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父親が急逝したとき、奨励会仲間からの励ましの言葉は「将棋を指そう」だった

文春オンライン / 2021年9月8日 11時0分

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加藤桃子(かとう・ももこ)女流三段 静岡県牧之原市出身。1995年3月生まれ。安恵照剛八段門下。2006年9月奨励会入会。2011年16歳で初タイトル女流王座を獲得。女王と合わせてタイトル8期。2019年4月に24歳で奨励会を退会し、女流棋士になった。

 9月下旬に開幕する大成建設杯清麗戦五番勝負。挑戦者は女流タイトル戦の常連、加藤桃子女流三段だ。小学校6年生、11歳のときから24歳まで12年半奨励会に在籍しており、これは女性奨励会員では最長だ。奨励会員の立場で女流タイトル8期。華々しい実績を積みながら、奨励会員で修行中の身という立場もずっと大切にしてきた。

 女流棋士になって実はまだ2年という加藤女流三段に、高校将棋部の熱血顧問で中2のとき急逝した父のこと、有段者で将棋界にも詳しくサポートを続けてくれた母のこと、奨励会での長い戦いなど、これまでの歩みについて聞いてみた。

温泉が好きなので、あるとテンションが上がります

――加藤先生は女流タイトル獲得8期、登場16期と経験が豊富です。たくさんのホテルや料亭で対局されてきました。特に印象的だった宿やおもてなしを教えてください。

加藤 銀波荘(愛知県)に陣屋(神奈川県)、どこも素敵なところですが、常磐ホテル(山梨県)の対局者に1人ずついた「お付きの方」は印象に残っています。執事みたいに何でもしてくださいました。

 もうなくなってしまった料亭の芝苑(大阪)では、床の間のお花が朝はつぼみだったのに終局の頃に咲くと聞いて、終わって見たら綺麗に咲いていました。時間を計算してあるそうです。それに、対局が終わって大盤解説場に向かうとき、草履に足がスッと入るように、鼻緒を立てるようにして並べてくれて、細やかな心遣いに感動しました。あとは、温泉が好きなので、あるとテンションが上がります。

――対局前、対局後と入るのですか。

加藤 検分までに時間があれば、宿に到着したらすぐに1回入ります。

――入ってしまうと、お化粧をし直す必要があるかと……。

加藤 メイクはいつも3分なので大丈夫です(笑)。メイクやコスメに詳しい女流棋士もいるのですが、私はあまり関心がなくて。人前に出たり、女流棋戦で写真を撮られる時にメイクするくらいで、奨励会の例会では、ずっとすっぴんでした。

朝ごはんをしっかり食べて着付けをお願いするのが加藤流

――コロナ禍で、対局時のおやつが別室に運ばれるようになりましたが、食べられますか。

加藤 糖分補給はしたいのですが、女流タイトル戦の場合、3時のおやつの時間はちょうど終盤で、別室に行って食べる余裕はありません。終わってからいただくことが多いです。

――和服を着ることもあります。汚さないように考えてメニューを選んだりはしますか。また、女性の場合は袴をある程度締めるので、食べるとき苦しくなることはありませんか。

加藤 和服でも洋服でも、布のエプロンをお願いして、それを使って食べています。袴のときは、まず朝ごはんをしっかり食べてお腹が膨らんだところで、着付けをお願いするのが加藤流です。そうすると、昼にはご飯が入るくらいには緩くなります(笑)。

――さて、子どもの頃のことを教えてください。お父さまは奨励会経験があり、お母さまは当時の女性としては珍しい有段者とうかがいました。ご両親から将棋を教わったのですか。

加藤 母は静岡県教育委員会の依頼で「静岡ふじのくにゆうゆうくらぶ」という将棋教室の講師を務めていました。私も5歳のときから、その教室の初心者のクラスに参加するようになりました。家では父が戦法など技術的なことを教えてくれました。

