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「僕はそういう表現は使わないです」大谷翔平が“二刀流” という言葉を避ける“決定的理由”

文春オンライン / 2021年8月22日 6時0分

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©文藝春秋

 投げて、打って、走って、守って。メジャーリーグでの大谷翔平選手の勢いが止まらない。しかし、プロ入り直後は「二刀流なんて、ケガをする」「どっちも中途半端になる」「二兎を追う者は一兎をも得ずだ」「プロを舐めるな」など、否定的な意見が飛び交っていた。

 大谷選手自身、そして関係者は当時そのような声をどのように聞いていたのだろうか。スポーツジャーナリストの石田雄太氏の著書『 大谷翔平 野球翔年 I 日本編2013-2018 』(文藝春秋)の一部を抜粋し、紹介する。(全2回の1回目/ 後編 を読む)

◆◆◆

「僕がどういう選手になるかというのは自分で決めること」

 まるで野球少年に出会ったときのように、あえて大谷翔平に訊いてみた。

─どこを守ってるの?

 すると大谷は戸惑いながらもこちらの質問の意図を汲んで、こう言った。

「ピッチャーと外野手です」

─二刀流って言わないんだ。

「僕は使わないですね。誰が言い始めたのかわからないので……僕はそういう表現は使わないです。僕の中ではただ野球を頑張ってるという意識でやってますから、(投手と外野とは)やるべきことは区別して取り組みますけど、(両方やることを二刀流などと表現して)そういうふうに区別することはないかなと思います」

 強い調子の言葉だった。

 二刀流という言葉は使わない。

 それは19歳のささやかな抵抗だった。確かに大谷は誰も歩んだことのない、道なき道を歩くパイオニアでありたいと願った。2012年の秋、日米の球団からその素質を高く評価された大谷は、いったんメジャー志望を明らかにした。しかし日本ハムファイターズからドラフト1位で指名され、翻意する。それは、ファイターズが提案した仰天のアイディアが大谷の心を揺さぶったからだった。 

 それが二刀流である。

若いOBから現役の選手まで、飛び交う否定的な声

 しかし、パイオニアに吹きつける世の中からの風は、決して温かくはない。いつしか二刀流という言葉が一人歩きを始め、その挑戦に対する否定的な声が飛び交うようになる。

「二刀流なんて、ケガをする」

「どっちも中途半端になる」

「二兎を追う者は一兎をも得ずだ」

「プロを舐めるな」

 強面の古参OBだけではない。ユニフォームを脱いだばかりの若いOBから現役の選手まで、プロの野球人の中に、大谷の挑戦を肯定的に捉える声をほとんど聞いたことがない。

 しかし、ファイターズは球団を挙げて大谷を、投手として、また野手として、超一流の選手に育てようとしている。そして、球団の編成責任者であり、現在のファイターズのシステムを作り上げた吉村浩統括本部長も、この二刀流という表現には否定的だ。

どちらかの才能を潰すわけにはいかない

「我々もその言葉は使いません。これが野球とサッカーとかフットボールというのなら二刀流だと思いますけど、野球の中の話ですからね。大谷は投手としての能力が非常に高い。野手としての能力も、抜群に高い。僕らは軸をきちんと持っていて、投手と打者の両方で圧倒的に高い能力を持っているという評価をしているんです。それを両方伸ばすという、それだけのことです。大谷が投打の両方でプロの最高レベルに到達できるという評価をしたのなら、これはどちらかの才能を潰すわけにはいかない。奇をてらったことをしているわけではないんですよ」

 二刀流という言葉が一人歩きしているが、それは特別なことじゃないと吉村は強調する。予算内で効果的な編成をするためにファイターズが2005年、吉村を中心に取り入れたBOS(ベースボール・オペレーション・システム)の構築は、日本球界を驚かせた。一人一人の選手を誰もが把握できるよう、チームの選手、他球団の選手、アマチュアの選手をすべて数値化し、効果的な比較を可能にした。

ドラフト1位を2人獲れたようなもの

 プロでの指導経験がなかった栗山英樹を監督として迎えた2012年。絶対的なエースだったダルビッシュ有をメジャーへ送り出しても、ファイターズはリーグ制覇を成し遂げる。北海道に移って9年、主力の流出を惜しまず、育成選手に手を出すこともなく、ドラフトで獲得した選手をきっちり育て、4度の優勝を勝ち取った。それは、この球団のBOSが機能しているからに他ならない。

