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「かつての存在感はない」「スーファミにも遠く及ばない」プレステ2に大苦戦したゲームキューブからなぜ“ゲームは変わった”のか《誕生20周年》

文春オンライン / 2021年9月12日 17時0分

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「ゲームキューブ」とは一体、どんなゲーム機だったのだろうか ©iStock.com

 2001年9月14日に発売された任天堂の家庭用ゲーム機「ニンテンドーゲームキューブ」は、今年、誕生から20年を迎えました。任天堂の据え置き型ゲームとして、それまでのカセット式から初めてディスク方式を導入し、ソニーの家庭用ゲーム機・PlayStation勢から“ゲーム機の王座奪還”を目指したハードです。

 最終的な出荷数は2174万台。世界的な人気を博したソニーの家庭用ゲーム機「PlayStation2(以下、PS2)」(2000年3月発売)の1億5500万台以上という圧倒的な存在感の前に苦戦する結果になりました。しかしながら、その「次」の世代である「Wii」では任天堂が“王者”復活を果たしており、“その後”を知る現在から見ていくと、「躍進の伏線」がちりばめられていたともいえる存在です。「ゲームキューブ」とはいったい、どんなゲーム機だったのでしょうか。

開発コードネーム「ドルフィン」…ブルーが印象的だったゲームキューブ

 ゲームキューブは、「NINTENDO64」(1996年発売、以下64)の後継機です。開発のコードネームは「ドルフィン」。最初に発売されたモデルの色もブルーが基調でした。立方体の特徴的なデザインで、カセットロムではなく、直径8センチの光ディスクを使用し、ネットワークに接続して遊ぶことも出来ました。コントローラーのデザインも、いまなお高い評価を受けています。

 任天堂は発売当時、ゲームキューブについて「いろいろな楽しさを提供する」と打ち出しました。その言葉通り、家庭用ゲーム機にもかかわらず、持ち運びのしやすいよう取っ手が付いたユニークな本体デザインを採用。また、携帯ゲーム機の「ゲームボーイアドバンス」と連動し、手元にあるゲーム機のモニターを利用して、テレビ画面との二画面を作り出すなどのアイデアもありました。対戦にも力を入れていたように思えます。

 ソフトはと言えば、「マリオ」などの定番はもちろん、不思議な生き物を指揮して戦う「ピクミン」といった従来にないユニークなソフトも登場。「ゼルダの伝説」のグラフィックを大幅かつ大胆に変えた「風のタクト」を世に送り出してヒット作に育てあげ、カプコンの人気ゲーム「バイオハザード」を“ゲームキューブの独占”で発売したことでも話題をさらいました。

 さらに、当時業界を悩ませていたゲーム機の開発費の高騰問題についても、従来より低価格でより容易にソフトが開発できる点をアピールしていました。ゲームハードとしての総合的なデザイン性の高さ、ユーザーに愛されるソフト、開発目線から見た際の問題点の解決と、ゲームキューブはまさに、当時のゲーム機市場でトップを走っていたPlayStation勢に「追いつけ追い越せ」と登場したハードだったのです。

「かつての存在感はない」「ファミコンに遠く及ばない」ゲーム機史上に残る大ヒットハードPS2の壁はあまりに厚く…

 しかし、結果的にPS2との戦いは厳しいものとなりました。

 ゲームキューブ登場時、市場において任天堂は既にソニーの後塵を拝していました。期待された「64」は投入の遅れとソフト不足に加え、「ファイナルファンタジー」や「ドラゴンクエスト」などのビッグタイトルを失った痛手を被り(当時は現在のように複数のハードから同じタイトルのゲームが出る時代ではありませんでした)、ソニーの初代PSに敗れてファミコン時代からの“業界王座”から陥落していました。

 ゲームキューブに課せられた命題は、もちろん“王座”の奪還でした。しかしビジネスで一度失った優位性を取り戻すのは至難の業。任天堂の強気の発言がゲームキューブの発売前後にはメディアに掲載されましたが、1社で市場シェアの7割を占めてしまうほどの圧倒的なPS勢の売れ行きを前に、「とはいえ流石に難しい」というのがほぼ共通の意見だったように思います。実際、2005年の経済誌では総括的にこんな厳しい指摘がなされていました。

〈「ファミコンで社会現象まで起こした据置型においては、かつての存在感はない。現行機ゲームキューブの累計販売台数は1850万台(3月末)にすぎず、6000万台以上売った初代ファミコンや2代目のスーパーファミコン(累計4910万台)に遠く及ばない。1億台が目前のPS2とは大差をつけられ、北米市場ではXboxにも累計販売台数で逆転された」(週刊東洋経済 第5966号(2005.07.02))〉

