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朝ドラなのに主人公・糸子が岸和田から動かない…“異色の朝ドラ”『カーネーション』で尾野真千子と夏木マリが体現したものとは《まもなく再放送が開始》

文春オンライン / 2024年9月22日 18時0分

朝ドラなのに主人公・糸子が岸和田から動かない…“異色の朝ドラ”『カーネーション』で尾野真千子と夏木マリが体現したものとは《まもなく再放送が開始》

伝説と化した「オノマチ編ラスト」の127話。糸子(尾野真千子)は岸和田に骨を埋めることを誓う(NHK公式サイトより)

〈 《再放送が開始》『カーネーション』はなぜ朝ドラ史上最高傑作なのか 簡潔なのに、ズバッと芯を食う「名台詞」の破壊力 〉から続く

  9月23日(月)から再放送が始まる『カーネーション』は、脚本家・渡辺あや氏の“イタコ”的「台詞力」もさることながら、構成面にも唸らされることばかりだ。

  よく、映像作品への評価として「伏線回収の妙」とか「群像劇として優れている」というような言葉が用いられるが、この名作には通用しない。「小原糸子というひとりの人物が大阪は岸和田で生まれ、育ち、生きて、生涯を終えた」その周囲の様子、社会の様子が「生身」のものとしか思えないからだ。(全2本の後編/ 前編 を読む)

渡辺あやの「作家性」を活かした朝ドラ

  制作統括の城谷氏は、連続ドラマに初挑戦、それもいきなり朝ドラ、という渡辺あや氏を脚本に抜擢したが、企画採択者たちにも《その筆力を疑われることはありませんでした》としたうえで、こう続けている(洋泉社『連続テレビ小説読本』)。

〈『朝ドラ』というひとつのジャンルのなかに渡辺さんの表現を収めきれるのか、というような、プロデューサーの私に対する不安のほうが大きかったようです。それを払拭するために、シリーズの最後までの詳細なプロット、プランを書いて提出したりしました。

 

  僕は、朝ドラは“連続ドラマってこんなもん”“こうすれば視聴者が掴めるんだ”という小手先の技術論が通じない世界だと思っています。テクニックで見せるものではなく、毎日送り届けるもののなかに『伝えたい大切なこと』をどれだけ落としこんでいけるかということがテーマです。〉

  渡辺氏の類稀なる筆力と、力強く下支えするスタッフの叡智が響き合って、あの見事な構成が出来あがったことがわかる。スタッフは渡辺あやという「作家性」を最大限に活かし、渡辺氏も「半年間、毎日放送される朝ドラに求められるもの」に全身全霊で応えた。

岸和田に根を下ろすヒロインが見つけた「自分のだんじり」

  主人公・糸子は、岸和田で生まれ育ち、そこに根を下ろし、岸和田で一生涯を終える。それまで、地方出身のヒロインが東京や大阪などの都会に出る、あるいは再び故郷に帰るという「場面転換」があるのが定番とされきた朝ドラにおいて、『カーネーション』は異色といえる。

  もちろんモデルの小篠綾子さんの人生をなぞった形ではあるのだが、糸子が岸和田から動かないからこそのダイナミズムがあり、場所を動かさないからこその「連続性」がこの物語の要となっている。その鍵となるのが「だんじり」だ。

  第1話は、だんじり祭の日の夜明けからはじまる。祭に出かけていく「大好きなお父ちゃん」を元気いっぱいに見送る糸子(二宮星)。だんじりに熱狂する町の人たち。そんななか、大工方(だんじりの上に乗って軽やかに舞う役目を担う)の泰蔵(須賀貴匡)の母・玉枝(濱田マリ)は心配でたまらず、目眩を起こしてしまう。

  やがて玉枝が「ああなってしまう」理由が、第1話からわかる。こんなところからも、「伏線」などという言葉では表しきれない、それぞれの「人生」がすでに動き出していることが伝わる。

「男勝り」でだんじりが大好きな糸子は、「女にだんじりは曳けない」という抑圧のもと、エネルギーを持て余している。そして、女学校在学中にミシンと出会い「うちのだんじり」を見つける。ミシンで洋服を作ることが糸子の「だんじり」となっていく。

「だんじり祭」が止まった戦中、そして戦後へ

  物語の舞台は、岸和田から一歩も動かない。しかし、毎年9月にやってくる「だんじり祭」を通じた「定点観測」によって、時代や世の中の動きが、ドラマのなかにより鮮烈に刻まれている。『カーネーション』は市井の人たちの日常が反照する時代的・社会的背景の描写が頭抜けており、ことさら戦争描写が屹立しているのだが、そこにもだんじりが一役買っている。

  糸子の憧れであった泰蔵や、幼なじみの勘助(尾上寛之)をはじめとする男たちが次々と戦争に取られていく。だんじりは倉庫にしまわれ、江戸時代から続いてきた「だんじり祭」が止まる。

  父の善作が旅先で突然死し、やがて勘助も泰蔵も、夫の勝(駿河太郎)も戦死してしまう。「曳き手を失っただんじり」に、戦争によってもたらされた喪失感を重ねる作劇が白眉だ。そのだんじりの前で、赤い花びらを土に投げ出して嗚咽する糸子の姿が目に焼きついて離れない。