 そんな理路整然とした方針を持っている球団が、本気で大谷の二刀流を後押ししている。どれほどの逆風に晒されようとも、決して揺らぐことはない。栗山英樹監督もこう言っていた。

「今年はドラフト1位を2人獲れたようなもの。ピッチャーの大谷翔平と、バッターの大谷翔平。どちらもドラフト1位クラスの逸材なんだから、そりゃ、二刀流だってやりたくなるでしょ。みんな、プロ野球では無理だよって言うけど、最初から無理だと言ってたらすべてが無理。簡単にイメージできるのは、野手でレギュラーを獲って、リリーフでマウンドに上がるという二刀流なんだけど、彼の感覚だと、エースで4番なんだよね。確かに、我々の感覚でもバッティングは必ず4番になれるわけだし、あとはエースになれるだけのものをどうやって作っていくかということ。それをこっちも必死で考えていかないとね」

 二本の太刀を持つことで強くなれるのか、両刃の剣となってしまうのか。大谷の思いとは裏腹に、世の中は二刀流という言葉の持つ、強い響きに引きつけられた。

 しかし、実際にプロ野球の世界で同一シーズンに投手、野手の両方で公式戦に出場した選手はほとんどいない。稀にいるのは本職があって、一時的にリリーフとして登板したり、代打として打席に立ったりするケース。投手として先発し、勝利投手となった直後に今度は野手として先発し、ホームランを放つというような二刀流は藤村富美男、川上哲治など、戦中、戦後の混乱期、選手の数が圧倒的に不足していた時代まで遡らないと見当たらない。

子どもの頃から抜きん出ていた才能

 その後の球史を辿れば、金田正一、江夏豊、堀内恒夫、平松政次、桑田真澄など、バッティングのいいピッチャーはいた。それでも、子どもの頃からのエースで4番を貫いたプロ野球選手は一人もいない。だから、そんなことが叶うはずがないとすぐに思ってしまう。ところが大谷はこうも言った。

「できないと決めつけるのは、自分的には嫌でした。ピッチャーができない、バッターができないと考えるのも本当は嫌だった。160kmを目標にしたときも、できないと思ったら終わりだと思って、3年間、やってきました。最後に160kmを投げられたのは自信になっていると思います」

 高校時代の大谷は、花巻東のピッチャーとして160kmのストレートを投げ、バッターとして高校通算56本のホームランを放った。その才能は子どもの頃から抜きん出ていた。誰よりも速いボールを投げ、誰よりも遠くへ打球を飛ばしていた。

15スイング中11本のホームラン

 大谷が野球を始めたのは、小学2年のとき。社会人野球でもプレーしていた父の徹さんに連れられて、リトルリーグの門を叩いた。当時、岩手県の水沢リトルリーグで事務局長を務めていた浅利昭治さんがこう話す。

「翔平はヒョロッとした子で、背もみんなより少し大きいくらいでした。小学校に軟式のスポーツ少年団があるのに、一人で硬式のリトルリーグに来るなんて勇気ある子だなと思いました。足が速くて肩が強くて、マイペースで無口で、そのくせわんぱくでね。私たち、春に福島の相馬で合宿してたんですけど、あるとき、一人、海に落ちたって報告があって、私、すぐに翔平かって聞きました。そしたら、そうですって(苦笑)。牛若丸みたいにポンポンとテトラポッドを飛んでいるうちに、滑って海へジャッボーンと落ちたらしい。危ないから行くなって言っても行くんですよ、あの子は……」

 息子を水沢リトルに入れた大谷の父、徹さんは、ほどなくチームの監督となった。徹さんが振り返る。

「監督として自分の子どもと接するのは難しい面もありましたけど、野球をするときには監督だから言葉遣いを考えなさいということは徹底させました。その分、家に帰ってすぐ一緒に風呂に入るんです。そこではお父さんとして翔平と野球の話をする。こっちの話を聞いているだけでしたけど、今、考えれば大事な時間だったのかもしれません。中学2年くらいまで風呂には一緒に入ってましたね。こんな話、翔平は嫌がるかもしれませんが(笑)」

