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メリー喜多川から赤坂の路上で「郷ひろみのプロデュースから手を引いてよ!」と… 昭和の名プロデューサーが明かしたジャニーズとの“暗闘”秘話

文春オンライン / 2021年10月9日 17時0分

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郷のストイックな姿勢はいまも変わらない

「カーテンを開けると上半身をあらわにした19歳の山口百恵が…」 昭和アイドルとの“秘蔵エピソード”に見る名プロデューサー・酒井政利伝説 から続く

 山口百恵の育ての親として知られ、昭和を代表する音楽プロデューサーとして活躍した酒井政利さんが今年7月16日、心不全のため死去した。85歳だった。

 酒井さんは和歌山県出身。箕島高校、立教大学を経て松竹に入社し、その後日本コロムビアを経てCBS・ソニーに入社。同社のヒットメーカーとして300組以上のアーティストを世に送り出した。

 2018年、酒井さんの半生とその仕事を1冊の文庫本にまとめるため、延べ20時間に及ぶ取材を行なったことがある。もの静かでソフトな語り口の酒井さんが語ったエピソードの中には、昭和を代表する男性アイドルの話もあった。(全3回の3回目/ #1 、 #2 を読む)

◆◆◆

郷ひろみ…中性的な魅力を持った天性のスター

 1970年代から80年代にかけ、トップアイドルとして伝説的な人気を誇った郷ひろみ。彼もまた「酒井プロデュース」の代表歌手である。

「フォーリーブスのバックダンサーをしていた彼の歌を、私が最初に聴いたのは1972年のことでした」

 野口五郎の『青いリンゴ』を軽快に歌ってみせた郷ひろみの甲高い声に、酒井さんは天性のスター性を感じ取った。

「トッポ・ジージョ(当時人気だったイタリア人形劇のキャラクター)に似た声で、アンバランスな中性的な魅力がありました。私は作詞を大御所の岩谷時子さん、作曲をこれまた第一人者の筒美京平さんにお願いして、大々的に売り出すことに決めたんです。デビュー曲のタイトルは『男の子女の子』にしたと岩谷さんに伝えたら『気が狂ったの?』と言われましたよ」

 だが、そんな心配をよそに郷ひろみはデビュー直後から大ブレーク。西城秀樹、野口五郎とともに「新・御三家」と並び称される存在になる。

 ところが、大スターへの階段を駆け上がりつつあった1975年、郷ひろみは突然ジャニーズ事務所を離脱し、バーニングプロダクションへ移籍した。

 ジャニー喜多川氏の秘蔵っ子と目されていた郷ひろみの異例の移籍は、さまざまな憶測を呼んだ。

「ひとことで言えば、ジャニーさんの愛情過多ですね」

 酒井さんはそう振り返る。

「ジャニーズは、少年をスターに押し上げるノウハウを持っています。ただ、少年はいつか大人へと脱皮しますから、そこで必ず壁が訪れるんです。ですからプロデューサーは、歌手本人がいま何を考えているか、いつもその本音を知らなくてはいけない。難しいのは、人の本音というものは、質問するのではなく『読み取る』必要があるんですよ」

 これから大活躍が確実視されていた郷ひろみを横取りされた格好のジャニーズ事務所は激怒した。

メリー喜多川が凄まじい剣幕で「郷のプロデュースから手を引いてよ!」

「郷が移籍して間もない頃でしたか、あるとき赤坂の路上を歩いていたら、1台の高級車がスッと止まり、窓が開いたんです。後部座席から顔を出したのは、メリー喜多川さんでした」

 言わずと知れたジャニーズ事務所の「女帝」で、ジャニー喜多川氏の実姉としても知られたメリー喜多川氏は、行き交う人々をものともせず、凄まじい剣幕でこうまくしたてた。

「酒井さん!  郷のプロデュースから手を引いてよ!」

 所属事務所を変わっても、郷ひろみのレコード会社はCBS・ソニーである。酒井さんはメリー氏と二人三脚でフォーリーブスを売り出し大成功に導いた、いわば同志であり功労者のはずだったが、そうした経緯もおかまいなしに感情をむき出しにするメリー氏には、何度も困惑させられたという。

「猛女ですね。フォーリーブスの北公次が事務所を辞める際にも、本人の決意を動かせないと知ると、今度は臆面もなく潰しにかかるような、子どもじみた部分がメリーさんにあったのは確かです。田原俊彦にしても、SMAPにしても同じようなことがありましたね。言い方を変えれば、ファミリーである限りはどこまでもタレントを愛する、一本気な性格なんですよ。もう、あんな方は出てこないでしょうね」

