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「数え切れないほど行きました」元国連事務総長が来日するたび“東郷神社”を参拝していたワケ

文春オンライン / 2021年10月13日 6時0分

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1992年から96年まで国連事務総長を務めたブトロス・ガリ ©AFLO

「日本を常任理事国にしたかった。でも…」元国連事務総長が“退任から10年”で打ち明けた内幕 から続く

 日本を国連安全保障理事会常任理事国にしたかった――。これは、1992年から96年まで国連事務総長を務めたブトロス・ガリの言葉だ。国連事務総長は2期10年を務めるのが通例だが、彼はアメリカの反対によって2期目に入れず、歴代で唯一、1期5年で任期を終えた“不運な事務総長”としても知られる。

 エジプト出身のガリにとって、なぜ日本はそこまで「特別な存在」だったのか。共同通信社でジュネーブ支局長やワシントン支局長などを歴任したジャーナリスト・会田弘継氏による『 世界の知性が語る「特別な日本」 』(新潮社)から一部を抜粋して紹介する。(全2回の2回目/ 前編から続く )

◆ ◆ ◆

「ところで、日本へ行くと必ず東郷神社に参拝に出向いたそうですね」

 問い掛けに対して、ガリが遠い昔を懐かしむように語り出した物語は、重いものだった。

「家族の思い出にかかわることなのです。私の家族が政治家一族なのはご存知でしょう」

 祖父は英国統治時代のエジプトで首相となり、ナショナリストによって暗殺された(1910年)。叔父は反英闘争、独立運動の闘士で、のちに独立エジプトの外務大臣になった。英国統治時代、叔父はしばしば投獄され、いったんは死罪を言い渡されたこともあったという。1920年前後のことだ。

 そんな叔父が牢獄から出て家に戻ってくる度に、兄であり蔵相などを務めたガリの父と言い争った。父は言う。「英国に逆らってみたところで、どうしようもない。七つの海を支配する英国海軍が、どんなにすさまじい破壊力を持っているのか、お前は知らないからだ」

 独立革命を起こしたところで、英海軍の砲艦がナイル川を遡り、カイロの街を砲撃すれば街はあっという間に廃墟だ――。ミサイル開発以前、航空機による戦略爆撃という思想が完成する前は、砲艦こそが「戦略兵器」だった。

 ガリの父と叔父が語りあったナイル川を遡る砲艦の恐ろしさは、当時まだ記憶に新しかった英艦によるダブリン砲撃を映していたのだろう。

 アイルランド独立運動のイースター武装蜂起(1916年)では、ダブリンの街の中央を流れるリフィー川を英砲艦が遡り、目抜き通りであるオコンネル通りまで達した。そこから、通りの中央にある中央郵便局まで、手前にある建物を砲撃ですべて破壊、郵便局に立てこもった反乱軍司令部は丸裸となり、降参を余儀なくされている。

「いつかはエジプトだってニッポンみたいになる」

 ダブリンに出張した折に、リフィー川からオコンネル通りを中央郵便局まで歩いてみた。300メートルはある。手前は今も、(おそらく当時も)びっしりと建物が並んでいる。砲艦の破壊力のすさまじさを垣間見る思いだった。

 なるほど、浦賀沖にやって来た黒船が江戸湾奥まで侵入した時、いかに恐ろしかったかよく分かる。

 白人に有色人種がかなうわけがない。しかも相手が、世界最強の海軍力を誇る英国となれば、なおさらだ。そんな議論を突き破るように叔父が持ち出したのが、東郷平八郎だったという。

「でもニッポンは違うじゃないか。ロシアの大艦隊だって打ち破ったじゃないか。東郷提督を見ろ。いつかはエジプトだってニッポンみたいになる。東郷が現れるんだ」

 父と叔父の論争はガリが生まれる前後のことだが、幼い頃からこの激しい家族内の論争について聞かされた。子どものころから、周りにいる英国兵に反感を持ち、「英国は敵だ」と思っていた。叔父から投獄体験を繰り返し聞かされていたこともあったに違いない。

外務省の反対を押し切って東郷神社へ

 冷戦期に東西両陣営から距離を置く非同盟運動にかかわった世代のためか、ガリは「北」と「南」という表現で、日露戦争について語った。「南の国だった日本が、北の国ロシアに勝った。エジプトにとって、東郷提督の勝利は、植民地帝国勢力である北に対する貧しい南の国々の勝利だった。植民地解放への動きだと捉えた。だから祝った」

――祝った?