私がお腹にいるとき、せっせと「次の一手」問題集を

――ご両親は将棋を通じて知り合ったのでしょうか。

加藤 父は奨励会を退会後、大学院で学んで静岡の藤枝明誠高校の教員になりました。棋道部(将棋部)の顧問として、生徒さんを東京の女流アマ名人戦に引率したときに母と出会いました。4局中2局が母と生徒さんの対戦。その場で自己紹介をして、父は安恵照剛八段門下の元奨励会員、母は安恵八段の師匠でもある高柳敏夫名誉九段が主宰する柳門会で将棋を習っていることがわかって話が弾んだそうです。一目ぼれした父はその後、母にラブレターを送って猛アタック。結婚することになり、静岡県榛原町(現在の牧之原市)で暮らし始め私が生まれました。

――加藤先生は、ご両親に将来はプロになれるよう期待されていたのでしょうか。

加藤 強要されたわけではなく、母は私に好きな道を選んで欲しかったそうです。幼稚園の頃から習い事をたくさんさせてもらいました。最初に始めたのがピアノ。しかし、私は練習が好きではなく、楽譜の隅に絵を描いていました。それを見た母は、「絵が好きなら習ってみれば」と絵画教室に。バレエに体操、サッカーも習ったことがあります。将棋と並行していろいろやっていました。とはいえ、母は私がお腹にいるとき、せっせと「次の一手」問題集に取り組んでいたそうですから、将棋の道に進ませたいという期待はあったのかもしれません。

だんだんと将棋中心の生活に

――お母さまは「将棋胎教」をなさっていたわけですね。将棋と他の習い事の予定がかぶったりしませんでしたか。

加藤 将棋が強くなって、父の高校の棋道部の活動に参加できるようになると、バレエと曜日が重なったら、迷った末バレエをやめると決めたり、少しずつ習い事は減っていきました。日曜日は近隣の支部など、あちこちの将棋大会に出るようになりました。

 よく東京に出て、道場にも行っていました。母の実家が東京にあって出やすかったのです。将棋連盟、三軒茶屋将棋倶楽部、御徒町将棋センターに通いました。三軒茶屋将棋倶楽部では宮田利男先生(八段)に駒落ちで教えていただきました。母が独身の頃、宮田先生にも教わっていて、私が赤ちゃんの時には抱っこしてもらったこともあるそうです。御徒町将棋センターは、東京の大会で知り合った相川春香ちゃん(女流初段)に誘われました。アマ強豪に教えていただきありがたかった。席主や受付の方々も可愛がってくださり、社団戦にも御徒町将棋センターのチームで出ていました。高学年では夏休みの大半を東京で過ごすように。小6の奨励会受験前からは、蒲田将棋クラブにお世話になりました。

――将棋以外にもいろいろやったけれど、だんだんと将棋中心の生活になっていったわけですね。お父様は将棋に関してはすごく厳しかったとうかがったのですが……。

加藤 父は熱血タイプで高校での指導は厳しかったですね。褒めるところは褒めるのですが。部活の最後に反省タイムがあって、そこには重い雰囲気が漂い、「父の指導を受ける高校生は大変だな」なんて思っていました(笑)。全国大会で何度も優勝して、熱血指導の成果はあったのです。高校生と私の対局では感想戦に入って、生徒さんの指し手はもちろん「桃子のこの手が悪かった」とかたくさん指摘してもらいましたね。

「君、何段?」と聞いていた少年は…

 母は私が将棋年鑑の棋譜を暗記していたとき、間違えずに覚えているかテストしてくれたり、勉強のサポートをしてくれました。大会で、先手の相手が棒銀で攻めてきたのに、後手の私も得意の棒銀で対抗してしまったときは、自分から序盤で不利になるような作戦は良くないと叱られたこともありました。

――お母さまは将棋がわかる方ですものね。八代弥七段のインタビューでは、JTプロ公式戦と同時開催されるこども大会(静岡大会)で加藤先生のお母さまが、八代少年と加藤少女が予選で当たらないよう、手合いカードを持っていくタイミングをずらすようにアドバイスしたお話を聞きました。お母さまは、他の強い子にも詳しかったのですか。