  戦争が終わり、残された年寄りと子どもの男たちに混じって、糸子の次女で幼い直子も曳かせてもらえることになり、ここにも時代の移り変わりが象徴されている。

  その後糸子が歳を重ね、3人の娘たちが成長し、町や世の中の様子が変わっても、だんじり祭は毎年やってくる。悲喜交々、人生のすべてを乗せて、だんじりは走る。尾野真千子の最後の出演回となる第127話のだんじりの夜は、朝ドラ史、いや、ドラマ史に残る名シーンだ。『カーネーション』という物語に尾野真千子が「呼ばれた」ことに感謝する瞬間は何度もあるのだが、とりわけ127話ではその思いで胸がいっぱいになる。

夏木マリが主人公を演じる「老境編」へのバトンタッチ

  ところで本放送時、あのだんじり祭の夜のシーンが最後となった尾野真千子の退場が寂しすぎて、夏木マリが糸子を演じる「老境編」にうまく乗れなかったという視聴者が少なからずいた。実は筆者もそのクチだった。

  しかし、自分も歳を重ねながら何度も再放送を観るうちに、あの「老境編」こそが、このドラマの作り手の「結論」であり、「解」であるということがわかってくる。こんなところも、冒頭に述べた「観るたびに新たな発見がある」『カーネーション』の深さだといえる。

  時代設定が進んで、夏木マリが初めて登場するシーンで、映像の質感がガラリと変わっていることにドキッとする。「老境編」から、撮影機材もカラーグレーディング(映像の色調補正)も一新したのだろう。

「オノマチ糸子編」ではセピアやオレンジを基調とした白熱灯の下のような映像だったのに対し、「夏木糸子編」の映像は蛍光灯の下のような、青白い質感に変わっている。「老境編」では画角も引きの画が増える。

『カーネーション』は「関係性」の物語でもあると、筆者は思っている。主人公の「老いと死」を描く「老境編」で、映像を現実的で寂寞感のあるトーンに変えたのは、ここから糸子と物語、糸子と世界の関係性が変わる、ということなのかもしれない。

「老いと死」という現実と向き合いながら

  年老いた糸子の1日は、リビングボードにずらっと並んだ家族、ご近所さん、友だちの写真が収められた写真立てをきれいに拭くことから始まる。「相手が死んだだけで、何もなくさへん」と啖呵を切った糸子は有言実行をして、肉体がなくなったからといって何も変わらない、愛しき者たちとの関係を続けていた。

  糸子とあの「宝」たちの関係性は不変だが、糸子と「物語」の関係性は変わった。「オノマチ糸子編」は小原糸子が己の半生を、痛みを伴いつつも懐かしく振り返る「述懐」で、「夏木糸子編」は糸子が「老いと死」という現実と向き合いながら次世代にメッセージを託すパートとなっている。

  老境編で糸子は、岸和田の「ゴッドマザー」のような存在になっていく。「女だからだんじりが曳けない」ではじまった物語で、糸子は人生で起こったすべてを糧にして、あらゆる属性を超越した存在、つまりは糸子自身がだんじりのような存在になっていく。重たく「ごろっ」と動くだんじりは、それでも前に進む。

「死者と生者は『共生』することができる」という死生観

  主人公は死へと向かっていくのだが、テレビの前の視聴者、ひいては人類に希望を与える物語となっているところが「老境編」の凄みだ。『カーネーション』と糸子は終局、属性の壁も、生死の壁さえも打ち破った。

「肉体の死は、終わりを意味するものではない」「死者と生者は『共生』することができる」。これが、この物語がいちばん言いたかったことなのではないか。このメッセージが、東日本大震災が起こった2011年に力強く放たれた。そんなところからもこの作品が「持っている」ものの大きさに慄く。渡辺氏の言葉を借りれば「すでにある物語が見る人に届きたくて」、このタイミングで実現したということだろう。

31の国と地域で放送されてきた『カーネーション』

  最後に、データ的見地から『カーネーション』の「特別さ」を付け加えて、本稿を閉じたい。いまや日常と化した、Xのユーザーが朝ドラの感想をつぶやいたり実況したりするという現象は、『カーネーション』から定着したと言っていい。

  2011年はTwitter(当時)ユーザーが急増した年であり、また、日本語のハッシュタグが使用可能になったのが同年の7月であった。Twitterのトレンドに朝ドラ関連のキーワードが並んだのも『カーネーション』が初めてだったと記憶している。イラストなどのファンアートが盛んに投稿されるようになったのも『カーネーション』からだ。

  それまで「主婦の暇つぶし」という色眼鏡で見られていた朝ドラを、「語る」「考察する」に値する上質なエンタメ作品として周知させた『カーネーション』の功績は大きい。本放送当時、文化人やクリエイターたちが、Twitterで『カーネーション』の熱い感想をつぶやいているのをよく目にしたものだ。そのなかには映像監督の大根仁氏もいた。それから10年後に『エルピス』で渡辺氏とタッグを組んだというのも熱い話である。

『カーネーション』は『おしん』(1983)とならぶ「朝ドラ二大巨頭」と言っていい。それが証拠に、『おしん』と『カーネーション』の2作品ともに、再放送の回数も、世界各国・地域での放送数も、他作品とは一線を画している。『カーネーション』は現在までに合計31の国と地域で放送されており、『おしん』の73の国・地域に次いでいる。2つとも「これが日本を代表するドラマです」と、自信を持って世界に発信できる作品ということだろう。

  再放送開始は9月23日月曜日から。初めて観る方も、何度目かの視聴になるという方も、ぜひ何度でも『カーネーション』の「深み」にハマっていただきたい。

(佐野 華英)

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