌に改造された線路が、ふたたび標準軌に戻された。

「直通特急」の運行、「名阪ノンストップ特急」の誕生

 12月12日、上本町~近鉄名古屋間の「直通特急」の運行が始まった。伊勢中川駅の停車とスイッチバックがあるとはいえ、所要時間は2時間30分まで短縮された。「こだま」には敵わないまでも、準急には勝った。サービスも抜かりない。直通特急の代表車両として、新型ビスタカー「10100系」が投入された。国鉄準急への追撃が始まる。

 1960年には「名阪ノンストップ特急」が誕生する。実際には伊勢中川でスイッチバックするけれども客扱いのない「運転停車」とし、9往復を設定した。

 次の大改革は1961年だ。さらなるスピードアップを図るため、伊勢中川駅の手前に大阪線と名古屋線を短絡する420メートルの線路を開通させる。これでスイッチバックが解消され、さらなるスピードアップが可能となった。上本町~名古屋回りの所要時間は2時間18分。ついに国鉄の準急、急行に勝利した。大阪側では鶴橋駅にすべての特急が停車するようになり、ノンストップ特急は「甲特急」、主要駅停車型特急は「乙特急」と呼ばれた。

 次のターゲットは「こだま」とばかりにスピードアップが続けられ、1963年9月にはすべての列車をゼロから設定し直す「白紙ダイヤ改正」を実施した。甲特急の名阪間所要時間は2時間13分となり、ついに国鉄特急より早く到達できるようになった。ルートとしては遠回りだったけれども、新幹線と同じ標準軌で安定した走行ができたこと、国鉄路線と違い、特急最優先のダイヤを設定できたことも功を奏した。

 名阪間のシェアは近鉄7、国鉄3。近鉄の大勝利だ。

 しかし、この勝利も長くは続かない。

 1964年、東海道新幹線が開通する。「ひかり」の名阪間の所要時間は1時間8分。従来の半分だ。「こだま」は約1時間半。どちらも近鉄特急より速く、運行本数は1時間あたり合わせて2往復。近鉄に勝ち目はなかった。名阪特急は廃止こそ免れたけれど運行本数は激減。臨時列車並みの2両編成という寂しい姿もあった。ライバルだった国鉄在来線の優等列車も壊滅する。

低価格と居住性で復活「アーバンライナー」

 東海道新幹線の開通で、近鉄は名阪特急という表看板のひとつを奪われた。しかし、近鉄にとって東海道新幹線から受ける恩恵も大きかった。「ひかり」で東京から、「こだま」で神奈川や静岡から、大勢の観光客がやってくる。近鉄は名古屋と京都で新幹線の駅に連絡している。そこで、京都から奈良、橿原神宮へ、名古屋から伊勢志摩へ、特急網を形成した。

 1970年の大阪万博に向けて、上本町~近鉄難波間に近鉄難波線が開業すると、近鉄特急は市営地下鉄各線から利用しやすくなった。とくに新大阪駅から御堂筋線で近鉄難波に到達できるから、大阪~伊勢方面、南大阪線~吉野方面の特急も活気づいた。この傾向は山陽新幹線の延伸も背中を押す形になった。

 名阪間だけみれば国鉄はライバルだったけれど、広大な近鉄特急網にとって、国鉄はありがたいパートナーだ。当時、近鉄に求められたのは観光特急だった。その看板列車として、3番目の2階建て特急電車が投入された。それが30000系「ビスタカー3世」、現在は「ビスタEX」だ。中間車2両を2階建てとし、不人気になりそうな1階席はグループ客用の半個室とした。宴会する人々は景色を観ないといえば、まあ、その通りである。

 1980年代、相対的に人気薄になってしまった名阪特急に、新たな光が差す。国鉄の赤字が問題となり、経営改善策として毎年のように運賃の値上げが行われた。高額になってしまった新幹線を嫌い、そうかといって特急がなくなった東海道本線の各駅停車では我慢できない人々が近鉄名阪特急に帰ってきた。名阪特急は甲特急、乙特急ともに増発された。