 ではユーザー目線ではどうだったでしょう。そのころ学生だったという付き合いのある編集者に、当時のゲームキューブの印象を質問したことがあります。その回答は、「任天堂と“心中”する人が購入していたイメージ」というもの。辛辣な評価ですが、使えるお金の限られていた世代から見た、うまい言い回しでもあると思います。当時、ソフトメーカーの出す有力タイトルの多くは、ほとんどPS2で出ていたので、多くのプレイヤーはPS2でこと足りる状況だったのです。

 任天堂にとって、堅調だった携帯ゲーム機によって業績こそ痛手はカバーされていましたが、ファミコン時代と比べて「頭打ち感」は明白でした。

任天堂を「変えた」ゲーム機

 と、ここまで「数字」の面で見ていくと大きく水をあけられたゲームキューブですが、実際ハードとしてどうだったのかといえば、他社と比べても劣らない良質なゲーム機だったと思います。ソフトだって、先に挙げたとおり多くの自社有力タイトルをかかえ、決して「手札が悪かった」とはいえません。

 それでも、PS2の壁はあまりに厚かった。大ヒットした初代PSのゲームソフトを(その次世代機でありながら)そのまま遊べたこと、当時普及し始めていたDVDも視聴可能だったこと……。「大企業」として様々な業界で築いていたリードを、総合的かついかんなく生かしたソニーは、ゲーム機史上に残る大ヒットハードを生みだしたのです。音楽に映像に家電に……と多種多様な業界で知見を重ね、練り上げられたCM戦略も駆使してそれを「ゲーム機」として結実させていくソニーに、他社が正面から挑むのは得策でないのは明らかでした。

 そこで任天堂は、ゲームキューブ以降、従来から方向性を全く変えた「異質な」ゲーム機を送り出す決断をします。そうやって生まれたのが、上下2画面を備えた携帯ゲーム機の「ニンテンドーDS」(以下、DS)と、リモコンを振り回して遊ぶ新機軸の家庭用ゲーム機「Wii」でした。

 それまでのゲーム機の進化は、すなわち「性能アップ」を意味するというのが常識でした。「データ容量が大きくなり、詰め込めるゲーム内容が増え、グラフィック性能や音質が向上する」という具合に、機械としてのスペックをよくすることに意味が見いだされていたのです。

 ところが、「DS」や「Wii」は違いました。操作方法ひとつとっても、タッチペンで画面を触ったり、コントローラー自体を腕につけて振るなど、それまでの「十字キーとボタンのコントローラー」によるゲーム操作の概念をイチからリセットしました。それまでの発想を抜本的に変えて、絶対的な性能ではなく「遊んでくれる子供たちの親に嫌われない」「裾野を広げてゲーム人口自体を拡大する」という、「みんながわいわい遊ぶ」視点に立ったコンセプトで勝負するようになったのです。

 結果、その後の任天堂ゲーム機は大ヒットを連発します。ゲームキューブで“王座”を奪還できなかったものの、そこから浮き彫りになった従来路線の限界から目を背けず、思い切った“改革”に着手し、逆転劇につなげたとも言えるのです。

21世紀がスタートした2001年、時代は転換期だった

 ゲームキューブが登場した2001年は、ゲーム業界にとって波乱の時期でした。マイクロソフトが「Xbox」(11月発売)でゲームビジネスに参入した一方で、その10カ月前の1月、任天堂と長年にわたってゲーム機のシェア争いを繰り広げたセガが「ドリームキャスト」の生産中止とゲーム機ビジネスの撤退を発表したのです。

 当時は「勝ち組」と「負け組」のあまりにも極端な差が明白になった時期でした。一時期のアメリカでは任天堂を上回るほどの市場を獲得したセガが、根強いファンも多かったハード作りを諦め、ソフトメーカーに専念するようになったことは、衝撃であるとともに時代の変わり目を否応なく意識させられる事件でもありました。

「頭打ち感」のあった任天堂に対しても、「セガのようにソフトメーカーになれば良いのでは」という意見が少なからずあった時代です。今にして思えば、それだけ先が読めない時代だったともいえるでしょう。

 ゲームキューブの経験は、任天堂の本格的な変革を振り返る上で、まさにターニングポイントだったといえるのかもしれません。

(河村 鳴紘)

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