本社ビルにはバブリーな貴賓室 大手新聞社「不動産事業でも食っていける」

Business Journal / 2013年8月23日 6時0分

写真

【前回までのあらすじ】
 業界最大手の大都新聞社の深井宣光は、特別背任事件をスクープ、報道協会賞を受賞したが、堕落しきった経営陣から“追い出し部屋”ならぬ“座敷牢”に左遷され、飼い殺し状態のまま定年を迎えた。今は嘱託として、日本報道協会傘下の日本ジャーナリズム研究所(ジャナ研)で平凡な日常を送っていた。そこへ匿名の封書が届いた。ジャーナリズムの危機的な現状に対し、ジャーナリストとしての再起を促す手紙だった。そして同じ封書が、もう一人の首席研究員、吉須晃人にも届いていた。旅行に出ていた吉須と4ケ月ぶりに再会し、吉須から例の封筒について話を聞こうと画策する深井だったが……

 大都新聞社は、日本を代表するクオリティペーパーと自認する最大手新聞社である。

 前身の「東都新聞」は明治5(1872)年、東京・日本橋で創刊された日本最古の新聞だ。明治半ばに大阪進出、「西都新聞」を発刊し、全国紙の体制を整えた。大正に入って、「東都」「西都」に分かれていた題字を「大都新聞」に一本化し、昭和初期に「日々新聞」を抜き、日本最大部数の新聞となった。戦時中は軍部の広報機関のような論調で、国民を戦争に煽りたてた。その路線が部数の拡大に直結、最大手の地位を不動のものにした。

 戦後は軍国主義路線への反省から左に急旋回、経営陣に共産党幹部が潜り込み、大労働争議が起きたりした。民主化を急ぐGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)も、大都の変節を裏で支援し、“民主日本”を象徴するような存在となった。しかし、米ソが対峙する東西冷戦構造の確立で、GHQがレッドパージ(共産主義の追放)に動き、大都自体も再び右旋回。対米協調を前面に打ち出す論調に転換し、政権与党の保守勢力をバックに着実に部数を伸ばしていった。

 そして、平成3(1991)年のソ連崩壊に象徴される東西冷戦の終焉後は、米国の市場原理主義に同調、日本の米国化を推進する論調を鮮明にさせた。つまるところ、大都は機を見るに敏なだけで、一貫した“定見”はなく、鵺(ぬえ)のような存在なのだ。

 戦後日本でジャーナリズムをリードしてきたのは、基本的に全国に同じ紙面(記事)を提供する全国紙と呼ばれる大手新聞3社である。部数で見ると、長年、トップが大都、第2位が国民新聞社、第3位が日亜新聞社という順位が続き、それが大都にクオリティペーパーを標榜するのを許してきた。

 10年前までの部数は、大都800万部、国民700万部、日亜600万部で、5年くらい前までは、収益力の高かった大都と日亜の2社が新聞業界の“勝ち組”と喧伝され、第2位の国民は、一段格下にみられていた。

ビジネスジャーナル

トピックスRSS

ランキング