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「首相なんて大体バカな奴がやるもんですよ」保身のためか国の未来を案じてか…大物政治家たちの衝撃的な“愚痴”4選

文春オンライン / 2021年11月14日 6時0分

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伊藤博文氏 ©文藝春秋

 誰にとっても、人生は順風満帆なことばかりではない。それだけに、愚痴を吐いてその場をやり過ごすしかないことも数多くあるだろう。歴史に名を刻む偉人たちであろうと、それはかわりない。

 その証拠に、歴史・文学研究家の福田智弘氏による『 人間愚痴大全 』(小学館集英社プロダクション)には、偉人たちの大小様々な不平不満が数多く収録されている。ここでは同書の一部を抜粋。有名政治家たちが思わずこぼしてしまった衝撃的な愚痴を紹介する。(全2回の1回目/ 後編 を読む)

◆◆◆

これは幕府はとても駄目だ/勝海舟(政治家)

 1823年~1899年。幕臣、政治家。本名、義邦(よしくに)、通称、麟太郎(りんたろう)。有名な「海舟」は号。蘭学などを学び、幕府海軍の創設等に尽力して軍艦奉行などを歴任。明治維新後も参議、海軍卿などに就任している。坂本龍馬の師としても知られている。

 1860年1月、1隻の船が品川港を出港。一路アメリカ大陸を目指した。

 船の名は「咸臨丸(かんりんまる)」。蒸気機関と帆を併せ持つ機帆船で、日本人の運航による初の太平洋横断を目指していた。艦長は、幕臣・勝海舟である。

 勝海舟は、本来なら幕府を代表し艦長として太平洋を渡るような偉い身分に生まれた人間ではない。武士は武士だが下級幕臣の出で、子どもの頃から貧乏生活を送ってきた。生家は

「餅を搗(つ)く銭がなかった」

 と、後年回想しているくらいである。所帯を持っても、貧乏生活は続いた。人一倍学問には熱心だったが、書物を買う金すらなかった勝は、ひたすら本屋で立ち読みして知識を得たという。

 しかし、江戸の町にはまだ人情があった。本来なら立ち読みばかりされて迷惑がるはずの本屋の主人は、むしろ彼を親切に扱った。熱心さを買い、支援を申し出る金持ちたちもいた。下町の人情に助けられ、海舟は貧しいが、西洋事情に詳しい一角の人物となっていった。

 やがて幕府が海軍伝習所を開くと、そこで学んで日本随一の「海軍通」となり、咸臨丸の艦長にまで出世することとなったのである。

 さて、無事に太平洋横断を果たした咸臨丸が帰国の途に就き、浦賀港に入港すると、いち早く船中に押し寄せてきたのは、快挙を称える人たちではなかった。幕府の捕吏、今でいえば警察官である。

「無礼者め、何をするのだ」

 と問えば、捕吏はこういった。

「数日前、井伊大老が桜田(門外)で殺された」

 犯人は水戸藩出身者なので、水戸藩の人間が船中にいないか捜査に来た、というわけだ。無論、咸臨丸に怪しい者は乗っていなかったから、捕吏の取り調べもとくになく、その場は終わった。

 その時、勝は初めて井伊直弼の暗殺を知ったという。幕府のトップが一介のテロリストに暗殺されてしまったのだ。

「これは幕府はとても駄目だ」

 とその時、勝は思ったそうだ。しかし、それでも勝は、その後も幕府海軍の強化などに懸命に尽くしている。

 ところが、勝の予感通り、桜門外の変以後、反幕府派は勢いを増し、わずか7年で幕府は崩壊した。その後、旧幕府(徳川家)の息の根を止めんと、新政府軍が江戸へと進軍してきた時、新政府軍を率いる西郷隆盛と面談して江戸での戦乱を未然に防いだのも、勝であった。

 ひょっとすると、「幕府はもう駄目」だと認識してからの勝は、幕府のために尽くしたのではなく、その先を見ていたのかもしれない。幕府も、反幕府派もない。新しい「日本」のために、力を尽くしていたのかもしれない。

(降格人事は)とても請けられない/伊藤博文(政治家)

 1841年~1909年。長州藩出身の政治家。内閣制度を創設し、初代内閣総理大臣となる。その後も枢密院議長などになり、大日本帝国憲法発布に尽力するなど日本の近代化に大きく貢献。のち初代韓国統監となったが、ハルビンで暗殺された。

