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28歳、人気絶頂の中でバンド解散→16年後に衝撃の再結成…奥田民生(59)が「ユニコーンをまたやれる」と思ったきっかけとは

文春オンライン / 2024年11月29日 17時0分

28歳、人気絶頂の中でバンド解散→16年後に衝撃の再結成…奥田民生(59)が「ユニコーンをまたやれる」と思ったきっかけとは

奥田民生さん ©三浦憲治

 1994年10月、奥田民生(当時29歳)がソロシングル「愛のために」をリリースした。彼はその前年の9月、7年半続けてきたバンド・ユニコーンの解散をラジオ番組『オールナイトニッポン』の特番で突然発表し、ファンに衝撃を与えた。その後はしばらく休むつもりで釣りに熱中したりしていたが、結局半年もすると曲づくりを始め、同曲でソロとして新たなスタートを切ったのである。それから今年で30年が経った。

空想とかそういうものが歌詞のメインになってくる

 当時高校生だった筆者には、100万枚を売り上げるヒットとなった「愛のために」以上に、それに続いて1995年1月にリリースされた「息子」のほうが印象深い。それはたぶん、父親が息子に語りかける形で歌われる同曲に奥田の新境地を感じたからだろう。ちなみに当時の筆者は、この曲は奥田が実際に息子を儲けたことからつくられたものだとすっかり思い込んでいたのだが、彼にはそのころ(そしておそらくいまも)息子などいなかったことをあとになって知った。

 考えてみれば、そもそも奥田はユニコーン時代から、サラリーマン経験がないにもかかわらず「大迷惑」や「働く男」などといった曲でサラリーマンの悲哀を歌っていたのだから、こういう曲を書いても何らおかしくはない。むしろ当人は《きっと子供がいたら、作らなかったとは思うんですよね》、《本当にいたら、想像できないじゃないですか。やっぱり空想とかそういうものが、ぼくの場合、歌詞のメインになってくるんで。(中略)いたら最初っから考えもしなかったと思う》と語っているほどだ(『月刊カドカワ』1995年5月号)。

歌詞の意味よりは音の感触が先

 奥田は曲をつくるとき、完全にメロディが先行し、詞はあとからつけていくという。彼いわく《その曲のメロディが、何かの言葉のように聴こえてくるわけですよ。言葉というより音かなあ。“だな”だけとか“なあ”だけとか。ホントそこから詞を発展させてく場合だってある。だから意味よりは音の感触が先。本来のメロディが何を呼んでいるかが大前提なんですよ。バンド時代からもうずっとそれだけ。まあ、聴く人のイメージが広がってくような詞を作るように意識はしてるけど》(『ダ・ヴィンチ』2000年4月号)。

「息子」の詞も、メロディが跳ねている感じなので、《それで「いじめっこ」とか「いっちょまえ」「べっぴんさん」ってのがハマるんじゃないかと。小さな「つ」が入ってる日本語が入るだろうなと。で、「いじめっこ」という言葉をはめるとしたら、その前後はこういう内容のものになるかなと。勝手に分析してますけど(笑)》と説明している(『月刊カドカワ』1995年4月号)。メロディが先行しながら、あそこまでメッセージ性の高い詞をつくりあげたということに驚かされる。

詩をつけていく中で抱える“葛藤”

 ただ、詞をつけていく作業は、奥田にとってメロディの持つ可能性を狭めてしまうものでもあるという。前掲の『ダ・ヴィンチ』誌でのインタビューでは、《メロディを作った瞬間の喜びがね、詞をつけたときにシューッて小さくなっちゃう感覚はある。もっといろんなイメージを備えたはずのメロディなのに、その言葉に決めてしまわなければいけないってことがね、悲しい。当然、別の喜びもそこから生まれてくるんだけど》と葛藤も口にしていた。