加藤 上野の松坂屋デパートの小学生大会に参加したときには、母は「あの子が佐々木勇気君」と気が付いていました。佐々木君は小学生名人戦を小4で優勝したり、私と同学年のスーパースターだから、みんな知っていたかも……。私は予選で当たらないように、離れた席に座った記憶があります。佐々木君は「君、何段? 俺〇段」と周りの子の段級を聞きまくって元気な男の子でした。

「青野先生の秘蔵っ子」という評判

――今はなくなってしまった上野の松坂屋の大会には、強い子が集まっていましたね。1学年上の八代七段と初めて当たったのも、静岡ではなくその大会と聞いたのですが。

加藤 そうなんです。同じ静岡で私が聞いた八代君の評判は「伊東に青野先生(照市九段)の秘蔵っ子がいる」というものでした。八代君は、私が欠かさず出ていた小学生名人戦や倉敷王将戦の静岡県大会に出てこなくて、「どんだけ秘蔵なの」と思っていました。予選を通過し、クジを引いて本戦トーナメント表を見たら、1回戦の相手は「八代弥」。「何て読むのかな。やしろ? あっこれは青野先生の秘蔵っ子!」。

 お互いに「静岡で評判を聞いた子」と気が付いたのに、そんな話もせずに対局し、私が勝ちました。でも、時間切れだったか内容的には八代君が良く、悔しかったみたい。次に対局したJTの静岡大会の準決勝のときは八代君の勝ちで、去り際に「この前の借りを返したね」と言われました。本人は覚えてないそうですけれど(笑)。

――たくさんの大会に出られていますが、県代表になったことはありますか。

加藤 小学生名人戦は代表になれませんでした。八代君は出てなくても、静岡には後に父の学校に入って全国優勝する男子や、奨励会に入る男子などライバルがたくさんいました。

 高学年・低学年で分かれている倉敷王将戦では、高学年・5年生のときに代表になったことがあります。安恵八段が教えている東京将棋会館の教室で、同学年の青嶋君(未来六段)と友達になり、東京都代表になった青嶋君と一緒に倉敷に行った記憶があります(※青嶋六段は高学年の部で全国9位。加藤女流三段は14位)。倉敷では1学年下の朋佳ちゃん(西山女流三冠)と知り合いました。数少ない女の子同士、練習対局をしました。その時の朋佳ちゃんは、三間飛車でしたよ。住所を聞いてずっと年賀状を交換していました。

――加藤先生が最初に注目されたのは、5年生の冬に小学館学年誌杯の大会でグランドチャンピオンになった時ではないでしょうか。小学生メジャー大会で女の子が優勝ということで「将棋世界」にカラー写真が掲載されました。

加藤 そうですね。小学館の大会は各県の代表が争う形ではありませんが、強い子が集まっていました。最初に学年別にトーナメント戦をして、優勝と準優勝計12人のトーナメントでグランドチャンピオンを決める形でした。記憶違いでなければ、5年生の部でずっと負けていた長谷部君(浩平四段)に初めて勝って優勝し、勢いに乗ってグランドチャンピオン決勝では6年生(後に奨励会1級)に勝って総合優勝でき、すごく自信になりました。

女流棋士と将来を決めてしまうのは、まだ早すぎる

――小6の夏休みには白瀧あゆみ杯にアマとして出場し、貞升南女流二段(当時2級)に勝って、「小学生アマが女流プロを破る」と話題になったこともありました。

加藤 もう15年前だから言ってもいいかな。お世話になっていた棋士から貞升さんの棋譜をいただいたのです。当時、女流棋士の棋譜を見られる機会は少なかったのでありがたかったです。それをもとに棒銀でどうすれば破れるか考え、父と研究もしました。東急将棋まつりの中で行われ、会場はデパート。勝ったご褒美に母からメゾピアノのお財布を買ってもらって嬉しかったです。

