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“生け捕り部屋”で暴力、局部に“通電”も…拷問を受けた元部下が明かす、死刑囚・松永太との想像を絶する生活〈北九州監禁連続殺人〉

文春オンライン / 2024年9月27日 17時0分

“生け捕り部屋”で暴力、局部に“通電”も…拷問を受けた元部下が明かす、死刑囚・松永太との想像を絶する生活〈北九州監禁連続殺人〉

中学生時代の松永太死刑囚(中学校卒業アルバムより)

〈 「正座させた状態で足を…」想像を絶する拷問で7人を嬲り続けた松永太死刑囚の恐怖支配〈北九州監禁連続殺人〉 〉から続く

 計7人が殺害(うち1人は傷害致死)された「北九州監禁連続殺人事件」。主犯の松永太死刑囚(逮捕時40)は、かつて福岡県柳川市でワールドという布団訪問販売会社を経営していた。そこには、事務員として働く共犯者の緒方純子無期懲役囚(同40)の姿もあった。

 1992年10月、ワールドの経営破綻を受けて、柳川市から逃げ出した松永と緒方に同行した元社員の山形康介さん(仮名)は、潜伏先の北九州市で、93年1月中旬頃に2人の下から逃走した。そんな彼に在りし日のワールド社内での、暴力の実態について聞いた。(全2回の2回目/ 最初 から読む)

殴る蹴るから始まった“生け捕り部屋”の社員への暴力

「私がワールドに入って1週間もせんうちに、私より前からいた2人の社員が、坂田(仮名)から暴力を振るわれよる姿を目にしました」

 ここに出てくる坂田さんとは、松永と一緒にワールドを立ち上げたという上司の社員。そして前からいた2人とは、山形さんがワールドに入社した段階で、通称“生け捕り部屋”という12畳の部屋にいた、武田さん(仮名)と野間さん(仮名)という社員である。

「まだ最初のうちは通電とかはなくて、ビンタとか、まあそんな感じでした……」

 そこで私は、山形さんが最初に受けた暴力は誰からだったかを尋ねる。

「うーん、誰やったかな。……野間やったと思う。たぶん、なんか野間にとっての殴る理由があったと思いますね」

「暴力は殴ることだけでしたか?」

「最初は殴るとか……。グーだったり平手だったり。まあ、それに蹴るが加わったり……」

「松永は暴力については、直接手を出さなかったんですか?」

「坂田がおるうちは坂田に指示して、暴力を振るわせていました。けど坂田が逃げ出してからは、自分でするようになっています。松永と坂田は一緒に会社を立ち上げたと聞いていますけど、関係性でいえば、親分と子分です。松永が親分で、坂田は子分でした」

 坂田さんがワールドから逃げ出したのは86年4月頃のこと。ちなみに、武田さんは85年8月頃に、野間さんは88年5月頃に逃走している。

電気コードの針金を押し当てる“通電”という虐待

 これらの社員が在籍していた85年4月頃、松永はワールドの経営が苦しいにもかかわらず、自宅があった場所に、事務所兼自宅の3階建てワールド本社ビルを新築している。

 後に松永と緒方によって殺害された7人に対して使われた、虐待の手段である“通電”は、このワールド本社ビルが完成した1カ月後、つまり85年5月頃から、同ビル内で頻繁に行われるようになった。

 02年に逮捕された松永と緒方に対して、福岡地裁小倉支部で開かれた彼らの一審では、検察側が“通電”について以下の説明をしている。

〈松永は、昭和60年5月ころ、野間が山形に対し電気コードを二股に割き、むき出しにした針金を腕等に当てて通電したと聞き知るや、自らも同様の方法で、野間、武田、山形ら従業員らに対し、その手足、胸、背中、肩、顔面等に通電したり、従業員ら相互に通電させたりするようになった〉

“通電”は手や足、額や局部にも…

 山形さんは言う。

「本社の方で俺がなんか粗相をして、こっちに居れと、会社が借りていたO町のアパートにいたんです。そこで野間が遊びの延長で俺に伸びた電線の片方を握らせて、もう一方の端を俺の腕に当てた。そうしたら、腕の筋肉が硬直してピクピクってなるじゃないですか、それが面白かったみたいです。それで腕から、今度は足のふくらはぎに場所を変えたりするようになって……」

 山形さんが通電によって昏倒したことで、松永は楽しそうに「それ、いける」と笑い転げ、以来、ワールド社内では通電が虐待に加えられることになった。

 従業員への懲罰で、松永から「デンキをしろ」との声が上がる。するとその他の社員が、当該社員の身体を押さえつけて器具の準備を始め、通電の虐待を加えていたのだ。

 しかも、何度も繰り返すなかで、できるだけ傷を残さず、命までは奪わないようにと、まるで研究のように人体のあらゆる場所へと通電を行う「改良」の作業が行われていた。

 かつて山形さんは私に語っていた。

「私は手や足だけでなく、額や局部にもデンキをやられました。延べで100回以上はやられました。手や足は電流が流された途端に硬直するような感じで、やがて電熱線のように熱せられたコードが皮膚に食い込み、焼けただれます。

 額はいきなりガーンと殴られたようなショックがあります。局部はもう言葉に表せません。蹴られたとき以上の衝撃と痛みでした。松永だけでなく、それをやる他の社員もニヤニヤと嬉しそうにやっていました……」

膝にくるぶしに腕に…今も残る“通電”の痕跡

 さすがに心臓の近辺は命にかかわる危険があるということで、通電することは避けていたそうだ。

 そこで私は山形さんに質問する。

「まだ傷は残っているんですか?」

「残ってますね」

「見せてもらうことは可能ですか?」

「あ、いいですよ」

 私は過去に何度か山形さんに、通電によってできた傷を見せてもらっているが、久しぶりのことだ。彼は93年1月以来、松永とは顔を合わせていないため、今回のものは約31年前までの虐待の痕跡ということになる。

