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「客から100万円のチップをもらった子もいます」1000人の芸者がいた山梨県の“ナゾの歓楽街”「石和温泉」バブル時代の“凄すぎる熱狂ぶり”

文春オンライン / 2024年11月23日 17時0分

「客から100万円のチップをもらった子もいます」1000人の芸者がいた山梨県の“ナゾの歓楽街”「石和温泉」バブル時代の“凄すぎる熱狂ぶり”

老若男女一緒に浸かった初期の青空温泉(提供:笛吹市)

 昭和の街並みが残る歓楽地を訪ね、人に会い、飲み、話を聞いてきたノンフィクション作家・フリート横田が、一大歓楽地として知られた山梨県の石和(いさわ)温泉を訪れた。往時の繁栄、そしてバブル崩壊後、さらにはコロナ禍を経た現在の温泉歓楽地をどう見たのだろう。(全2回の1回目/ 2回目 に続く)

◆◆◆

老若男女が仲良く浸かる「青空温泉」が誕生した経緯

 甲府盆地の真ん中あたり、ぶどう畑が広がるのどかな農村。

 笛吹川のほとり、柿畑の片隅に、突如として温泉が湧いた。昭和36年のことだった。噴き出すアルカリ性単純温泉はたちまち川へと流れ込み、まだ各家庭に風呂の普及しきらない時代、集落の人々が我も我もと訪れては、河原の石を積んでこしらえた野性味あふれる露天風呂につかった。老若男女が仲良く浸かる「青空温泉」がここに生まれた。

 全国に青空温泉誕生が報じられると、牧歌的な風景はほどなく一変する――。弘法大師が杖を突いたら湧いた霊験ある温泉地には今からはもうなれない。この国が高度成長していく時代に出発した新興温泉地は、由緒や情緒で売る時間を持てなかった。

 全国各地から一旗あげようと続々集まってきた人々がぶどう畑に突き立てたのは、「歓楽の旗」だったのだ。温泉旅館が次々に建てられていくのにとどまらず、ストリップ小屋、ソープランド、成人映画館、そして多くの芸者置屋が生まれ、ネオンを輝かせるクラブやスナックも次々と出店していった。

 新宿から特急あずさ号で2時間もかからないアクセスの良さ、大型観光バスを連ねて乗り付けられる広々した温泉旅館・ホテルの連なる石和温泉は、企業経営者たちにも好まれ、社員旅行の定番地として一挙に名を響かせていったのである。社員たちの日頃の疲れを癒した歓楽とは――。

バブル最盛期、多くは男が訪れていた

 私は昭和の温泉地を歩き、人に会い、話を聞いた。

「昔の石和は、まあ正直にいって、女性のお客様はお断りすることもありましたね」

 その時代を知るあるホテル経営者は、苦笑した。昭和後期に連れられてきた社員たちは、多くは男たち。

 金の鉱脈ともいえた温泉湧出よりわずか十余年。石和は繁栄を続け昭和49年には芸者480人(※1)にも上り、その10年後、バブル前夜の昭和59年には600人強にまで達したとの記述も残っている(※2)。

 そしてこの国の歓楽街が空前の熱狂をみせた昭和末期、バブル最盛期の石和の夜はどれほどのものだったのだろう。

30歳過ぎで芸者になった女性が語る、石和の夜

「芸者600人? とんでもない、1000人いたんですよ。温泉街のあの通りね、人が多すぎて車の行き来ができないくらい。石和は『女性の街』です。要は……色町」

 元芸者であり、元置屋経営者でもある女性に出会った。花田千恵子さん。昭和24年生まれの74歳。ここは昔の芸名、ぽん太と呼ばせていただく。

 ぽん太が芸者となったのは、この道では遅咲きの30歳過ぎのとき。深い事情があったわけではない。置屋の「お父さんお母さんをよく知っていたから」、静岡市から身一つでやってきても怖さはなかった。むしろ、石和駅(現・石和温泉駅)に降り立ったとき、「あんまり田舎で帰ろうと思った」ほど。

 ぽん太はまだ石和の夜の顔を見ていなかった。ときは昭和61年。バブル景気に突入し、繁栄をきわめていく歓楽地に、知らず知らずのうちにおのれの身を投じていた。ほどなく知ったのは、数十軒の見番(けんばん)のもとに連なる芸者置屋が、ゆうに100軒はあったこと、各置屋には数人から10人程度が所属し、すり鉢の底のような土地に総勢1000人もの芸者がいたこと。

日暮れともなれば浴衣姿の男たちが通りにあふれた

 ぽん太の言うあの通りとは、温泉宿の並ぶ、東西約1.5キロの一本道「湯けむり通り」を指している。昭和の終わりごろ、日暮れともなれば浴衣姿の男たちがあふれ、旅館からつっかけてきた下駄の音がうるさいほどにあたりに鳴り響いていたという。

 いま会話していても軽妙なテンポが心地いいぽん太は、すぐさま人気芸者となる。日本経済の隆盛がそれを支えた。

「あのころ、毎日指名が入って1か月全部のお座敷が埋まったこともありました」

 客は三多摩地区や千葉、埼玉など首都圏に住む開業医や自営業の社長などが多かったという。小さな内装会社の社長などはぽん太を気に入り、社員数人を連れ毎年社員旅行に石和を訪れ、彼女を指名するようになった。紅灯が消える夜はなかった。たった1日だけ、全部キャンセルが出た日がある。

