「まるで醤油をひっくり返したような…」長女(53)の部屋の入口から液体が垂れていると連絡が…高齢の両親が目の当たりにした“想像を絶する光景”
文春オンライン / 2024年9月29日 11時0分
※画像はイメージ ©Hakase/イメージマート
〈 「ひょっとして、俺の身体、臭うかな?」家はゴミ屋敷、15年間ずっと無職の兄(55)の生活を立て直したい…20年ぶりに再会した妹の“決心” 〉から続く
現代の日本では、年間約3万人の人が孤独死すると言われている。そしてその8割が、生前からゴミ屋敷や不摂生の中で暮らす“セルフネグレクト”状態に陥っているという。誰にも助けを求めることなく、そのまま死に至ってしまう人々の行為は、まるで緩やかな自殺のようにも感じられる。
ノンフィクション作家の菅野久美子さんは、そんな孤立した人たちに共感を示す。どんな「生きづらさ」がそこにあったのか。
ここでは菅野さんの『 超孤独死社会 特殊清掃の現場をたどる 』(毎日文庫)より一部を抜粋して、姉の「おーちゃん」の異変に気付くことができなかったという井上香織(仮名・42歳)さんの事例を紹介する。(全4回の3回目/ 最初から読む )
◆◆◆
あの日から繰り返し見る夢
深紅のヴィッツがこちらに向かってやってくる。いつも見慣れたおーちゃんの車だ。
大きいお姉ちゃんだから「おーちゃん」だ。井上香織は慌てて、車の前に立ちはだかろうとする。
「おーちゃん、待って! お願い。行かないでぇ」
香織は力を振り絞って大声を上げるが、ヴィッツのスピードは全く落ちることなく、凄まじい勢いで香織に向かって突進してくる。
運転席に座っているはずのおーちゃんは、なぜだか顔が見えずに表情はうかがい知れない。ヴィッツは香織のことなど目に入らぬように、アクセルを踏みしめ、どこか遠く彼方を目指しているように闇の中に疾走していく。いつものおーちゃんなら、絶対にそんなスピードを上げたりはしない。一体なぜそんなにスピードを上げる必要があるのか、おーちゃんがどこを目指しているのか、香織には全くわからない。しかし、香織は、漠然ともう二度とおーちゃんとは会えないような気がした。
「おーちゃん、そんなに私のことが嫌なんだ。私を轢いてまで逃げたいんだ……」
轢かれる‼ と思った瞬間、ハッと目が覚めた。全身に冷や汗をかいて、体が震えている。握りしめた手には、じっとりとした汗をかいていて、全身の汗を吸ったパジャマはベトベトになっていた。
――また同じ夢を見ちゃった。
香織はため息をついた。枕元の時計を見ると、5時前を指している。
ボーッとした頭で、ふと床に目をやると、白のカーペットローラーが無造作に転がっていた。おーちゃんの住んでいたゴミ屋敷の中から見つけたもので、これはまだ使えると思って、自宅に持ち帰ってきたものだった。
おーちゃん、今、どこにいるんだろう。おーちゃん、今、何してるの?
夜明け前の薄暗いマンションの中で、香織はぼんやりとそんなことを考えた。
「娘さんの住むマンションの廊下に液体が垂れていて…」
香織の姉である井上明美(仮名・53歳)が失踪してから、2年目の夏が過ぎようとしていた。
中部地方の某市郊外――。国道沿いにポツリポツリとファミリーレストランやドラッグストアが建ち並ぶ、どこにでもある日本の地方都市の風景が続く。
緑の稲がそよぐ田んぼに太陽がぎらぎらと照りつけて、まばゆい光を放つ。通り過ぎるだけの人から見れば、のどかで単調で、あくびが出そうなほどの陽気に包まれている。
おーちゃんは3人姉妹の長女で、地元の高齢者向け病院に介護福祉士として勤務して、20年になる。現在独身。
明美と香織は11歳離れている。香織にとって、大きいお姉ちゃんだから、おーちゃん。次女の瑠璃(仮名)は、ちいさいお姉ちゃんだから、ちいちゃん。おーちゃんが大好きだった少女マンガの登場人物の愛称から取ったもので、物心ついたときから香織はずっと長女の明美のことをそう呼んでいた。
おーちゃんは20年にわたって、家族の誰にも知られずに、ゴミ屋敷の中で生活してきたらしい。「らしい」という、曖昧な表現になってしまうのは、一体いつからおーちゃんの家がゴミ屋敷になったか、正確には誰にもわからないからだ。
おーちゃんの住むマンションの管理会社から、保証人である父の清(仮名・85歳)のもとに1本の電話があったのは、2017年6月17日のことだった。清は、高校の元教員で、定年を迎えてからは、もっぱら近所の図書館に通い本を読むのが日課で、その日も車で向かおうとしていた。
「お宅の娘さんの住むマンションの廊下に液体が垂れていて、ご近所からクレームが来ている。すぐに来て、掃除して欲しい」
電話口の男性は少し困ったような声で、清にそう告げた。明美とは3カ月前に孫の太鼓の発表会を見に行った際に会ったきりだったが、その時は元気そうでいつもと変わりなかった。
入口付近には黒々とした“何か”が筋になって流れていた
妻の和子(仮名・77歳)が外出していたため、清は、まず末っ子の香織に電話をすることにした。