「詩人たちはアラビア語で詩を読んだ。親たちは男の子が生まれるとトーゴーと名付けた。エジプトにとっては偉大な出来事だった。東郷のことなら日本人に教わるまでもない。エジプト人ならみな知っている」

 かつての欧米の植民地における「日露戦争神話」や「東郷神話」について、読んだり聞いたりしたことはあったものの、これほどハイレベルの知識人で、これほど国際化した人物から、みずからの家族の歴史に絡めて直接聞かされたのは、はじめてだった。

 実に「神話」であった。台湾・朝鮮半島に版図を広げ植民地帝国になった日本については捨象されている。日露戦争と東郷だけが、まるで自国の古代の神話の出来事と英雄のようになって、エジプト人のナショナリズムをかき立てていた。

 ガリは長じて国際法学者となり、世界的な名声を得る。やがて、1970年代初めに学術会議で日本を初めて訪れる機会が来た。初めての東京で、当然のように周りに尋ねた。「東郷提督の墓はどこか」。墓ではなく神社が都心にあると教えられ、神宮前の東郷神社に参拝した。幼い日の英雄を祀る施設を訪れることができ、感慨ひとしおだったという。

 以来、東京に来るごとに参拝した。だが、国連事務総長になると、日本外務省は平和のための世界組織、国連の事務方トップであるガリが「軍神」を祀る神社に参拝するのを嫌がった。ガリは日本政府関係者が周りにいない早朝に、そっとホテルを抜け出し、参拝に行ったという。

 午後のパリの陽光を窓の外に望み、時に両手を頭の後ろで組みながら、ガリは幼い日からの自身と日本のかかわりを、懐かしげに語り続けた。

「そういえば、詩人たちの読んだ詩を東郷神社の宮司に送ったこともあった」。日露戦争での日本の勝利を読んだ詩のことである。エジプトの詩について何も知らない私は詩人の名を尋ねもしなかった。ただ、詩にも読まれるほど感動的な出来事だったのかと思うばかりだった。

 そうしたエジプト人の思いや、ガリ家の昔話を聞くと、事務総長だった時代にこの人が半ば無意識のうちに、日本に大きな期待を持ち、応援したのも当然かもしれないと、得心がいった。

国民的大詩人がうたった「日本の乙女」

 東京に戻って、原宿駅からほど近い、明治通り沿いの東郷神社を訪ねてみた。神社には確かな記録があった。ガリは国連事務総長時代だけで4回参拝していた。それ以前のエジプトの外交担当国務相時代にも1回来たという記録がある。本人は「数え切れないほど行った」と言っていた。学者時代も含め「私人」として、何度も来ていたに違いない。

 神社には、国連事務総長ガリが夫人と一緒に、神職らの居並ぶ前で神妙に玉串を供えている写真も保存されていた。ガリが言ったとおり、英語の手紙を添えて送ってきたアラビア語の詩の写しもあった。詩は英訳されており、「日本の乙女」という題だった。日露戦争に従軍した看護婦の姿を、当時のエジプトの詩人が、戦地にいかずして想像豊かに描き出した詩であった。ガリの説明では、ある世代以上のエジプト人ならだれもが知る傑作とのことだった。

  私は日本の女性です。たとえ死の苦しみを嘗めようと、

  自分の望みを達せぬまま引き下がることはありません。

  ……

  天皇(ミカド)は東洋を目覚めさせ、西洋を揺るがせた

  王者と仰ぐにふさわしいお方です。  (杉田英明訳)

 四十対句からなる長詩だ。うたったのはハーフィズ・イブラヒム(1872~1932)。「ナイルの詩人」の愛称も持ち、いまでも親しまれている国民的大詩人であった。

 エジプトにとっての日露戦争とは、そういうことであった。中国近代化の父である孫文(1866~1925)が1924年に神戸で行なった「大アジア主義」演説でも、こんな挿話が語られている。

