天皇を狂喜乱舞させた日本初の銅発見 手柄を立てた人物は朝鮮からの帰化人?

Business Journal / 2015年10月21日 6時0分

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 7世紀末の天武天皇の御代、武蔵国北部に多胡羊太夫(たごひつじだゆう)なる人物がいた。そして、次のような伝説が伝わっている。

 羊太夫は八束小脛(やつかのこはぎ)なる従者に名馬・権田栗毛を引かせ、武蔵国から奈良の都をひとっ飛びで往復していた。しかしある時、羊太夫は昼寝をしていた小脛の両脇に小さな羽根が生えているのを面白がり、抜いてしまった。すると、小脛は神通力を失い、朝廷は姿を見せなくなった羊太夫が謀叛を企てていると疑い、討ち取ってしまった。

 実に不思議な話だ。しかし、筆者にはこの逸話が、何かの歴史的事実を暗示しているように思えてならない。

 羊大夫が実在したかどうかには諸説があり、研究者の見解も定まっていない。しかし、羊太夫とおぼしき人物は、いくつかの史料に散見される。

 例えば『続日本紀』には、羊太夫らしき人物が武蔵国の秩父郡から和銅を発見して朝廷に献上したという記述がある。この功によって、羊太夫は藤原不比等から上野国多胡郡の郡司の地位と藤原の姓を賜ったとされている。

 また、群馬県高崎市に残る「多胡碑」という古代の石碑には、「給羊」という文字が刻まれており、これは人名という説も根強い。

 前述の銅の発見は、古代日本におけるエポックメーキングな出来事であった。708年、時の女帝・元明天皇は大喜びし、元号を慶雲から和銅に改めたほどだった。また、100歳以上の農民に籾3石、90歳以上に同2石、80歳以上および家族を失い自立できない者には同1石を贈り、さらに親孝行の子と祖父母によく尽くす孫を表彰し、その名を村里に3年間も掲げたのである。

 日本初の銅の発見が、いかに喜ばれた出来事であったか。大和朝廷の狂喜乱舞ぶりが伝わってくるようだ。

●謎多き羊太夫の正体は?

 しかし、ここで気になることがある。発見者とされる羊太夫とは、そもそも何者なのだろうか?

 秩父での和銅発見より45年前の、663年のこと。日本は朝鮮半島の百済と組んで唐・新羅の連合軍と激突した。いわゆる白村江(はくすきのえ)の戦いである。しかし、日本と百済は大敗北を喫した。そしてその5年後に唐と新羅の連合軍が高句麗を滅ぼすと、百済系、高句麗系の人々が大挙して日本に亡命してきたのである。

 日本は、彼ら帰化人を積極的に受け入れた。それは同盟国という理由だけではなく、彼らの持つ先進的な技術が欲しかったからだと思われる。

 実際、現在の埼玉県北部には古代朝鮮にゆかりのある「高麗」という地名が多く残っている。日高市の高麗神社の祭神は「高麗王若光(こまのこきしじゃっこう)」だが、これは高麗王族ゆかりの人物である可能性が高い。

 716年に大和朝廷は武蔵国に高麗郡を設け、1800人ほどの高句麗人を高麗郡に移住させているが、若光もその時移住した1人なのだ。

 武蔵国での銅発見とほぼ同時期に、朝鮮半島からの帰化人が大挙して武蔵国に移った。これは、歴史的事実と考えていいだろう。

 あくまで伝承の域を出ないが、古代朝鮮の百済国、特に現在の韓国・済州島には「羊」という姓を持つ一族が実在していたという。と、いうことは、羊太夫は鉱山開発技術を持つ旧百済人だったのかもしれない。

 彼は、その技術を生かして和銅発見という大手柄を立てた。しかし、その後の政争に敗れて失脚、歴史の表舞台から姿を消した……。その顛末が、冒頭にご紹介した哀しさを帯びた伝説として、今に伝わっているのではないだろうか。
(文=青木康洋/歴史ライター)

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