 初代内閣総理大臣になったことでも知られる伊藤博文は、長州藩(山口県)出身。若い頃は松下村塾で吉田松陰の教えを受け、幕末の志士として倒幕に尽力していた。

 伊藤が他の志士たちと違っていたことといえば、22歳の時に藩命でイギリスへと留学していたこと。江戸幕府が健在であった時代に、海外を自分の目で見た経験がある者は非常に少ない。この経験はのちのち伊藤の武器ともなる。

 やがて江戸幕府が倒れ、明治新政府が動き出す。その中心にいたのは、岩倉具視、三条実美などの公家と、薩摩藩出身の西郷隆盛や大久保利通、長州藩出身の木戸孝允らであった。彼らと比べると若い伊藤は、政府の中枢とまではいえないものの兵庫県知事、大蔵少輔(しょうゆう)などの重職を担った。

 とはいえ、日本の政治の中心にいたわけではない。江戸時代にあった「藩」をなくし、新たに「県」などを設け中央集権制を確立する「廃藩置県」などの大改革は、伊藤が大阪で別の仕事をしている時に断行された。つまり、これらの大改革に、伊藤は直接絡んでいないということになる。

 明治の世となり生まれ変わった日本を、若い頃に見て学んだ欧米の国々のようにしたい。そんな思いが誰よりも強い伊藤にとって、自分が改革の中心にいられないという現実を目のあたりにしたことは、相当悔しかったに違いない。

 しかも、その直後、伊藤は「租税頭(そぜいのかみ)」に任じられる。決して軽い職ではないが、これまでの大蔵少輔から比べれば、格下げ人事といってよい。

 伊藤は、長州藩の先輩である木戸に

「とても請けられない(降格などイヤです)」

 と、愚痴を綴った手紙を送ったが、人事がくつがえされることはなかった。

 実は、この頃、政府内部では外国通の伊藤らが急進的な改革を求めすぎるため、少々煙たがられていたようなのだ。なにせ頼りにしていた木戸までが

「(伊藤は)彼(かの)遠(とおく)を知って、いまだ皇国の有様(ありさま)を詳(つまびらか)にせず」

 と日記に記している。つまり、「外国事情には詳しいかもしれないが、日本の状況がわかっていない」「理想ばかり先走りして現実を踏まえていない」というのだ。このように若き伊藤には、政府内で思うように活動できず、愚痴をいっていた時代があったのである。

 ところが、それから6、7年ののちに西郷、大久保、木戸が相次いで命を落とす。ついに伊藤が政治の中心に躍り出る時が来たのだ。その後、内閣制度を確立し、初代首相にもなった。まだ44歳。以降の歴史を見ても最年少の首相だ。

 苦難の時を経て、以後20年以上、政界のトップの座に君臨したのである。

もういい加減にせぬか/木戸孝允(政治家)

 1833年~1877年。長州藩士。兵学等を吉田松陰に、剣術を剣豪斎藤弥九郎に、洋式兵術を江川太郎左衛門に学ぶなどして文武両道で名を成す。のちに薩長同盟を締結して倒幕で活躍。明治新政府でも参与となり、その中枢として活躍した。

 木戸孝允(桂小五郎)は、幕末維新期に活躍した武士であり政治家だ。西郷隆盛、大久保利通とともに「維新の三傑」と呼ばれている。しかも、残された肖像画を見てみると、洋装、和装どちらも似合っていて、なかなかのイケメンだ。一方、剣術の達人でもあり、のちに「五カ条の御誓文」起草に関わったことからもわかるように文筆も達者である。幸運の女神にえこひいきされているかのようにも思えるのだが、実は彼の人生、それほど幸運に恵まれていたわけではなかった。

 彼の属していた長州藩は、幕末の世にあって尊王攘夷、反幕府の中心的役割を担っていた。しかし、1863年、八月十八日の政変が起こり、長州藩士らは京を追われることになる。それでも、木戸は以後も密かに京都に潜伏し、復権の機会を探り続けた。

 その間、何度も命の危険にさらされ、幕府側の人間に捕縛されそうにもなった。浮浪者同然の姿になって橋の下に隠れていたこともあったという。

 しかも木戸は、保守的な藩の上層部と過激な志士たちの間に入り、調整役を果たしてもいた。つらい仕事である。

 その後、藩内では反対意見がある中、薩摩藩と薩長同盟を締結。これが契機となって、薩長ら新政府軍は倒幕を果たす。念願の明治政府ができ、木戸はその中枢を担うこととなる。

