東京・高円寺、風俗店やガールズバーが多い歴史的背景

Business Journal / 2019年8月17日 7時30分

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 高円寺というと一昔前は大槻ケンジに象徴されるパンクロックの街だったが、今は金髪、長髪、黒革に銀の鋲といった出で立ちのパンク野郎を見かけることもなくなった。昔より普通で静かになり、古着屋巡りをするために結構遠くから若者がやってくる街になった。

 JR中央線高円寺駅ができたのは1922年のことであり、もうすぐ100周年である。23年に関東大震災が起こると、下町や都心部に住んでいた人々が山手線の西側に移住するようになり、それで高円寺も人口が急増した。

 また隣の中野に陸軍があったので、軍人も多く住んだ。高円寺は少尉、中尉、大尉といった尉官、阿佐ヶ谷は少佐、中佐、大佐といった佐官、荻窪は少将、中将、大将といった将官が住むといわれた。サラリーマンでいうと、係長くらいか。だから阿佐ヶ谷や荻窪よりも庶民的である。震災後、高円寺には中央区の佃島の労働者が移住してきたという話もあり、それもあってますます庶民的な雰囲気が街に漂うのである。

 さて戦前の高円寺にはカフェーがたくさんあった。カフェーというのは今のカフェとは違って、むしろ激しめのキャバクラである。女給と呼ばれるホステスがいて、テーブル席の男性客の隣に座りお酌をする。ついでにいろいろ触られる。抱きついたり男性の膝の上に乗ったりする。さらに2階に上がってもっといろいろする、ということも普通にあったらしい。

 だが女給は戦前の人気職業であり、芸者をやめて女給になる人もたくさんいた。10年前、雑誌『小悪魔ageha』が人気だった時代のキャバクラ嬢とか、メイド喫茶のメイドなど、今で言うとそんな感じの流行の職業だったのだ。

 

 私娼窟であった玉の井では、カフェーというのは2階に上がるのが専門のカフェーであって、ちょっとお触りをするくらいでは客は帰らなかったはずだ。高円寺のカフェーがどれくらいだったかわからないが、玉の井と同じような本格的な場所ならもっと記録が残っているはずだし、基本は住宅地なので、もう少しソフトだったのではないか。

 高円寺になぜカフェーが増えたのかはわからない。佃の労働者と一緒に、労働者の慰安のために佃にあった水商売も移転してきたのかもしれない。新宿のカフェーの女給がたくさん住んでいたのは確からしい。ついでにカフェーの経営者も住んでいたのかどうかわからないが、とにかくカフェーがたくさんできた。今でもピンサロやガールズバーが多いが、そういう歴史があるのだ。

「ヤバイ」の語源

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