 SMAPを国民的グループに育て上げたのはマネージャーの飯島三智氏(現・株式会社CULEN代表)だが、その飯島氏をメリー喜多川氏に紹介し、ジャニーズ事務所入りの橋渡しをしたのも酒井さんだった。SMAPの成功により存在感を強めた飯島氏は、あるときメリー氏の逆鱗に触れ、退社を余儀なくされた。そのことについて、酒井さんはひどく心を痛めていた。

1980年代にメディアを騒がせた「熱愛」

 ジャニーズ事務所から移籍した後も、郷ひろみは順調に活躍を続けた。1980年代には松田聖子との「熱愛」が芸能メディアを騒がせたこともあったが、還暦を過ぎたいまも若々しい姿でステージに立っている。

「松田聖子との交際は、うまくいくと思えませんでした。最大の理由は、郷ひろみを芸能界に入れ、彼に対してもっとも影響力があった実のお母さんが、松田聖子との交際に猛反対していたからです」

 芸能界入りする前、同郷の郷ひろみの熱烈なファンであった松田聖子の「恋心」は、CBS・ソニーで郷と聖子を両方担当していた酒井さんにもすぐ分かった。当時、交際の行方を案じていた郷ひろみのマネージャーから相談され、東洋占星術の大家を紹介したこともあったという。

 マネージャーは、その大家にこんなリクエストをした。

「この2人の結婚運を占っていただけませんか」

 紙に書かれた名前は(郷と松田の本名である)「原武裕美」と「蒲池法子」だった。占術家はこう語ったという。

「お2人の結婚は、うまくいかないかもしれません。いまは実運と虚運が重なっていますが、いずれ……」

 マネージャーが沈黙したとき、占術家は逆にこう質問したという。

「このお2人は何か、表現のお仕事をされている方ですか」

 酒井さんが語る。

「松田聖子が、あっという間に郷ひろみと並ぶほどのトップスターに成長したとき、私は恋愛の行方については悲観的になっていました。郷ひろみは、愛されることに慣れていました。自分のほうから本当に誰かを愛するという気持ちが芽生えたとき、初めて恋が成就するのではないかと思っていましたね」

 結果的に2人の恋愛は破局したが、2000年にはデュエット曲をリリースするなど、過去のスキャンダルさえも前進する原動力に変えながら、揃って長い活躍を続けている。

『お嫁サンバ』『林檎殺人事件』…娯楽要素を捨てなかったからこその成功

「郷ひろみの最大の才能は、他人に自分を託すことができる力ではないでしょうか」

 酒井さんはそう語る。

「かつて『お嫁サンバ』(1981年)という歌を郷のために作ったとき、彼は『意味が分からない』『絶対に無理です』と言ってきたんです。でも、容姿が完璧な彼が音楽性、芸術性を追求し娯楽の要素を捨てたら、大衆はついてくることができないですよ。そのことを懇切丁寧に説明したら、彼は最終的に一切文句を言わず、歌ってくれました」

 樹木希林(2018年に死去)とのコミカルなデュエット『林檎殺人事件』(1978年)も大ヒットしたが、もともとアーティスト志向の強かった郷ひろみが「大衆的なスター」として成功した理由は、ある種の「勇気」を持っていたからだと酒井さんは言う。

 テレビドラマ『ムー一族』(TBS系)の撮影の際、台本どおり演技をこなした郷ひろみを樹木が一喝したことがあった。

「あんた、勉強してないね! 台本通りに演じるのはあたり前でしょ。最低3パターンくらいの演技を考えてくるのがプロでしょうよ」

 その言葉を聞いた郷ひろみは、気を悪くするどころか感銘を受け、樹木希林を尊敬するようになるのである。

「郷はそのあと『付き合ってくれるんでしょ? いつよ? 今晩どうなのよ?』なんて希林さんに交際を迫られて目を白黒させてましたよ(笑)。でも、彼は何かに挑む勇気だけではなく、他者の言葉を聞き、受け入れる勇気を持っていましたね。大切な自分を他者に託せられるという意味では、山口百恵さんと同じでした。スターの重要な資質ですね」

 秘話に満ちた黄金の昭和芸能界。さまざまな伝説を残したメリー喜多川氏も、酒井さんの後を追うように今年8月、死去した(享年93)。天上の2人はいま、何を語り合っているのだろうか。

(欠端 大林/Webオリジナル(特集班))

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