 こうして、これまでの苦労が一気に払しょくされるかに思えた。しかし、木戸の苦労はまだまだ続いたのである。

 急造の明治政府内では、意見の対立もあり、なかなか思うようには仕事が進まなかった。1873年には外交方針の対立から板垣退助、江藤新平、西郷隆盛らが下野。その後、板垣らは国会を開設するよう要求し、江藤新平らは反政府の兵を挙げた。問題山積みの中、政府内では大久保利通らと対立し、木戸は一時政権を離れてもいる。

 その後、伊藤博文らの仲介もあり、政府に復帰するのだが、その頃から、徐々に健康状態が悪化していく。政権内では、大久保利通が独裁体制を築きはじめ、木戸は徐々に孤立しはじめる。

 その時、驚くべき一報が入る。一緒に薩長同盟を締結した仲間であった西郷隆盛が、鹿児島で反政府の兵を挙げたのだ。西南戦争である。病床でその行方を見守っていた木戸は、弱まる意識の中、

「おい、西郷、もういい加減にせぬか」

 と語ったという。一説によれば、これが最後の言葉だったともされる。

 これは、もちろん反乱を起こした西郷に対する言葉である。しかし、木戸の人生を振り返りながら読み返すと、まるで、振り払っても振り払っても、次々に巻き起こってくるさまざまな困難に対していい放った言葉のようにも思えてくる。

首相なんて大体バカな奴がやるもんですよ/吉田茂(政治家)

 1878年~1967年。東京生まれ。土佐出身の政治家竹内綱の5男。吉田健三の養子。牧野伸顕の女婿。駐伊・駐英大使などを歴任。戦後5期にわたって首相を務め、主権回復を実現。「ワンマン宰相」とも呼ばれた。池田勇人、佐藤栄作らも育てた。

 吉田茂といえば、戦後復興期に5次にわたって首相を務めた人物である。在任中には日本国憲法の制定やサンフランシスコ講和条約の締結、主権回復などが行われた。戦後、日本を新たに生まれ変わらせた政治家といっても間違いではないだろう。

 その吉田が、政界引退後、84歳の年に文藝春秋のインタビューを受けて

「首相なんて大体バカな奴がやるもんですよ」

 と語っている。もちろん、自身長く首相を務めた人物であるから、かなり自嘲気味の愚痴である。

 このセリフは、文藝春秋の人が、元首相同士の対談を持ちかけた際の一言である。どうして「首相なんてバカな奴がやる」ものだといったかというと、

「首相に就任するや否や、新聞雑誌なんかの悪口が始まって、何かといえば、悪口ばかりですからね、この世にこんな大バカはないように書かれます」

 と、首相がマスコミに叩かれてばかりの損な商売だと告げるとともに、首相を「バカ」と報道し続けたマスコミに対し

「そんなバカばかり集まって話をしたって面白かろうはずがないじゃありませんか」

 と、皮肉をいっているのだ。

 一方で、同じインタビューの中では

「私は御承知のように、(首相には)なりたくってなったわけでない」

 ともいっている。本当だろうか。

 吉田は東大卒業後、外務省に入った。元は政治家というより外交官だった。駐英大使などを経験した「親英米派」で、戦時中、和平工作をしていたことなどから収監も経験している。

 しかし、その経歴が、戦後、GHQの指導の下、民主化に走る日本の指導者としてはうってつけだった。終戦後、すぐに外相に就任。とはいえ、占領下にあった日本に本来の意味での「外交」など存在しない。この時期の外相の仕事とは、つまりはGHQとの「窓口」である。

 終戦の翌年、戦後初の衆議院総選挙が行われ、第一党となった自由党総裁鳩山一郎が首相となる……はずだった。しかし、鳩山はGHQにより公職追放となってしまう。

 その鳩山から直接、後を託されたのが吉田である。この時、彼は確かに一度断っている。予定外のことでもあったろうし、自由党は第一党といっても過半数には及ばない少数与党だった。

 とはいえ、厳しい現況下、GHQにも顔が利く吉田の首相就任は絶対に必要だった。結局、第二党の進歩党も連立に参加して吉田内閣が発足した。以来日本を長年率いていくことになる。

 このインタビューの5年後に逝去した吉田茂。「バカな奴」と自重した男の葬儀は、国葬となった。

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家賃を18カ月滞納した大作家、子どもの衣類がないと訴える経済学者…歴史的偉人たちの生々しすぎる“金欠”苦労 へ続く

(福田 智弘)

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