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《太平洋戦争終戦》「日本人の男は一生奴隷に、女は鬼畜のアメ公の妾に…」多くの“虚偽報道”に半藤一利の父が叱責した理由

文春オンライン / 2021年8月15日 6時0分

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©文藝春秋

《沖縄上陸作戦》「死んでくれ、というのだな」“自殺行”出撃した駆逐艦長に下された異例の“命令” から続く

 『昭和史』や『日本のいちばん長い日』など、数々のベストセラーを遺した昭和史研究の第一人者・半藤一利さんは今年1月に90歳で亡くなられました。太平洋戦争下で発せられた軍人たちの言葉や、流行したスローガンなど、あの戦争を理解する上で欠かせない「名言」の意味とその背景を、わかりやすく教えてくれた半藤さん。

 開戦から80年の節目の年に、「戦争とはどのようなものか」を浮き彫りにした、後世に語り継ぎたい珠玉の一冊『 戦争というもの 』(PHP研究所)より、一部を紹介します。(全2回の2回目/ 前編 を読む)

◆ ◆ ◆

「特攻作戦を中止す。内地へ帰投すべし」

 これをうけた駆逐艦は4隻のみです。その名を残しておきましょうか。雪風、初霜、冬月、涼月の4隻です。いい名前ですね。これらは作戦中止命令をうけると同時に、空襲のやんだ合間をぬって、海上に浮いている生存者の救助にかかり、大和の生き残りも、ほかの艦の生き残りも全員を、海上から救いあげました。もし伊藤の中止命令がなければ、そのまま沖縄へ突っ込んでいき、ほんとうに全滅するところでした。

 大和の乗組員3332名のうち戦死は3056名。他の艦も合計すると、437名がこの特攻作戦で戦死しました。これは、8月15日までの飛行機の特攻隊の陸海合計の死者数4600余人に近い死者数でした。それもたった1日で。何ともいいようがありません。

 伊藤は幕僚たちとの別れを終え長官室に入ると、内側から錠をおろしました。上からの命令に反するかのような意志決定によって、生き残った多くの部下たちを救い、みずからは生きようとしなかったのです。

 もし伊藤の中止命令がなければ……と思うと、「武士道というは死ぬ事と見付けたり」という言葉がはたして日本人に何をもたらしたか、沈思せざるを得ないのです。

 しかしーー捕虜にはなるな 西平英夫

 昭和20年(1945)6月18日、沖縄ひめゆり学徒隊の隊長西平英夫のもとに、陸軍の野戦病院長より電報命令がとどけられました。沖縄攻防戦は最終段階を迎えたのです。陸軍の第32軍司令部は“時間稼ぎの戦闘はもうこれまで”と、覚悟をこの日に固めたのでしょう。

「学徒動員は本日をもって解散を命ずる。自今行動は自由たるべし」

 沖縄第一高等女学校と沖縄師範学校女子部の生徒によって組織されているひめゆり部隊は、それまでに死者19名、ほか負傷者多数をだしていたのですが、なお約180名の隊員が残っていました。彼女らは学徒動員によって召集され、大田少将の電報に記されているように、看護婦として野戦病院で身を捧げて働いていたのです。

何とか生き残れ、しかし捕虜にはなるな

 隊長である先生の西平は、壕内に全生徒を集めて軍の解散命令を伝え、別れの訓示をしました。その夜、沖縄の戦場は青白い月明のもとにかがやいていたといいますから、生徒たち一人ひとりの顔がよく見分けられたことでしょう。

「皇軍の必勝を期して頑張ってきたけれど、残念ながらこんな結果になってしまった。今となっては、われわれに残されている道は国頭突破しかない。

 ……皆がひとかたまりになって行くわけにはいかないから、それぞれ4、5名の班をつくって行くことにする。……しかし、戦線突破は決してやさしいものではない。もし誰かが傷ついて動けないようなことがあったら捨てて行け。戦争というものは不人情なものだ。……不幸にして負傷した場合には、負傷者もその点はよく覚悟をしなければならない。ひとりの負傷者のために皆死んでしまってはなんにもならない。ひとりでも多く生き残らねばならない」