 コストパフォーマンスを重視する京阪神の商人気質と、地元の鉄道、近鉄への愛着が奏功して、近鉄は名阪特急の価値を再認識した。近鉄は新たな勝負ポイントとして「居住性」にも注目し、従来の近鉄特急にはない、新たなコンセプトの新型車両に着手する。スピードもあきらめない。大手私鉄で初めて最高速度120キロを実現した。

 1988年。名阪甲特急の新コンセプト「アーバンライナー」こと21000系電車がデビューした。当初は6両編成3本が製造された。2~3両だった名阪特急で6両編成とは思い切った施策で、実はこの3本は2両を外して4両でも運行できる仕様だった。しかし、実際に走らせてみれば盛況で、最少6両編成で8本が導入された。合計で6両編成11本、増結車2両3本も用意されて、多客期には8両編成で運行する。

「スピードで勝てなくても、価格で勝負できる」

 客室は4列座席のレギュラーシートと3列座席のデラックスシートを用意。標準軌とはいえ車体は新幹線より小さいけれども、レギュラーシートは5列座席の新幹線普通車よりゆったりとした空間を整えている。デラックスシートは新幹線のグリーン車に相当する。座席も上等ながら、レギュラーシートとの差額は410円(2005年筆者乗車時)だから、かなり乗り得な設備だった。

 新幹線開業以降、名阪間のシェアは近鉄2、国鉄8と大逆転されていた。しかし21000系の投入でかなり回復した。シェアに関していえば、国鉄の新幹線は圧倒的な座席数があり運行本数も多い。近鉄がどれだけ頑張っても逆転は無理だ。しかし、近鉄が6両または8両の甲特急を1時間に2往復させるぶんの利用者は獲得できた。「足るを知る」というか、新幹線に対しては大健闘と言える。

 2003年に21000系「アーバンライナー」の後継車として21020系「アーバンライナーnext」が走り出した。21000系の登場から15年が経過し、省エネ技術、喫煙や車いす対応など装備面の見直しが必要だ。東海道新幹線が700系「のぞみ」を増やすため、客室設備もグレードアップさせたい。そこで、新形式の21020系を順次導入し21000系と置き換えて、21000系のリニューアル工事を進めた。21000系「アーバンライナー」は、リニューアル後に「アーバンライナーplus」と愛称を変更した。

真打ち「ひのとり」の誕生と、名阪特急の未来

 そして2020年。新たな名阪特急のシンボルとして80000系「ひのとり」が生まれた。その背景として、2012年にハイグレードな観光特急としてデビューした「しまかぜ」がある。従来の「新幹線に料金と居住性で勝つ」という考え方に加えて、「乗車する喜び」という価値を名阪特急にも導入する。もうひとつは、名阪特急がノンストップ戦略をやめて、全列車を津に停車させて名阪ではなく「名三阪」とし、三重県経由を利点としたことがある。スピードは数分余計にかかるとしても、乗車機会を増やす戦略をとった。

 東京から大阪へ行くときに「新幹線で新大阪へ直行するより、名古屋からひのとりに乗りたい」。鉄道ファンだけかもしれないけれど、その価値のある列車だ。

 リニア中央新幹線が品川~名古屋間で開業したとき、大阪へ向かう人は名古屋で乗り換える必要がある。リニア新幹線は急ぐ人の乗りものだから、ほとんどの人は東海道新幹線に乗り換えるだろう。しかし、観光旅行でリニアに乗った人は「ひのとり」が選択肢に入る。名古屋から旅の楽しみが始まっているからだ。大阪市より南側に住む人も、新大阪より鶴橋、上本町(谷九)、難波のほうが便利かもしれない。名阪特急は、新幹線との競争ではなく、共存という新たな関係を築いていくだろう。

 日本では手塚治虫氏の漫画で知られる「火の鳥」は、世界の数々の伝説に登場する不死鳥伝説だ。私の世代ではアニメ『科学忍者隊ガッチャマン』の合体飛行機ゴッドフェニックスと必殺技「科学忍法・火の鳥」だ。「ひのとり」は近鉄特急の必殺技。そして名阪特急復活のシンボルだ。競争よりも共存。平和を願う時代にふさわしい列車名だ。

(杉山 淳一)

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