「天皇陛下が亡くなられたときですね。あのときだけ」

 昭和64年1月7日、昭和天皇崩御。昭和が終わった瞬間だけを休息日にして、温泉地の熱狂は平成に入っても続いていく。

バブル絶頂期には100万円のチップをもらう芸者もいた

 芸者の道に入って5年ほどが経った平成初頭、バブル絶頂期に独立。元いた置屋からのれん分けしてもらい、芸者置屋「分花ききょう」を開業。プレイングマネージャーとして、自身もお座敷に出ながら、ほか3人の芸者を雇い入れた。最盛期には20人もの女性が所属していた。女性週刊誌に求人を出すと、人は県外からたやすく集まったのだ。客も増え続ける。

「チップが20万、30万とかね。100万もらった子もいます。『ほら、ぽん太と知り合ってからうちの会社はこんなに大きくなったよ』って、20人もの芸者を呼んでくれた社長もいました。働く女の子たちも凄かった。ブティックへ行けば、棚の端から端まで洋服全部ください、とね。そういう子もいたんです」

 社長は、前述した内装会社経営者。個人商店のようにはじまった会社は、社員数十人を雇うまでに成長していた。客側は相当の余裕を持つに至っていた。破格のチップを渡してまわる「太い客」は大抵が不動産業者。この国の土地が本来の価値を越えて狂騰した時代のこと。温泉地の歓楽地も過熱していった。働く女性たちの実入りもとてつもない。ぽん太の置屋もフル稼働しても需要を満たせず、他の置屋に仕事を丸投げしても、まだ電話が鳴り続ける。

老舗旅館の山下氏、「何か間違っていると思うくらいでした」

 昭和後期、石和=芸者だった時代を知る老舗旅館のオーナーもうなずく。

「あの時代、ひと月に置屋に払う芸者の代金が1500万円にものぼったことがあります。うちには離れのような別館もありますが、2、3人の方が貸し切って、芸者を何十人とあげて、仲居さんさえも中には立ち入らなくていい、とかね。従業員1人ずつに5万円のチップをくれる人もいましたよ」

 昭和48年創業の旅館「きこり」の山下安廣氏。石和温泉観光協会の会長もつとめている。実家は大月の材木商で、やはり「歓楽の旗」を立てに先代が石和へやってきた。では……笑いが止まらない時代ですね? 私は意地悪な問いを投げかけてしまったが、

「(これほどの盛況は)何か間違っていると思うくらいでした」

「そういう女の子もいました」石和で“色を売る”芸者も…

 山下氏は苦笑いするだけで否定はしなかった。筆者は就職氷河期世代のため、この時代の盛り場話をきくにつれ、いつもすぐには信じられない思いがするのだが、数々の証言を聞く限り、たしかにこうした一時代があった。聞きにくい質問をぽん太に投げかける。昭和後期の石和を取材した雑誌記事には、ストレートにいって、

――9割までが色を売る芸者であった――

 こうした意味の記述がある。――ぽん太に聞く。ご自身、そして経営していた置屋ではそのあたりどうだったのだろう。

「いや、私はそれは嫌だったから。(芸者置屋の)おかあさんが、三味線、太鼓、踊り、どれも芸達者で。そういうほうへ行こうと思って。まあ、(経営する置屋での)抱え子たちのなかには……そういう女の子もいました」

 それ以上彼女は多くを語らなかった。かわりに、匿名希望の、とある元置屋経営者の女性が証言してくれた。

密室での「遊び」の相場

 バブル期、石和芸者の花代(玉代)は2時間1万4000円ほどだったといい、お座敷のあと、延長料金として花代がいくら加算され続けても気にせず、スナックあたりに連れ出して飲み回る客も大勢いた。一方、お座敷のなかで遊びを完結させる客たちもまた多かった。そうした密室での「遊び」には相場があった。

「ええ。(値段は)決まっていました。ざっくばらんに言えばあの時代、石和はそれが許された街だったんです。最後まで遊ぶなら、別途5万円。泊りは10万円。仕事を終えて帰ってきた芸者は、置屋には玉代だけ詰めれば(払えば)いい。あくまでも(置屋の)おとうさんおかあさんは分からない、という形ですから」

売春は制度化されて定着していた

 売春防止法に抵触しないよう、置屋側では表向き関知しない建前は守りながら、最初に客から連絡が入る段階で、最後まで遊ぶかどうか確認して予約をとる。つまり、売春は制度化されて定着していたわけである。この値段を払えば正規の性風俗店で堂々と遊興できるのに、いつの時代も愚かな男たちは、密かに「芸者と」、という一点に、面白さを見出す。筆者も正直、昭和の男たちの気分がわからないわけではないが。

 芸者が芸でなく色を売ることを昔は「不見転」(みずてん)と言ったが、私が都内のある花街で聞いたところでは、昭和後期は「影(かげ)」と呼ばれていた。匿名女性によれば、石和では――

「裏(うら)、と言っていましたね」

 表座敷、裏座敷、と隠語として使われていたものが、省略されて定着したのだろう。昭和50年代に石和温泉の芸者をレポートした雑誌記事にも用例が見える。

〈(※1)「週刊現代」昭和49年2月14日号
(※2)「週刊新潮」昭和59年10月4日号〉

〈 バブル崩壊で芸者激減、街から人が消えて“シャッター商店街化”…山梨県の“ナゾの歓楽街”「石和温泉」がそれでも衰退しなかったワケ 〉へ続く

(フリート横田)

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