――その小6の夏に奨励会試験に合格されますね。女流育成会(女流版の奨励会三段リーグのような会で、総当たり戦で1位になるなど一定の成績を収めると女流棋士になることができた。2009年に廃止され、女流棋士資格取得の役割は研修会に移行した)に入れば短期間で女流棋士になれたと思います。その道は考えなかったのでしょうか。「将棋世界」に掲載されたお母様のお話では、「女流棋士と将来を決めてしまうのは、まだ早すぎる。奨励会なら退会後に別の道を選ぶケースもあって道が広いと考えた」ということでした。

加藤 私自身は、母ほど将来のことを考えていたわけではありません。女性大会には出ておらず、いつも男の子と競っていました。強い男の子は奨励会に入るし、自分も入りたいというのは自然なことでした。ただ「女流棋士にならないの?」とはよく言われました。奨励会に入るからには四段を目指すと思って、父とも四段になると約束しました。奨励会を「強い女流棋士になるための勉強の場」と考えたことはありません。

両親のもとを離れ、東京の祖父母の家に

――奨励会には加藤先生より2年前に伊藤沙恵女流三段が入会していました。伊藤女流とは入会前から知り合いだったのでしょうか。

加藤 沙恵ちゃんは1学年上で、小5で小学生名人戦全国3位になるなど、大会で活躍する有名な女の子でした。小4くらいでリコーの将棋合宿(※企業将棋部として最強と言われ、強い子どもや女流棋士も参加する合宿を行っていた)で初めて指してもらったのを覚えています。研修会員だった小5のとき、奨励会員の沙恵ちゃんが指導に来て「桃子ちゃん奨励会に入って。今は女の子1人で話す人も少なくて」と言われました。憧れの沙恵ちゃんに誘われてすごく嬉しく、奨励会に入りたい気持ちが強くなりました。

――6年生で奨励会に入りました。生活はどのように変わりましたか。

加藤 東京のほうが蒲田など強い人が集まる将棋道場もありますし、強くなる環境が整っているので、両親のもとを離れ、東京の祖父母の家に引っ越しました。

沙恵ちゃんがした苦労の半分もしなくてすんだ

――奨励会では伊藤女流三段と仲良くしていたのですか。

加藤 お昼のお弁当は一緒、職団戦の手伝いとか奨励会員のお仕事にも一緒に行っていました。奨励会に女の子が1人なのと2人いるのとでは心強さが全然違います。私は沙恵ちゃんがした苦労の半分もしなくてすんだと思っています。奨励会員同士だから競争相手でもある。将棋の面では、沙恵ちゃんの雁木に勝ちたいと勉強しました。

――八代七段は、伊藤女流三段、加藤女流三段のことを「男子と同じではなかったかもしれないけれど、仲間として受け入れていた」とおっしゃっていましたが、加藤先生はどのように男子ばかりの奨励会に馴染んでいきましたか。

加藤 蒲田将棋クラブに通う奨励会員は「蒲田軍団」と言われ、私も奨励会員になる前から通っていたので、その仲間に入れてもらいました。奨励会では弱いと思われると相手してもらえなくなるから、そこは舐められないように頑張らないといけなかったです。静岡ではほとんど接点のなかった八代さんとも蒲田で話すようになりました。静岡つながりで優しかったというか、練習対局など声をかけてもらいましたね。

 蒲田に来ていたのは、佐々木勇気さんや三枚堂達也さん(七段)、高見泰地さん(七段)、黒沢怜生さん(六段)、杉本和陽さん(五段)、鈴木肇さん(元三段、アマ名人)、他にもお世話になったたくさんの奨励会員がいました。男の子は道場の外で鬼ごっこや缶蹴りをして遊んでいることもありました(笑)。

突然の父の死

――「ねこまど48時間テレビ」の伊藤&加藤のトークショーでは、「女子奨励会員を応援してくれるけれど、四段になれないと思われていた」という話が出ていました。足を引っ張るわけではないものの、無理じゃないかと言われてしまうことはよくあったのでしょうか。

加藤 奨励会に入ってからも、「いいところまで上がったら女流棋士になりなさいね」としょっちゅう言われていました。男子と同じく四段になりたくて奨励会にいるのに、そう見られなくて嫌になっていました。特に棋士に言われてしまうのは重いです。奨励会員にとって棋士は大きな存在で、プロが言うなら無理なのだろうかと考えてしまって……。棋士の先生も悪気があるわけではないと思うのですが。特にご年配の棋士に言われることが多かったです。