 孫文が滞在中のパリからアジアに船で戻る途中、スエズ運河に差し掛かると、現地のエジプト人たちがたくさん船に乗り込んできて、孫文が黄色人種なのを見て「おまえは日本人か」と聞く。「ちがう、中国人だ」と答え、「なぜか」と問い返すと、エジプト人たちは「素晴らしいことを聞いた」という。「まもなくたくさんの負傷ロシア兵を乗せた船がスエズ運河を通ってヨーロッパに運ばれる。アジアの東方の国、日本がヨーロッパの国ロシアと戦って勝ったのだ。われわれは自分の国が勝ったようにうれしいのだ」……。

 1924年といえば、幼いガリの父と叔父が言い争っていたころだろう。ガリの「日本の記憶」は、パリから帰る孫文がスエズ運河で出会った、大喜びするエジプト人らの姿を映している。「南の国」ニッポンが「北の国」を打ち破って、希望が見えた。

 それならば、当時の日本人はエジプトをどのように見ていたのか。中東にまで及ぶ大衆の意識があったのだろうか。

共振した両国のナショナリズム

 一般に、日本のイスラム世界への本格的な知的関心は大アジア主義者であった思想家、大川周明に始まると理解される。大川の『復興亜細亜の諸問題』(1922年)はインドを越えてイラン、イラク、エジプト、トルコなどの独立・近代化運動を紹介している。やがて大川はコーランの翻訳者となり、世界的イスラム学者となる井筒俊彦(1914~93)にも影響を与えた。

 大アジア主義者であった大川だったが、そのイスラム圏の知識のベースは欧米の文献であった。欧米のあとを追って帝国化する日本の中に、欧米の知識を用いて反欧米帝国主義の大アジア主義が生まれ、日本帝国主義に利用されていくという、「ねじれ」が見られた。

 それがガリの幼少時、孫文が大アジア主義と題する講演を神戸で行なったころの、日本のイスラム世界へのまなざしだった。もちろん、それ以前にも日本人でイスラムを研究する者はおり、イスラム教徒になる者もいたが、イスラム社会の問題が広く知識社会を通じ政治や外交に影響を及ぼした様子はみられない。

 むしろ、さかのぼって、日本がまだ列強の脅威に怯え、不平等条約の改正に苦心惨憺していたころに、エジプトと精神的交流があった。大きな役割を果たしたのは、明治前半期に生まれた「政治小説」であった。矢野龍渓『経国美談』(1883~84年)と並んで、その白眉とされる東海散士の『佳人之奇遇』(1885~97年)が、一時、日本とエジプトを精神的に引き寄せた。

『佳人之奇遇』は、列強の帝国主義によって祖国を失い、あるいは引き裂かれた弱小民族の悲哀を描き出し、明治の自由民権運動やナショナリズムを掻き立てた。そこに取り上げられた弱小民族には、アイルランド、ポーランド、中国などと並んでエジプトがあった。

 東海散士は本名、柴四朗(1852~1922)。戊辰戦争で朝敵となった会津の人であり、会津落城後の一家悲運の中を這い上り、『大阪毎日新聞』主筆を経て衆院議員になった。『佳人之奇遇』で虐げられた民族のナショナリズムを描いた背景には、自らの家族の悲哀があったのだろう。

 柴四朗は伊藤博文内閣の農商務大臣、谷干城と欧米視察(1886~87年)に向かう途次、セイロン島(現スリランカ)に幽閉されていたエジプト独立運動の敗将アフマド・ウラービーに面会し、その人物に感銘を受けた。さらにエジプトに寄り、人々の苦難を間近に見て、帰国後、続編を書き継いでいた『佳人之奇遇』にウラービーの物語を付け加えた。こうしてエジプトと日本のナショナリズムは、共振した時期があったのだ。ガリの日本への期待のはるかな源流はそこにあったかもしれない。

 ガリとパリで会った3年後、訪日したカイロ大教授の国際政治学者と京都で会って話していて、ふと思いついて「『日本の乙女』という詩を知っていますか」と尋ねてみた。

 すると教授は英語からアラビア語に切り換え、朗々と詩を暗唱し出した。高校時代に習ったという。

「当時の日本人の強い決意を感じる詩でした」

 戦後まもなくに生まれた教授にとって、経済大国になる前の日本のイメージはこの詩に尽きるという。「エジプト人が日本に好意を抱くのは、この詩のせいです」。教授はきっぱりと言い切った。

(会田 弘継)

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