次女が同じ市内に住んでいたが、結婚して子供が3人いる。そのため、できるだけ面倒には巻き込みたくなかった。その点、香織は頼りにできた。香織は、20代の頃に離婚をしてからは独身で、個人病院に医療事務として勤めながら、実家の近くで一人暮らしをしている。休日にはよく帰ってきて、高齢となった自分たちの世話を何かと焼いてくれるのだ。
その日の夕方、仕事が終わったばかりの香織に事情を説明して、清と香織はおーちゃんのマンションに向かった。実家から車で15分ほどの場所に、おーちゃんの住んでいるレンガ模様のサイディングが張られたマンションがある。
おーちゃんのマンションの中まで入ったことは最近なかったが、毎年行く家族旅行や食事会などでおーちゃんをマンションの前まで送り迎えすることはあった。だから、家族の誰もが、1997年に建てられたその鉄筋コンクリートの4階建てマンションへの行き方を知っていた。
おーちゃんの部屋はマンションの1階角部屋である。
まず、目についたのは、部屋の入り口付近に放射線状に広がった液体だった。
ドア下のわずかな隙間をつたって、共有廊下のコンクリートのほうにまで、まるで醤油をひっくり返したかのような黒々とした液体が、筋になって流れていた。
その液体は、タールのように粘り気があり、果たして油なのか血液なのか、香織と清には見当もつかなかった。
父娘は、これはただ事ではないと感じ、掃除道具を取りに一旦家に帰ることにした。
バケツとモップと金ダワシを持って慌てて戻ると、2人で得体のしれない液体を何度もごしごしとこすり続けた。しかし、ゼリー状のドロドロとした粘着質の液体は、どんな洗剤を撒いてもなかなか落ちなかった。
その間に、香織は、おーちゃんの携帯に何度も電話した。だが、部屋の中にいるのかいないのか、留守電になって繋がらない。そこで勤務先に電話すると、おーちゃんは昨晩から夜勤のシフトで、早朝に職場を出たことがわかった。そして、翌18日のシフトは休みになっていた。
部屋の中は想像を絶する光景が…
その日は、すっかり日が暮れてしまったこともあり、翌朝、再びマンションの掃除に訪れることにした。
――おーちゃんと連絡もつかないし、もしかしたら部屋の中で倒れているかもしれない。
そう感じた香織と両親は、翌日の6月18日の午前中には、最寄りの派出所へ相談に行った。警察官に事情を説明すると、緊急を要する事態かもしれないとのことで、昼過ぎには、刑事課所属の男性警察官2名と、管理会社の社員がマンションにやってきて、一家と合流した。
管理会社の社員が、警察官に鍵を渡す。管理会社によると、このタールのような液体はゴールデンウイーク頃から、徐々に漏れ出ていたという。見かねた近所の住人が管理会社に相談したが、物件の契約者の携帯に何度電話しても連絡がつかないので、やむなく保証人である清の自宅に連絡したとのことだった。
警察官は、鍵穴に合い鍵を差し入れて回して開けようとした。しかし、ドアノブの鍵は回らず、びくともしない。何か得体のしれない凄まじい力が向こうから押し返しているようだった。
なぜ、鍵が回らないのか、一同は首をかしげずにはいられなかった。そこでベランダ側のガラス窓に目をやると、ストライプ柄のカーテンが内側にある何らかの物体で圧迫され、ガラス窓の上部にまでベタリと張りついているのがわかった。恰幅の良い警察官は、何かにピンときた様子で、「こりゃ相当溜まってるなぁ」とつぶやいた。
警察官が「いっせーのせ」と全体重をかけながらドアを押し、何度も鍵穴を回した。
すると「ガチャガチャ」という音がして、ようやくドアが開いた。そこには、想像を絶する光景が広がっていた――。
大人の胸のあたりまで積もっていたのは、カラフルなゴミの山だった。
ゴミは警察官がドアを開けた瞬間、ダムが決壊したかのように、暴力的に崩れかかってきた。それは、まさに怪物が不意の侵入者に対して、襲いかかる姿そのもののようであった。
母の和子は、後ろの方でその様子を窺っていたが、ドアの向こう側の光景を見るなり、あまりのショックでクラクラと一瞬、意識が遠のくのがわかった。膝がガクガクとして、体中の震えが止まらない。腰が抜けてしまい、思わずその場にへたり込んでしまった。
――明美、ほんとうに、毎日ここに帰ってきて、寝てたのかしら。お母さん、どうしてもっと早く気がついてあげられなかったんだろう。ごめんね、ごめんね、ごめんね。
心の中ではそう思ったが、それは発話されることはなく、うぅーという声しか出なかった。
和子はこの瞬間に、これまで色彩のあった世界が、突然プッツリと色がなくなり、視界がグレーに変化したのを感じた。この日の記憶は途切れ途切れで、断片的にしか覚えていない。
それほどまでに、目の前に広がる光景は、和子には受け入れがたいものだった。
香織はそんな母の様子を目の当たりにして、これ以上は見せられないと思い、「お母さんを車に連れて行って!」と清の腕を掴んだが、清もまるで人形のように呆然とその場に立ち尽くし、香織の声など聞こえていないかのようだった。
〈 「大量の使用済みおむつや生理用品が」「ゴキブリの糞がびっしり」音信不通になった長女(53)の“ゴミ屋敷”で家族が見つけた意外なものとは… 〉へ続く
(菅野 久美子/Webオリジナル(外部転載))
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