――奨励会ではなかなか5級に上がれませんでした。

加藤 2年かかりました。奨励会では勝率5割を下回り、離れても行き来していた両親からは「桃子は潜水艦タイプ」と言われていました。潜っているけど浮上することがある。そのタイミングで上がれると励まされていました。そんななか、中2のもうすぐ夏休みが終わる8月25日に父が急病で亡くなりました。その数日前、元気だった父から「奨励会の白星も集まってきたし、もう少ししたら5級になれるんじゃないか」と言われたのをよく覚えています。

「5級に上がったよ」と心の中で父に報告

――お父様が突然亡くなって、将棋に集中できなくなったりなさらなかったでしょうか。

加藤 ものすごいショックでした。けれど、将棋を頑張る以外に父のためにできることはありません。力になってくれる奨励会員もいました。覚えているのは、高見さんと永瀬さん(拓矢王座)です。高見さんは「応援しているよ」と言ってくれて、「将棋指そう」と誘ってくれました。兄弟子の永瀬さんは、自分の研究会に私を入れてくれたりすごくお世話になっていて、父を亡くした直後は指す機会を増やしてくれました。そのお陰で、積み上げた白星を無駄にせず、父が亡くなって1カ月後の例会で5級に上がることができました。父には心の中で「5級に上がったよ」と報告しました。

――ただ慰めるのではなく、将棋を指せるように接してくれるのが奨励会員の優しさなんですね。永瀬王座にはよく教わっていて厳しいことを言われたこともあったと読んだことがありますが、実際にはどうだったのでしょうか。

加藤 永瀬さんは厳しい面もあるけれど、感謝しています。6級の私を有段の永瀬さんが研究会に入れてくれるなんて普通はあり得ない。何十連敗もしましたけれど、どれだけ勉強になったかわかりません。「桃子ちゃん、昨日の順位戦(の棋譜)は見た?」と聞かれて「まだ全部見てません」と答えたら、「何やってるの?」と言われました。当然勉強しなければいけないことを教えていただきました。

勝ったときのパスタのほうがずっと美味しい

――お父さまが亡くなってからは、お母さまも東京で一緒に暮らすようになったのですか。

加藤 そうです。母は東京で仕事を始め、祖父母と母と私の4人で暮らすようになりました。祖父は昨秋亡くなりました。車で私を例会の朝、将棋会館まで送ってくれたり、蒲田の道場で指して遅くなったら迎えに来てくれたり、たくさんサポートしてくれました。母とは例会の後、渋谷などで待ち合わせて外食をして帰ることが多かったです。私が元気が出るように好物の鰻を食べることもありました。でも、例会で3連敗すると、どんな高級な鰻でも美味しくない。勝ったときのパスタのほうがずっと美味しかったです。

――奨励会時代はかなり勉強されていたと聞きました。1日10時間くらいしていたとか。

加藤 記録係などの仕事がないときは、蒲田の道場で朝10時から夜の7時か8時くらいまで指していました。記録係は多いときで週3くらい。道場や記録係の後でも、帰ってから必ず棋譜並べを8局とか決めて、それは休まずにやっていました。偉いな、自分(笑)。

 並べたのは大山康晴全集とか、羽生先生(善治九段)、佐藤先生(康光九段)の全集です。渡辺明名人の将棋にずっと憧れていて、渡辺名人の全集「永世竜王への軌跡」もずいぶん並べました。

――その時と比べて今の勉強量は。

加藤 かなり減ってしまいました。1つは奨励会員から女流棋士に立場が変わって、お仕事もするようになり、周りのことをいろいろ考えなくてはいけないからです。奨励会時代は自分のことだけを考えて勉強していれば良かったけれど……。ただ、甘いとも思うので、少し前から勉強量を増やすようにしています。

写真=山元茂樹/文藝春秋

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(宮田 聖子)

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