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《コロナ禍の北朝鮮》脱北者が証言する実態「布団から南京虫がブワーッ」「誰も帰らぬ完全統制区域へ粛清も」

文春オンライン / 2021年10月26日 6時0分

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取材に応じた川崎さん ©文藝春秋

 日本と国交もなく、情報がほとんど入ってこない北朝鮮。9月には相次いでミサイルの発射実験を行い、日本との関係はもちろん、国連の安全保障理事会が緊急会合を開くなど国際的に緊張感が高まっている。10月19日午前にも北朝鮮から発射された弾道ミサイル2発が日本海に落下した。

 そんななか、10月22日に北朝鮮国内の人権状況を調査している国連の特別報告者が記者会見で、北朝鮮で食糧が不足し、子供や高齢者が飢餓に陥るおそれがあると指摘した。北朝鮮では新型コロナウイルス対策で国境を封鎖したことで、申告な物資不足に陥っているとみられている。

 こうした北朝鮮の事情を知る上で、貴重な情報を持つのが、現地で生活しており、現在の日本に約200人いるという「脱北者」だ。

「いま、北朝鮮は新型コロナウイルス対策といって陸海空を封鎖していますが、私がいた“一番ひどい頃”と同じような状況になっているのを国際社会に隠したいだけではないのでしょうか。残してきた家族が、心配でたまりません」

 10月某日、東京都内で文春オンラインの取材に応じた脱北者・川崎栄子さん(79)は、そう述懐した。川崎さんは戦後しばらくして北朝鮮へと渡り、約40年間にわたって厳しい生活を送り、その後脱北した。

 川崎さんと同様に北朝鮮へ渡った男女5人が、いま北朝鮮政府に5億円の損害賠償を求め訴訟を起こしている。10月14日には東京地裁で第1回口頭弁論が開かれ、川崎さんも法廷に立った。

「個人が特定される危険があるので、具体的なことは言えないこともある」

 そう語る川崎さんだが、語られたその半生は壮絶だった――。(全3回の1回目/ #2 、 #3 を読む)

京都生まれでルーツは韓国にある川崎さん

 1942年、川崎さんは在日コリアン1世の両親の元、京都で生まれたという。

「父は韓国から日本へ一人で出稼ぎに来ました。最初は大阪のガラス工場で働いていたようですが、後に多くの在日コリアンと同じように土木業に携わっていました。そして同じく韓国出身の母と出会い、私が生まれたんです。ですから北朝鮮には私のルーツはありません」

 その後、公立の小中学校を経て、高校は朝鮮学校に進んだ。

「戦後しばらく日本の経済状況は良くなくて、在日コリアンが邪魔になっていたんですよね。ただでさえ仕事が少ないのに、日本人の仕事を“奪う”存在だった。そんな中、朝鮮戦争後の北朝鮮は、復興のために労働力を必要としていました」

 当時、北朝鮮は“地上の楽園”であると喧伝され、1959年頃から在日朝鮮人やその家族を北朝鮮へと呼び戻す「帰還事業」が始まった。

17歳で“地上の楽園”北朝鮮へ 直面した「真実」

「北朝鮮へ渡れば税金はないし、教育や医療はタダ。家もタダ同然だし、居住地や学問も自由。民主主義や自由は全て守られている、といった内容でした。これをみんなで盛り上げて、誰も否定しない。日本政府も、朝鮮総連ももちろんそう。朝日、産経、どの新聞も、北朝鮮を良く言う記事を書いていましたよ。私のように多くの在日のルーツは韓国だったこともあり、北朝鮮の情報があまりなかったので、当時共産党で視察に行った寺尾五郎氏の『38度線の北』という本はみんな読んでいました」

 こうした喧伝文句は、厳しい戦後日本を生き抜く多くの人々にとって、希望そのものだった。そして当時17歳だった川崎さんも、北朝鮮への渡航を決意した。

「私は、独裁者を否定していたので金日成を礼賛する歌を歌わないなど、少し変わった生徒でしたが、やはり洗脳されていたんでしょうね。家族に先立って、1年後に合流することを約束して『社会主義国家を経験しよう!』と一人で“帰国”する決断をして、誰も親戚のいない北朝鮮に向かいました」

船上で「持ち込んだすべての食べ物を捨てろ」

 北朝鮮によって無理やり拉致された拉致被害者と異なり、“自ら”向かった川崎さんたちは「帰国者」と呼ばれている。この帰還事業によって、1959年から約25年の間に在日韓国、朝鮮人と日本人の妻など9万3000人以上が北朝鮮に行ったという。

「私が北朝鮮に渡ったのは1960年です。何月かは言えません。新潟まで行き、そこからはソ連籍の船に乗りました。異変にはすぐに気づきました。日本の領海を出て日本の警備船がいなくなると、『持ち込んだすべての食べ物を捨てろ』と言われたのです。日本の植民地だった国だから喜ばれない、という説明でしたが納得は出来ない。でもみんな“地上の楽園”を信じて乗り込んでいるので、しぶしぶ従って。船のまわりの海には、捨てた羊羹やフルーツ、寿司などがぷかぷか浮かんで、異様な光景でした」