 訓示する先生もつらかったでしょうが、聞いている女学生のほうがもっとつらく、悲しく、はげしく胸に迫るものがあったといいます。そして最後に西平はこうつけ加えます。

「しかし――捕虜にはなるな」

 捕虜になった沖縄女性に関する記事を、戦場で刷られたタブロイド判の新聞「沖縄民報」(「沖縄新報」か?)で、女学生たちは読んでいました。

 生命を惜しんで敵陣に走って捕虜となった女性たちが、多くの米兵にさんざんもてあそばれた末に、軍艦にのせられて、毎夜のように彼女たちの悲しい歌声が海上に流れている、ということを女学生たちは知っていました。

 何とか生き残れ、しかし捕虜にはなるな。この大きな矛盾を、彼女たちは当然のことと胸にうけとめました。つまりは、いざというときには“死んでくれ”といわれているにひとしいことなのです。

 もちろん、タブロイド判「沖縄民報」の記事はいまになればいわゆるフェイクニュース、虚偽の報道であることはわかります。常識で考えれば、米軍がそんな非人道的なことをするはずはありません。

 戦時下には、しかし、非戦闘員の士気を萎えさせないために、闘争心をかき立てるために、さまざまな流言飛語が飛びかいました。あるいは大小の戦争指導者たちが意図的にでっちあげて、流したものが多くあったことは事実なのです。

 当時15歳のわたくしも同じような体験をしています。勤労動員で工場で働いているとき、先生や軍国おじさんからしょっちゅうこういわれていました。

「バカもん。なにをアホなことを考えているんだ」

 もし日本が降伏するようなことになったら、連合軍がやってきて、女たちはみんな凌辱され、男たちは全員が奴隷にされる。お前たちは南の島かカリフォルニアへ連れていかれ、死ぬまで重労働させられるのだ、いいか、わかったか、と。それをわたくしたちは本気で信じていました。

 これなんかも、タブロイド判「沖縄民報」の記事に勝るとも劣らないフェイクニュースであったと思います。

 日本の敗戦が決定した8月15日の夜、工場から家に帰ったわたくしはかなり意気消沈していました。祖国敗亡がしみじみ悲しく思え、どこかさっぱりした顔をしている父にこう聞いたのを覚えています。日本人の男は全員、カリフォルニアかハワイに送られて一生奴隷に、女は鬼畜のアメ公の妾にされるんだよね、と。

 わが父は一喝しました。

「バカもん。なにをアホなことを考えているんだ。日本人を全員カリフォルニアに引っぱっていくのに、いったいどれだけの船がいると思っているのかッ。そんな船はアメリカにだってない!」

「日本人の女を全員アメリカ人の妾にしたら、アメリカ本国の女たちはどうするんだ。納得するはずがないじゃないか。馬鹿野郎ッ」

 このオヤジどのの言葉に、わたくしは目が覚めたのを、いまもよく覚えています。

 少々脱線しました。戦争末期に、いかに流言飛語が日本人の行動に大きな影響を与えたか、これでおわかりいただけるでしょう。

 さて、元へ戻って、6月19日午前1時、ひめゆり部隊の女学生たちの、月明下の脱出がはじまりました。

「先生、行きます」

「気をつけて行けよ」

 あとにつづくのは米軍の砲弾の炸裂音と、幾筋もの赤い火箭でありました。米軍は闇に動くのが女学生とはつゆ知らなかったのです。壕は次第に空間を多くしていき、底知れぬ闇のなかにいつか静まっていきました。

 その後のことは、ひめゆり部隊の記録が伝えています。戦死百余名、生き残ったもの60余名と。沖縄の戦いの県民の悲惨とは、いわば共通してこのようなものでありました。

(半藤 一利)

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