 それでも、奥田のソロ曲が同時代の人たちの心に響いたことには違いない。たとえば、作家の五木寛之は当時、彼に向けてこんな讃辞を送っている。

《「息子」や「愛のために」を聴くと、決して押し付けがましくない、非常にナイーブな人生の応援歌という感じがする。阪神の大災害[引用者注:1995年1月に起こった阪神・淡路大震災のこと]とも結びついて、絶望や無常観から立ち直るために皆が何かをさがしてる時期だからこそ、今までかっこわるいと思われていた励ましの歌が、新鮮に聴こえるのかもしれないね。しかしそれは、力みのない自然な方法でなければ、絶対人の気持ちには届かない》(『月刊カドカワ』1995年4月号)

 五木の言う「力みのない自然な方法」とは、まさに奥田のパブリックイメージそのものだ。現在にいたるまで彼は「肩の力が抜けている」「自然体」あるいは「ダラダラしている」といったフレーズで語られ、とくに男性から熱烈な支持を集めてきた。

PUFFYは「好き勝手にやった」「プロデュースしたって感覚はなかった」

 奥田が初めてほかのアーティストのプロデュースに挑んだ、大貫亜美と吉村由美によるデュオ・PUFFY(1996年デビュー)についても、《好き勝手にやったという感じだったので、プロデュースしたって感覚はなかった》という(奥田民生『ラーメン カレー ミュージック』長谷川誠取材・文、KADOKAWA、2014年)。

小室哲哉が羨ましがった奥田プロデュース

 もっとも、大貫も吉村もそれまでに歌手の経験はなく、奥田に言わせると「あまりに下手過ぎた」のでそれなりに厳しく指導したようではある。その結果について、当人は《そこそこの成果は出せたと思う》と近著『59-60――奥田民生 の仕事/友達/遊びと金/健康/メンタル』(ダイヤモンド社、2024年)で書いているが、小室哲哉のプロデュース全盛期に殴り込みをかけるようにPUFFYを「アジアの純真」でデビューさせると、「そこそこ」どころかミリオンヒットを連発する。

 ちなみにそれから10年あまりのち、奥田のプロデュースを当時どう思っていたのかと訊かれた小室哲哉は、《羨ましかった、軽妙なサブカル的な乗りでできていることが。僕自身、サブカル的なことに憧れていたのに、いつのまにか芸能としか言えない音楽活動の道を辿るほかなかったからですね》と答えている(『AERA』2008年5月5日号)。逆にいえば、そんなふうに奥田を羨望の眼差しで見るほど、小室はあまりに多くのものを一人で抱えすぎたのかもしれない。そう考えると、やはり奥田の身軽さには驚くほかない。

世間でのイメージに対し「本当は肩に力入りまくりです(笑)」

 奥田はPUFFYでヒットを飛ばすなか、1997年には先輩ミュージシャンの井上陽水と、それまで何の当てもなくつくってきた曲を集めて「井上陽水奥田民生」名義でアルバム『ショッピング』をリリース、これもヒットした。その身軽さはさらに、1997年と1998年の2度にわたる「股旅ツアー」を成功させたのち、1998年秋からバックバンドもつけず、生ギター1本で各地をまわった「ひとり股旅」で拍車がかかる。

 ただ、本人は世間でのイメージと実際の自分にギャップを感じているらしい。60歳を前にした最近にいたっても、《『肩の力が抜けていていいですね』とか『自然体で羨ましい』と言われますが……本当は肩に力入りまくりです(笑)。全然抜けてない。ライブで演奏する時、どうやって力を抜くのか、ゴルフの時も力を抜ければもっとうまくなるんですけど。いかに力を抜くのか……これは永遠のテーマです》と語っていた(『週刊文春』2024年10月17日号)。

 むしろ奥田は“力を抜く努力”を重ねてきた、と言うべきなのかもしれない。先にも引用した奥田の著書『59-60』を読むと、彼がいかに年代ごとにステップを踏みながら、「自然体」と呼ばれるスタイルをつくりあげてきたかがうかがえる。

 ユニコーンでデビューが決まり、郷里の広島から何も知らないまま上京した20代はとにかくインプットの毎日であったという。30代はそうやって得た知識や経験を最大限にアウトプットした。先述したPUFFYのプロデュースや「ひとり股旅」といった新たな挑戦もあった。