何か野球につながるようなことがないかと探す日々

 じつは大谷に、今の自分を作る上でもっとも大事だった時期はいつだと思うか訊ねた。すると、すぐに「小学校の頃です」という答えが返ってきた。

「リトルのとき、初めて全国大会へ出場できました。その目標のために練習をやってきて、それを達成したときは、今までで一番と言っていいくらい嬉しかったんです。5年生のときには準優勝、6年生のときはベスト4だったんですけど、あのときの負けは今でも思い出します。すごく悔しい思いをして、次は優勝してやろうという気持ちで頑張れましたし、そういう悔しい経験がないとそういう思いもできないんだということを知ることができました。最後の1年は本当に必死で練習しましたし、家の中ではずっとボールとバットを持ってました。野球のことがちょっと頭にあるだけで全然違うと思ったので、常にボールを上に投げてみたり、バットを握ってみたり、何か野球につながるようなことがないかと探していたんです」 

県大会のホームランダービーでダントツ

 リトルリーグの試合に出られるのは12歳まで。誕生日によっては中学1年まで試合に出られる子どもと、そうでない子どもに分かれるのだが、大谷は中学1年まで試合に出ることができた。水沢リトルの浅利さんが続ける。

「6年生の頃には岩手県で翔平のボールを打てる子は一人もいませんでした。バッターとしても、通算ホームラン数は35本です。県大会のホームランダービーでも、翔平は6年生なのに各チームで4番を打ってる中学1年の選手たちの中でダントツでした。みんな力むからラインドライブの打球になって、なかなかホームランを打てないんです。最高で15スイング中、3本だったかな。でも翔平は、11本。フワッと振って、バットにボールを乗せて軽々と運ぶから、打球は速いし、いい角度で上がれば飛びます。試合でも翔平がバッターボックスに立つと、外野手には当然、下がれ下がれと言うんですけど、そのうち、内野手にまで下がれ下がれと言うようになりました。翔平の打球は強すぎて危ないんですよ。だから翔平には、ピッチャーライナーだけは打つなと言ってました」

6イニングで17奪三振

 岩手県奥州市を流れる胆沢川。

 その河川敷に水沢リトルのグラウンドがある。東北自動車道と水沢東バイパスに挟まれた、二面のグラウンド。65mのフェンスがあり、ライト側に川が流れている。ここで大谷は中学1年までの5年間、練習に励んできた。ライト側の川の手前には木が並び、その枝に手作りのネットが張られている。浅利さんが説明してくれた。

「翔平ネットです。お父さんたちが一生懸命、作ったんですけど、まったく役に立ちませんでした。翔平は左打ちですから、あの子がバッティング練習をすると全部、川に飛び込んでしまうんです。ですから練習では、アウトコースに投げるからレフトへ打てと言いました。翔平は引っ張り禁止です。何しろボール1個、750円ですよ。翔平に気持ちよく、パキーン、パキーンと打たれたら、チームのボールが何個あっても足りません」

 リトルリーグの最終年、大谷が中学1年のときの水沢リトルは県内で無敗。東北大会も勝ち抜き、全国大会出場を決めた。その準決勝で大谷はとんでもないピッチングを披露する。6イニング制の試合、18のアウトのうち17を三振で奪ったのだ。打たれたヒットは1本、フォアボールはゼロ。大谷が三振を取るたびに、球場はシーンと静まりかえったのだという。監督としてベンチにいた父の徹さんは、息子の才能をこんなところに感じていた。

父も感心する野球センス

「翔平は、教えたことがすぐできるようになりました。その早さには感心しましたよ。教えてもらったことを練習したからと言って、すぐに身につくものじゃないのに、こういう打ち方をしなさい、こうやって投げなさいと教えると、すぐにできるようになる。あれを野球センスって言うんですかね」

 キャッチボールをすれば、みんなが助走をつけて投げ上げ、ツーバン、スリーバウンドでやっと届く距離を、小学生の大谷は立ったまま、ライナーのノーバンで投げた。打てば、引っ張り禁止という環境の中で、強い打球を逆方向へ打つ技術を身につけた。大谷一人が、投げても打ってもずば抜けている。だから、と浅利さんは言う。

「二刀流だって、翔平を小さい頃から知っている私たちにはちっとも不思議じゃない。子どもの頃から誰よりも上のレベルで投げてきたし、打ってきたんですから、栗山監督に両方やってみるかと言われて、無邪気に喜んだんだと思います。翔平は野球小僧ですから、おそらく二刀流だの何だのってことは難しく考えてませんよ(笑)」

【続きを読む】 大谷翔平(23)が語ったスケールの大きすぎる“理想の将来像” 「てっぺん…どこなんですかね」

大谷翔平(23)が語ったスケールの大きすぎる“理想の将来像” 「てっぺん…どこなんですかね」 へ続く

(石田 雄太/Sports Graphic Number)

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