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あの欽ちゃんが記者会見で「ぼくは芸能界を…」亡き妻・スミちゃんを怒らせたプロポーズとは

文春オンライン / 2024年8月31日 6時0分

あの欽ちゃんが記者会見で「ぼくは芸能界を…」亡き妻・スミちゃんを怒らせたプロポーズとは

欽ちゃんとスミちゃん夫妻と長男(写真提供:佐藤企画)

 国民的スターの“欽ちゃん”こと萩本欽一さんと妻の澄子さん(スミちゃん)を描いたスペシャルドラマ「欽ちゃんのスミちゃん ~萩本欽一を愛した女性~」が8月31日午後9時過ぎから日本テレビ系「24時間テレビ」内で放送される。

 欽ちゃんが妻の死後に最初に明かした秘話を『 ありがとうだよ スミちゃん 欽ちゃんの愛妻物語 』(文藝春秋刊)から一部抜粋してお届けします。

◆◆◆

 夏の暑い盛りだった2020年の8月の終わり、ぼくの奥さんが亡くなった。

 彼女の名前は澄子さん。スミちゃんと呼んでいて、ぼくより3つ上だから、82歳だった。四年前に癌があると分かってから、ずっと闘病を続けていてね。最期は病院のベッドで静かに息を引き取ったんだ。

 スミちゃんはぼくの妻というよりも、「三人の息子の母ちゃん」という感じでさ。お葬式についても、ぼくの知らない間に息子たちにこう伝えていたらしい。

「とにかく普通のお葬式にするんだよ。賑やかなのはヤメてね」

 そうだよね。ぼくがお葬式をやったら、どうしても賑やかになっちゃう。だから、スミちゃんはこっそり息子たちだけに相談していたんだ。

出会った頃は「雲の上の人」

 ぼくらの自宅は神奈川県の二宮町にあって、葬儀も近くの葬祭場で行った。

 スミちゃんが望んでいた通り、とっても静かな普通のお葬式でさ。参列したのは息子たち夫婦と孫、ずっと彼女の看病をしてくれていた義妹、それからぼくの10人くらいだった。まァ、そのときはコロナ禍だったから、どちらにしても大勢の人を呼ぶわけにはいかなかったのだけれど。

 スミちゃんは息子たちの「母ちゃん」だったけれど、じゃあ、ぼくにとって彼女はどういう人だったんだろう?

 そう聞かれてすぐに思い浮かぶのは、「スミちゃんはずっと、世話になった姐(ねえ)さんみたいだった」という言葉かな。

 ぼくが彼女に出会ったのは、18歳で浅草の東洋劇場に入ったときだった。

 スミちゃんは劇場の踊り子さんだった。それも一番人気の看板女優だったんだよ。新人のぼくは話すことはもちろん、目を合わせることもない「雲の上の人」。

首にかけていたネックレスを……

 ところが、コメディアンとして舞台に出るようになって、3年ほどが経ったときのことだ。

 ぼくは師匠の一人・東八郎さんから、「そろそろ欽坊も一人前になってきたから、1年くらい地方でドサ回りをして来なさい」と言われた。若手が必ず通る道で、先輩のいない地方巡業で自分の力を試してこい、というわけだ。

 それで浅草から旅立つとき、年の近いコメディアン仲間の1人が送別会を開いてくれたの。

「でも、俺たちには金がないから、いちばんお金を持っていそうな人を呼ぼう」

 彼がそう言ってシャレのつもりで呼んだのが、スミちゃんだった。

 その日、ぼくらは3人で食事をした。お酒を飲まないぼくは黙ってばかりだった。ところが、会がお開きになり、夜道で「さようなら」とお別れをしたときだ。少し歩くと、スミちゃんが後ろから声をかけてきた。

「あ、欽ちゃん、ちょっと待って」

 そう言うと、彼女は首にかけていたネックレスを外し、それをクルクルっと指で巻いてから、ぼくの方に投げたんだ。

「お金に困ったら質屋に入れたらいいよ!」

 いま思えば、ぼくはその仕草に惚れたんだろうな。嬉しい人に会った、と思った。何とも惹きつけるものがあった。

 ドサ回りの修業中、ぼくはそのネックレスをいつもポケットに入れていた。触る度に、「ああ、ここにスミちゃんがいるなァ」と思ったものだよ。

「これからはテレビの時代だから…」

 旅回りから帰ってきてからも、スミちゃんは何かとぼくを気にかけてくれてね。家賃を払ってくれたこともあったし、「これからはテレビの時代だから、勉強した方がいいよ」とテレビをアパートに持ってきてくれたこともあった。