「ユニコーンをまた続けられる」と思った理由

 そうしているうち確実に経験値が上がって40代を迎えると、「あのときの仕事のやり方は正解だったのか」「いまならもっといいものがつくれるんじゃないか」と振り返るのが楽しみになったという。40代はその上で30代の自分を一度リセットして再起動する時期であったようだ。44歳になった2009年にはユニコーンを再結成した。《俺がユニコーンをまた続けられると思ったのも、自分を再起動して生まれた「空きメモリ」に、ちょうど収まるピースを見つけられたからかもしれない》と奥田は顧みる(『59-60』)。

 そして直近の10年である50代は「最適化」の年代であったという。体力との勝負となり、仕事も「これは疲れるからやめよう」などと取捨選択するようになった。その際のポイントとして「若いときは忙しくてできなかったけど、本当に好きなことをする」と決めており、たとえば、専用車で屋外レコーディングをする「トツゲキ!オートモビレ」というYouTubeでの企画などがそれに当てはまるという。

 ちなみに、この企画で使う専用車「トツゲキ号」は、300万円で買った車の150万円分ぐらいを捨てて、1からつくり直したとか。無駄だとは本人も自覚しているものの、《こういうバカバカしい遊びが楽しいし、俺にとっては大事な気がする》と話す(同上)。

できるだけ無駄な時間は排除したいと思うようになってきた

 ただ、奥田は一方で、60歳を目前にして、自分に残された時間を意識し、できるだけ無駄な時間は排除したいと思うようにもなってきたという。これまでを振り返っても、《経験上、ムダだと思ったものが後で「ああ、すげえ助かった」ってなったことは一度もない》と断言する(同上)。これに対し、「愛のために」では「いちいち道草して行こう」と歌っていたのに……と訝しむファンもいるだろう。だが、彼に言わせると、たしかに自分も道草をすることはあるが、それは「あえてムダを楽しむ」ときで、それ以外の無駄で「やってよかった」と思えることはほとんどないらしい。

 そんなふうに無駄はできるだけ排除しようと、仕事も取捨選択しながらも、実際のところは若いころよりいまのほうが忙しいという。たしかにソロだけでなく、再結成したユニコーンのほか、寺岡呼人ら親しいミュージシャンたちと結成したカーリングシトーンズなどバンドも掛け持ちしていると、時間がいくらあっても足りないだろう。

いい曲を作ろうという気合いは「もうないです(笑)」

『59-60』では《だから40代になってからは1つの仕事にそんなに時間をかけないように、その都度「ひらめき」で仕事をするようになっている》と明かしている。曲をつくるときも入念に準備するのはやめ、「大喜利」のように頭を使っているのだとか。2021年、ユニコーンのメンバーとして応えたインタビューでは、こんなふうに語っていた。

《急に「はい!」って言われて、あたふたしながら作る、みたいなもののおもしろさが、若い頃じゃできなかったし。シトーンズでも、完全に大喜利で、そこで無理矢理ひねり出して、『なんか変なのできたな』と思っても、3回も聴いたら『うん、曲だな』みたいなね。犬にどんな変な名前を付けても、1日経ったら、それはもう名前なのよ》(『ロッキング・オン・ジャパン』2021年10月号) 

 名曲をつくってやるという野心もいまやまったくないようだ。やはり2021年のある雑誌のビートルズ特集では、「曲を作るとき、『ビートルズ超えるようないい曲作るぞ』とか気合いを入れて作るのですか?」と訊かれ、《それはもう三〇代くらいで終わりました。ソロになったくらいの頃ですかね、やっぱこうちゃんといい曲が作れるように当然なりたいと思ったし、それを残しておきたいと思う心がありました。そういう気合いはありました。もうないです(笑)》と冗談めかして答えていた(『kotoba』2021年6月号)。

 もっとも、そう言ってるそばから案外、名曲が生まれてしまったりしそうではある。だからこそ、奥田民生は油断ならない。

(近藤 正高)

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