 最初に山形さんが見せてくれたのは、右足の膝の裏側。幅約1.5cmのタイヤ痕のようなケロイドがはっきりと残っている。

「ここに巻いた電気コードが熱を持った際にできた火傷ですね。もう一方はどこか体の別の部分に当てたんでしょう。同じようにあるのが……」

 そう言うと、彼はくるぶしを指差した。そこにもはっきりと、電気コードを巻きつけた際にできたような痕が残っていた。

「あと、腕の方かな……」

 右腕の肘から手首に向かって7~8cmの位置で、周回するように、梱包用ロープを巻いた痕の如きケロイドが残っている。

 それらは、たとえ30年の月日が経とうとも消えない、過去の恐怖と痛みを記録した「刻印」のようでもある。

指を背面に反らされて、今も左右の指を真っ直ぐ伸ばせない

 通電の痕跡を撮影する私に対して、山形さんは切り出す。

「それからねえ、俺、左右の指が真っすぐ伸ばせないんですよ」

 そう言うと、左右の指を目の前に並べた。見ると、左右の小指の第二関節が、いびつな形状で隆起している。

「これはねえ、剥離骨折で真っすぐならんようになったんです。こうやってね、何度も後ろ側に反らされたわけです」

 山形さんは左手で右手小指を握ると、背面に反らすような状況を作って見せた。尋ねると、いずれも坂田さんにやられたという。

「社内で布団の売上の目標を立てて、1週間でどれだけというのを達成できなかったときにやられました。松永も自分でやるのは面倒くさかったんやろうね。坂田が逃げ出すまでは、自分でやらずに坂田にやらせてました」

 従業員は全員、松永について怖いという印象を抱いていたと山形さんは語る。

「全員、松永の前では直立不動の姿勢でしたから。坂田とか、他の従業員からも怖い人やって聞いとったし……」

最後まで残った社員・山形さんはなぜ逃げなかったのか

 山形さんは「そういえば」と前置きして、過去に起きたことを口にする。

「俺が野間と営業で北九州に行ったときに、野間が逃げ出したんですね。高速の下に車を停めたときに、野間が『ちょっと小便に行ってくる』と言って、そのまま帰って来なかった。そのときは、会社に帰ってから、『お前が逃がしたんやないか』と松永に問い詰められました。最初は言葉で言いよって、そのうち蹴られて。で、最後はデンキを流されました。けど、知らんもんは知らんしね……」

 前述しているが、これは88年5月のことである。そして緒方を除き、唯一、会社に残った山形さんは、93年1月の自身の逃走まで、松永のそばにいた。なぜ逃げなかったのか、山形さんは以前の取材で私に語っていた。

「家族に危害が及ぶことが怖かったのと、自分自身も逃げ出して、もし見つかったらと思うと怖かったのです。それとあと、わずかながら松永に対する尊敬の気持ちも残っていました。そうした事情が重なり、逃げ出せなかった」

親からの仕送りが途絶えて用済みになる前に逃走を

 92年10月に松永らと柳川市から遁走する際も、山形さんは本当の理由を知らなかった。

「私はちょっと旅行に行くくらいに思ってましたから。ただ車は幌付きの1屯トラックやったからねえ……。(松永と緒方の)2人は運転席でなく、トラックの荷台に乗ってました」

 行き先はまず石川県の七尾市だったが、最終的には福岡県の北九州市に辿り着く。その理由についても、山形さんはまったく聞かされていない。

 なぜ山形さんは北九州市で松永のもとから逃走したのか。松永らの裁判では、洗車ブラシで頭などを殴られるなど、〈被告人両名(松永と緒方)が山形に対し暴行や虐待を繰り返したため、山形はこれに耐えかね〉逃走したとあるが、それだけではなかったようだ。

「それまでうちの母親から送ってもらったカネを松永に渡していました。けど、親もそろそろ限界やろうし、親からの仕送りが途絶えたら、俺は用済みやろうなって思ったんです。で、荷物をいろいろ見よったら、どっちのかは知らんけど、本の間にまとまったお金があった。で、それをネコババして逃げました」

裁判が始まっても「シャバに舞い戻るのではないか」と恐怖が…

 金額は10万円くらいだったという。朝方に部屋を抜け出した山形さんは、まず小倉駅を目指して約5kmの道のりを歩いて移動した。続いてそこから、JRで佐賀駅へと向かう。

「佐賀を選んだのは、実家の所有権がどうなっているか気になっていたからです。松永に取られていないか、と。それで実家には寄らずに、法務局で家の登記を調べました。そうしたら、名義は親のままだったので安心して、駅の近くのホテルに泊まりました。親にこれ以上の迷惑をかけたくなかったので、電話もしなければ、実家にも立ち寄っていません」

 その後、山形さんは福岡市で住み込みのパチンコ店での仕事に就く。実家に顔を出したのは、それから1年以上経ってからのことだ。

「やっぱり松永が執拗なことは知っていますからね。すぐには実家に戻れませんでした。松永らが北九州市で起こした事件について知ったのは、福岡市でトラックの運転手をしていたときのこと。アパートに警察が訪ねて来て説明を受けて、ああ、そこまでいってしまったんだ、ヘタ打ったんだな、と思いました。昔から近くにいて、松永は自分では手を下さんし、やったとしても痕跡は残さん男でしたから……」

 山形さんは、松永らの裁判が始まっても、彼の狡猾さなら、裁判で無罪になってシャバに舞い戻るのではないかと恐れていた。それは松永の死刑が確定するまで続いたという。

(小野 一光)

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