栄養失調でガリガリに痩せた何千もの人々が旗を振って…

 そしていよいよ北朝鮮が見えてくると、抱いていた疑念は確信となった。「すべての渡航者が『騙された!』と感じた」という。

「向かった先は清津(チョンジン)でした。船内で『あれが清津です』とアナウンスされるとバンザイが起こりましたが、実際に港に入ると想像していなかった光景が広がっていました。北朝鮮で3番目に大きい国際港と聞いていたのに、クレーンが1、2基あるだけで倉庫もない。しかも街全体が黒いんです。街路樹、建物、道……。埠頭には何千人もの人が集まっていて旗をふっているのですが、みんな栄養失調というか極端に痩せていました」

 後日、歓迎する側だった人に聞いた話では、北朝鮮では帰還事業について「日本で生活が成り立たず路頭に迷っている人を救う」と説明されていたという。しかし現地の人の目には日本で生活していた川崎さんらは栄養状態や身なりもよく、「空から降りてくる仙女様のようだったと言われました」。

 北朝鮮にたどり着いた頃には、川崎さんらはすでに失望と不安の只中にいたようだ。入国の手続きを終え、ある地方都市へ向かわされたが、道中の景色も衝撃の連続だったという。

「道は舗装されていなくて、朝鮮戦争による爆弾のあともたくさん残っていました。ガリガリな牛が荷物を運ぶ牛車は怖くて、見ると動けなくなりました。

北朝鮮生活で常に苦しんだ「食糧問題」

 最初に連れていかれたのは、専門学校の寄宿舎でした。ベッドの中に入ると布団がモゾモゾしたんです。何かなと思ってめくると虫がブアーって逃げていった。南京虫です。体中をかじられて病院に行き、紫色の薬を塗られておばけみたいになりました」

 まず衛生環境に面食らったが、この後40年を超える北朝鮮生活の中で常に問題として川崎さんを苦しめ続けることになったのが「食糧問題」だ。

「最初の夜の食事では、ボコボコになったアルミニウムの皿に盛られたご飯と、塩水に山菜が浮いているスープのようなものでした。コーリャン(キビのようなもの)が入っているんですが、小さくてなかなか噛めないんです。口に合わなくて、10日間くらい絶食したこともあります。

 国からの配給は、高校生以上で1日に乾いた量で700グラム。コーリャンとか芋とかトウモロコシです。案外多いと思うかもしれませんが、ほかに肉も魚もないわけです。仕事を欠勤とかするとさらに減らされます。まったく足りません。大豆がまるごと配給されることもありますが、油が抜かれていないので消化ができない。帰国者はみんな、消化器系の病気になっていました」

「帰国者は最低身分。粛清されれば鉱山や炭鉱へ」

 過酷な生活環境である上、日本からの帰国者はさらに身分差別にも苦しまされたそうだ。

「『成分』と呼ばれる身分制度が北朝鮮にはあるのですが、帰国者はそれが下の方なんです。常にスパイ容疑をかけられていました。だから結婚でも苦労しました。

 大学を卒業した後、機械工場の設計室で働いていたのですが、そこで働いていた別の事務所の地元の人と結婚しました。しかし姑がものすごく反対した。帰国者と結婚すると、その人も同じ身分の扱いになるので出世できなくなるんです。北朝鮮で出世できなくなると生活は厳しくなる。配給だけでは足りないから、みんな賄賂とかをもらってそれで闇市で肉とか魚を買うしかない。姑のいびりは、ずっと続きました」

 そして北朝鮮での生活で最も危険なのが「粛清」だ。

「保衛部というところがあります。警察の一部署だったのが、70年代に入ってから分離されて、警察の上に君臨するようになった。本当にささいなことでも、政府への不満を言うと首につながってしまう(命を落とす危険がある)。その後に処刑されてしまうケースもありますが、強制労働をさせられることが大半です。

 同じ時期にどんどん強制収容所に送られるようになりました。地元の人も多かったですが、日本人妻の家族はターゲットになりやすかった。収容所は鉱山とか炭鉱にあります。収容所の中には生きて出てきた人のいない、完全統制区域もありました」

家族へ「北朝鮮に来るべきではない」と伝えたいのに…

 川崎さんには1年後に北朝鮮で合流することになっていた家族がいたが、なんとしてでも阻止したかった。「(当時小学校4年生の)弟が結婚したらお嫁さんと一緒に会いましょう」などと、北朝鮮に来るべきではないと暗に伝える手紙を送ったところ、川崎さんの意図が伝わり、両親や弟ら家族は北朝鮮に来ることはなかったという。

 現地で出会った夫と家庭を持ち5人の子供が生まれ、生活は苦しいながらも、日本からの仕送りの服などを闇市で売るなどしてなんとか生活を続けた川崎さん。しかし、1994年から2000年頃まで続く“最悪の時代”が訪れる。

「金正恩は、今年4月にコロナ禍の北朝鮮に対して『苦難の行軍』という言葉を使いました。これは大食糧難だった最悪の時代にも使われた言葉なんです。今の北朝鮮はあのときと同じような状況になってしまっているのではないか……。餓死者が出ているという報告もあり、心配で仕方がありません」

 川崎さんから語られた“最悪の時代”の体験は、筆舌に尽くしがたい壮絶なものだった。

【 #2に続く 】

「人肉冷麺を売っていた紳士的な知識人が逮捕された」食糧危機の北朝鮮に横行した“人肉殺人事件”《脱北者が証言》 へ続く

(「文春オンライン」特集班/Webオリジナル(特集班))

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