 そう言えばあるとき、舞台を終えた彼女が酔っ払って、夜中に浅草のぼくのアパートに来たことがあった。彼女がお布団に寝て、ぼくは柱に寄っかかって寝たんだけれど、その朝にご飯を作ってくれてさ。

「こういうのは結婚をしているみたいじゃないですか」

 そう言ったら、彼女は明るく笑ってこんな言葉をくれた。

「欽ちゃんが有名になりそうだから応援しているだけ。いつか可愛い女の子と結婚するんだよ」

 それからもう一度笑った彼女の笑顔を、今でもよく覚えているんだ。

妊娠がわかると姿を消した

 ぼくがスミちゃんと結婚したのは、それから何年か経った頃だった。

 当時、コント55号で人気が出たぼくは、テレビ番組の視聴率も絶好調で、今のアイドルみたいに人気があった。周りに素敵な女性も現れるようになって、結婚も考え始めた。でも、その前にスミちゃんにお礼を言わなきゃいけない、と思っていたの。

 それで彼女に会い、「有名になってお金も入ってきたから、恩返しをしたい」とぼくは言った。そうしたら、スミちゃんは首を振るばかりでね。

「私はなーんにもいらない。そんなつもりじゃないんだから」

「でも、何か欲しいものはないの? お店をやりたいとかさ」

 すると、彼女はこう言った。

「そうだなあ。子供かな。私も子供を1人くらい育てられたらいいなって思っている。それだけよ」

 ぼくはその日、彼女に初めて抱き着いた。そうしたら本当に子供が出来ちゃったんだ。

 ところが、困ったのはその後。スミちゃんは妊娠したことが分かると、ぼくの前から姿を消しちゃったの。ある日、「生まれた子に名前を付けて」と電話がきて、それっきりどこに住んでいるのかも教えてくれない。

 彼女はぼくが人気者になったのを見て、「私なんかと結婚したら仕事の邪魔になる」と思ったようだ。父親を早くに亡くしたスミちゃんは、母と妹の生活のために新潟から東京に出てきて、浅草で踊り子になった。つらいこともあっただろうし、いろんな思いがあったんだろう。

記者会見で「実は結婚しているんです」

 でも、ぼくの方はそういうわけにはいかない。それで、ある週刊誌の知り合いに相談して、記者会見を開くことにしたの。NHKの記者クラブでぼくは自分に子供がいること、その人と結婚することをカメラの前で喋った。

「実は結婚をしているんです」

 会見ではそう言ったけれど、実はそれがスミちゃんへのプロポーズの言葉だったんだ。

 そのとき、スミちゃんはお母さんと一緒に、会見をテレビで見ていたそうだ。突然、自分の名前が出てきて、ぼくが「結婚をしている」と言ったものだから驚いた。

 どうにか居場所が分かって会えたとき、

「何か問題があるなら、ぼくは芸能界を辞めてもいいと思っている。だから、一緒になろう」

 と、ぼくは言った。

 スミちゃんはとても怒っていたよ。

「せっかく有名になれたのに、そんなことを言っちゃいけない」って。

 そうして結婚して以来、スミちゃんはずっとぼくの「姐さん」であり続けた。彼女は「男は仕事をしなさい」といつも言っていてさ。そうやって家庭を守ってくれたから、ぼくはいつも「笑い」のことだけを考えることができた。そして、週末に二宮の家に帰ると、彼女は必ずお化粧をして迎えてくれてね。

 でも、デートらしいデートもしたことがなかったんだ。二人で家の近くの畑を手をつないで十分歩いたくらい。

〈 「嬉しい言葉を聞かなきゃ帰れないよ」欽ちゃんが初めて明かす がんで亡くなった妻との最後の会話 〉へ続く

(萩本 欽一/ノンフィクション出版)

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